「私はあなたがたの水でバプテスマを授けましたが、その方はあなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります」(マルコ1:8)
今日はアドベントの第2週です。2週間後にはクリスマスを迎えます。今週 2つの教会をお尋ねする機会がありましたが、どの教会でも大きなクリスマスツリーを飾ったり、講壇周りを小さなポインセチアで飾ったり、イルミネーションを美しく飾ったりと準備に忙しい様子でした。
さて、神様はバプテスマのヨハネという預言者を300年ぶりユダヤの国にお立てになりました。バプテスマのヨハネは「さらに力のある方が私の後から来られます。私はその方のそのサンダルの紐を解く値打ちさえもありません」(7)と、自らは小さな存在にすぎないと謙遜に語っています。バプテスマのヨハネは神が遣わされた一預言者に過ぎませんが、イエスキリストは神が遣わされた神のひとり子であり全世界の救い主キリストだからと証言しているのです。ヨハネは旧約聖書の偉大な預言者エリアを彷彿させるようないでたちで民衆の前に現れました。ラクダの毛衣を身にまとい、革の帯を腰にしめて、人々に悔い改めを宣べ伝えました。一方、イエスキリストは神の御子であるにも関わらず、全ての栄光をかなぐり捨てて、何一つ身につけずに赤子の姿でこの世に来てくださいました(ピリピ2:6-8)。さらにカルバリの丘の十字架の上で、世の罪人のために、 命までも惜しまず、全てを捨てて死なれました。預言者と神の御子、ここにも大きな違いが見られます。
さらに、バプテスマのヨハネとイエスキリストの最大の違いが語られています。ヨハネは水で悔い改めに至るバプテスマを授けましたが、キリストは聖霊によるバプテスマを授けることができるお方であるという点です。少し整理をしてみましょう。聖書は3つのバプテスマについて記しています。
1つ目は 旧約時代から行われている神殿で祭司たちによって導かれる「清めの儀式」としての水のバプテスマでした。身が汚れたような時に水槽の水の中に身を沈め、穢れを清めるというものでした。祭司たちは神殿での奉仕にあたって水槽に身を沈め、身を清めたそうです。神殿の入り口には多くの水槽・プールが設けられていて、巡礼者たちは穢れを洗い清めてから、神殿の中に入り、礼拝を捧げたと言われています。これらはいわば外側の汚れを水で洗い清めることを意味しています。ただし穢れるために何度も繰り返す必要がありました。
2つ目は、バプテスマのヨハネが行ったヨルダン川で全身を水に沈めるという一度限りの悔い改めのバプテスマでした。実は異邦人がユダヤ教に改宗する際には、割礼を受けること、動物の犠牲を供え物として捧げること、水の中に全身を沈めるバプテスマを受けることが定められていました。真の神を知らない異邦人世界の人々が、天地を造られたまことの神を信じ、イスラエルの神に従う時に、神殿で水のバプテスマを受けました。現代のキリスト教会もこの流れを受け継いでいると言えます。
「悔い改め」ということばは、先週も学んだように、いわば人生の方向転換をすることを意味します。神様抜きで俺様中心の生き方をしていた人生に立ち止まり、もろもろの偶像を崇めるご利益中心の生き方から、唯一の真の神を信じて生きていこうと志す、人生の方向転換をすることを意味しています。今までの古い生き方の「スイッチを転換」することを意味します。ですから一度限りで十分なのです。歩むべき方向が定まったからです。その意味で、キリスト教会で、キリストの名によって受ける水のバプテスマは、新しい人生のスタートラインに立つことを意味します。それは例えるならば、幼稚園の入学式、保育園の入園式のようなものだと私たちは呼んでいます。ここからすべてが始まるのです。決して卒業式ではありません。だから安心して任せて頂きたいのです。
悔い改めて方向転換をした者たちが、新しい方向に向かって歩み続けるためには、新しい命の供給を受け続ける必要があります。イエス様はヨハネ15章で 「枝がブドウの幹に繋がっていなければ実を結ぶことができない。だからわたしにつながっていなさい」(15:5-8)とも教えてくださいました。 教会の庭にはぶどうの木が植えてあります。枝をきればその切り口から透明な樹液が流れ出てくることを確認できます。これがぶどうの木の命そのものなのだとわかります。ミモザの木のあちこちの小さな穴から琥珀色の蜜が流れ出てきているのを観察することもできます。私たち人間の体の中にも血液が流れています。血液は「体重の1/13 約8%」を占め、もし1リットル以上の血を失うと、出血死のリスクが高くなると言われています。まさに血は命とも言えます。
私たちがキリストを信じ、キリストと共に生きることを願う時に、キリストの名によって水のバプテスマを受けます。その時、同時に聖霊による新しい誕生を迎え、私たちにはこの世の子ではなく、神の御国の世継ぎとしての新しい霊的な身分が贈られます。パウロは「天に国籍を持つ」(ピリピ4:20)と表現しました。それだけではありません。復活されたキリストに結び合わされ、新しいいのちの供給を豊かに受けることがゆるされます。これはすごいことなのです。私たちの目には見えない神秘的な奇跡的な出来事が起きます。
私たちの古き人がキリストと共に葬られ、キリストと共に新しい命によみがえらされるのです。まさにこの一度限りの体験は、新しいキリストのいのち命に結び合わされ、よみがえらされるという新生体験をいきいきと象徴しています。この出来事をパウロは、ローマ人の手紙6章4-6で「キリストの死といのちに預かるバプテスマ」という表現をしています。またガラテヤ2:20では「キリストが私のうちに生きておられる」とも表現しています。 1コリント6:19では「私たちの内に住まわれる聖霊」と、キリストの内住を表現しています。2コリント5:17では「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものはすべてが過ぎ去りました」とも記されています。
これらは頭ではわからないこと、理屈では理解はできないこと。やってみなければわからないことと言えます。世の中には体験しなければわからないことが実に多くあります。
私の中にキリストが住まわれる。よみがえられたキリストが今も生きておられ、住まわれ、私たちと共に人生を歩み、導いてくださいなど、これはことばでは説明のしようがない信仰的体験です。
しばしば愛する家族を失い深い悲しみの中にある人が「私の子供、私の主人、あるいは私の妻は、今も私の心の中に生きています」と表現されることを耳にします。それは「脳の記憶にすぎませんね」と、クールに客観的に解説する人がいるかもしれませんが、ご本人にとっては目に見えなくても、先だった愛する家族が、その人の心の中に今も共に生きていることは紛れもない「真実」であり、「実感」であり、誰も否定することができないリアルな「現実」なのです。このような新しい世界を、そして、いのちをもたらすことなどは、人間には不可能なことです。
ですからバプテスマのヨハネは、イエスキリストを指さして「私のあとに来られる方は、私よりもはるかに力を持ったお方です」(マルコ1:7)と 証ししたのでした。
いよいよ キリストが世に現れ、「神の国の福音」(1:15)を宣言し、宣べ伝え始めました。聖霊の豊かで力強い働きが始まる恵の扉扉がキリストの誕生とともに全世界に開かれました。そうです、メシアの時代が到来したのです。キリストの誕生と神の国の到来を心から喜び祝いましょう。