59 ロ−マ人の手紙 題 「ただ栄光、神にあれと讃美して」 2004/6/6
聖書箇所 ロマ16:21-27
「あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、
イエスキリストによって、み栄がとこしえにありますように」
(ロマ16:27)
今日で約2年間のロ−マ書の学びを終えます。キリストの福音に生きる(1−8)、神のイスラエルとキリストの教会との正しい関係を理解する(9−11)、キリストの愛に生きる(12−16)という3つの主題を学んできました。2年間の間に多くのできごとが教会にありました。説教ではかなり強気のことばを語らせていただいても一人になれば揺れ動きおそれ迷うことも多くありました。しかし、そのたびごとにロ−マ書を開き、聖書から神のことばを聞き、折りにかなった助けをいただくことができました。何度もめくったりしてロ−マ書のペ−ジが一番汚れ、印字も薄くなってしまい、かすみ目になってしまったのかなと錯覚したほどでした。
内村鑑三は、「ロマ書を研究して知ることはキリスト教の特性である。チャルマース博士が言ったように『キリスト教は宗教ではない」。 宗教は人が神を探すこと。しかしキリスト教は人が神を探すのではなく、神が人を求めるのである。「我らが神を愛したのでは神が我らを愛された」(1ヨハネ4:10)ゆえにキリスト教は宗教とはいわず、啓示と称する。思索探求するのでなく、信じ受け入れるのみである。たとえれば、ろうそくや電灯の光は研究して改良する必要があるが、太陽の光はただこれに浴する他に道が無いのと同じである』[1]と語っています。
神が私達に真理と救いを明らかに示してくださったのだから私達は聞いて信じて受け入れ従うことのみが求められています。信仰においてはイニシャチブは常に「神の側」にあります。聖書は「私が」「私たちが」と主張する人間中心の世界に対して「主語はいつも神である」という新しい価値基準を突きつけて私達の古い価値基準を突き破ろうとします。神の前に立たされるたびごとに、私たちはとまどったり反発したり「でもでも」と抵抗したりもがきます。しかし、やがてみことばに首根っこをつかまえられ砕かれてゆきます。神がイニシャチブをとられる恵みの世界へと導かれてゆきます。次のようなみことばによって幾度となく私たちは信仰の視点の転換をはかられてきたことでしょう。
「はじめに神は天と地を創造された」「神が家を建てるのでなければその働きは空しい」「私たちが神を愛したのではなく神が私たちを愛してくださった」「私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選んでくださった」と。
さて、パウロはロ−マ教会へあてた手紙の最後を、神への賛美で結んでいます。少しまどろこしい表現になっていますが、25−27節は、簡潔にまとめれば、「あなたがたを堅く立たせることができる神にイエスキリストを通して栄光が永遠にありますように」という内容となっています。
パウロの強調点は「私達を堅く立たしめることができる神」におかれています。「堅くたつ」と訳された言葉は、他に「支える」とか「励ます」あるいは「力つける」とも訳される言葉です。ルカ22:32では、イエス様がペテロに「立ち直ったら兄弟を励ましてあげなさい」と語っています。
励ましのことば、力つけられる言葉を聞かせていただける経験は本当に幸いなことです。
昨日、不登校や非行などで退学したり休学したりした子供たちを受け入れている北海道の北星学園余市高校で教師をしている義家弘介先生のインタ−ビュ−番組を見ました。彼も人生を投げ出していた不良少年の一人としてかつてこの高校で学びました。高校を卒業して大学に進学し4年生になった時、バイク事故で生死をさまよいました。そのときかつて担任をしておられた安達先生が北海道から病室に駆けつけ、「あなたは私の夢なの、だから死なないで」と涙ながらに話しかけてくれたそうです。そのとき義家先生は生まれて初めて「死にたくない、生きてゆきたい」と心の底から思ったそうです。生きる意味を知ったのでした。安達先生のように自分も教師となって生徒たちに向き合いたいと願い、母校の先生になる決心をしたそうです。
力づける言葉によって人は人生をやりなおすことができます。沈みかけた船を浮き上がらせることができる力を持っています。イエス様は、3度もイエス様を知らないと嘘をついてしまい自分の情けなさに涙をながすペテロを励まされました。イエス様は、ペテロと同様、いつでも私たちを励まし、勇気づけ、元気を与えてくださることがおできになります。
私達の信仰生活や教会の歩みの中には次々と多くの問題や試練が起きてきます。私たちが生きている限りそれは避けられません。生きている証でもあるからです。しかしながら弱い私達はすぐに揺れ動いたり、落ち込んだり、心配したりします。そこで何とか自分がしっかりがんばらなければと思います。ところが自分で何とかしなければと思えば思うほど、かえって神を見失ってしまいます。自分が倒れないようにしっかりと自分の信仰を自分の力やがんばりで支えようとすれば「宗教の道」を進むこととなります。
啓示の道、福音の道を歩もうと願うならば「神が成長させてくださり、神が強めてくださり、神が励ましてくださる」ことを信じなければなりません。神に希望をおき、神のみ力、み助けを願い求めることへ意識を転換しなければなりません。神に思いを向けることが始まりです。私たちを「堅くたたしめることがおできになる神」を信じることが、宗教の道ではなく福音の道を進む扉を開くことになります。
牧師であれば説教や人間的な交わりやカウンセリングや弟子訓練などで教会をしっかり整え強めようと思います。私もそうでしたしこれからもベストを尽くすつもりです。もちろんそれらは何もしないことよりは効果も意味もはるかに高いと思います。しかし本当の意味で「教会を強くし、励ますことができる」のは神様しかおられません。救いも成長も完成もそれは神がなされる神のお働きです。
「それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです」(1コリ3:7)
人間的努力に目を留めている限りは残念ながら、本当の神の力に預かることはできません。このことを忘れると、交わりが足らない、訪問をしてくれない、説教が届かないといった人間的な不満や文句ばかりが持ち上がってくるようになります。もちろん牧師がそうした信徒の声に謙虚に耳を傾けることは大事なことです。消費者やユーザーの声を聞くことができない会社はやがてつぶれてしまうように、羊飼いが羊の声をよく聞かなければ良い牧会はできないからです。一人の牧師として信徒の願いや求めにどれほど答えることができているか、イエス様に赦しを求める日々の連続ですが・・。
しかし人間の要求にはきりがないこともまた事実です。人間の要求をすべてかなえればそれでしっかり強められるかと言えば決してそうではないと私は思います。「私達を強め励ましてくださることができるおかたは神様しかおられない」という信仰に立ち、一人一人が神に向きあうしかないのです。悔い改めて神に立ち返り、神によって成長させていただくしかありません。
パウロは「私が語る福音、つまりイエスキリトの宣教」によって、ユダヤ人も異邦人も「信仰の従順」に導きいれられることによって、信仰と教会が強められると教えています。パウロが私の福音という場合、パウロが新しく編み出した特別な教えを意味するわけではありません。救い主イエスキリストを宣べ伝えること以外の福音は存在しません。十字架のキリスト、復活のキリストがしっかりと語られるなら人々は悔い改めて神のもとに立ち返ることができます。十字架のキリスト、復活のキリストを心から信じ受け入れるなら、その人の人生はかならず変えられます。これは神様がお約束してくださったことです。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、
信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ロマ1:16)
パウロはキリストの十字架と復活の福音を「私の福音」と言いました。キリストの十字架の恵みは自分が経験して自分の命となるものです。イエスキリストの福音は世界でただ一つの福音ですが、地球に10億人のクリスチャンがいれば、10億の「私の福音」が存在します。キリストの福音は「私の福音」となって命と力をおびるのです。
パウロはロマ書で10回「従順」ということばを用いています。「従順」は、「信仰」と置き換えることができます。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」(ロマ1:5)
従順とはキリストと神のことばへの信頼と明け渡しを意味しています。パウロや他の指導者や牧師への従順を求めているわけではありません。信仰の世界は、最後は神と御言葉への明け渡しにかかっています。パウロがエペソの長老たちと最後にお別れをした時、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:32)と、みことばにすべてをゆだねたことは実に御心にかなったことでした。
私達と教会をどんな試練や困難にあっても強め励ますことができるのは神ご自身です。パウロは福音を宣教しました。あらゆる困難をいとわず福音を宣教しました。その苦労はなみたいていのものではありませんでした。そのように全身全霊を注いでパウロは福音を語りましたが、その福音をもって人を救うことがおできになるのは神ご自身でした。パウロの力で救うことなどできませんでした。ことを成し遂げてくださるのは神ご自身でした。ですからパウロは「なしえる神に栄光あれ」と褒め称えるしかなかったのです。
内村鑑三は「一つのことをなし終えて神を賛美し、1日を暮し終えて神を賛美し、1週を1月を1年を送り終えて神を賛美すべきである。」[2]と語っています。感謝とともに神を賛美することが私たち信仰者の生活の中に、私たちがそこで主にお仕えする教会の中に起こるならば、どれほど強められまた励まされることでしょう。
私たちも「一つのことをなし終えて神を賛美し、1日を暮し終えて神を賛美し、1週を1月を1年を送り終えて神を賛美する」信仰の従順な者でありたいと願います。
「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です」
(ロマ1:5−6)
2004年6月6日 完
祈り
主よ、私達を信仰の従順に導きいれてください。
私と教会をどんな苦難の中におかれても堅く立たしめてください。
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