【福音宣教】  主イエスが選ばれた12人

イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た」(マルコ3:13)

イエス様のもとに おびただしい群衆が押し寄せてきたため、イエス様は岸から小舟を出させて群衆に語り掛けました。 一方 イエス様は、祈るために山に登り、徹夜の祈りをされて、イエス様に従う多くの弟子たちの中から12人の弟子たちを選ばれ、「使徒」に任命されました。

マルコ福音書はあえて、浜辺でイエス様のもとに群がる群衆と山の上でイエス様が選ばれた12人とを対照的に描いています。癒しを求めて多くの群衆がイエス様のもとに詰めかけてきました。しかし、彼らは、今日は来ても明日はもう来ないかもしれません。今、集まってはいるがすぐに立ち去ってしまうかもしれません。自分の要求や願いや必要が満たされれば、イエス様から離れていく可能性のある人々です。一方、弟子たちはイエス様のもとに招かれ、御側に置かれ続けられる存在です。主の弟子とは、いつも主につながれ主イエスとともにいつまでも共に歩む者たちを意味します。

「わたしはブドウの木であなたがたはその枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているならば、その人は豊かな実を結びます」(ヨハネ14:5)

Ⅰ 主が選ばれた12人弟子

どのような人々が選ばれたのでしょうか。12人のリストは、4人ずつ3組に分かれます。第1組はペテロ アンデレ ゼベダイの子ヨハネ ヤコブ 第2組がピリポ バルトロマイ  トマス マタイ、 第3組がアルパヤの子ヤコブ タダイ 熱心党のシモン イスカリオテのユダです。マタイの福音書は4人組をさらに2人ずつに分けています(マタイ10:1-4)。ルカ10:1では、12使徒たち以外に72人の弟子たちが伝道者として派遣される時も、2人ずつの組に分けられていました。12使徒も72人の伝道者たちも「2人でやっと一人前の働きができるという程度の欠け多き弟子だったようである」と、榊原康夫先生は注解書に記しています。二人で1人前というのは言い過ぎかもしれませんが、この指摘は、選ばれた者たちが決して完全無欠な完成された信仰者ではなかったことを示唆しているようです。

イエス様が12人を選ばれた基準は、「ご自身のお望みになる者」(13)であり、一方的なイエス様の召しによるものでした。この12人が特別に優れているから、特別に熱心であったから、特別見込みがあったからというわけではありません。経歴を見れば、4人はガリラヤ湖の漁師、かつて収税所で勤務していたマタイとイエス様の財布係であったイスカリオテのユダは金銭感覚に秀でた賢さはもっていたようです。熱心党のシモンは、ローマ政府に反抗する民族主義者であり、短剣を懐にしのばせているような危険な思想の持ち主でした。シモンにはペテロ「岩」というあだ名がつけられましたが、ペテロはそれほど頑固でもなく、いざとなると腰砕けになるもろい性格でした。ヨハネとヤコブは雷の子とあだ名されるほど、瞬間湯沸かし器のようにすぐに怒りが沸点に達するような激昂型。サマリヤ人がイエス様を受け入れないのを知って、「焼き払ってしまいましょう」(ルカ9:54)などと、とんでもないことを口走る性格でした。トマスは疑い深く、人の話を信じない性格でした。
やはり欠けだらけの者が12使徒として召されたといってもよいでしょう。なんかそう聞くと嬉しくなりますね。そうです。私たちもお互い欠けだらけ、最新式の新品のような存在ではなく、骨とう品屋に並べられているような存在だからというのは言い過ぎでしょうか。2羽の雀が1アサリオンで売られ(マタイ10:19)、5羽の雀が2アサリオン(ルカ12:6)で売られている。1羽はおまけのようにして売られているにも関わらず、イエス様は「その一羽の雀さえ、神の前に忘れられることなない」と語られました。天の父なる神様はそんな雀のような存在の薄い私たちを、愛し、顧みてくださっているというのです。ほんとうに、うれしいですね。教会の交わりの中で、自分を卑下したり、背伸びをしたり、自分を誇ったりする必要などまったくありません。みんな敵ではなく競争相手でもなく、神の永遠の家族なのですから。

Ⅱ イエス様が12人の弟子たちを選ばれた目的、

さて、イエス様が12人を選ばれた目的は2つありました。第一に「そばにおらせるため」(14)でした。第二に「派遣して福音を宣教させ 悪霊を追い出す権威を持たせる」(14-15)ためでした。

1)イエス様は12人を使徒、伝道者としての働きに遣わす前に、「御もとに置きました」。何よりもまず主イエスと共に、その交わりの中にとどまり、イエスの語られる言葉をこころにとどめ、イエス様のなされる愛を自らも体験的に学び、イエス様の十字架の死と復活をしっかり見とどけるためでした。ガリラヤ湖の浜辺に押し寄せた群衆のように、来ては去っていく、波のような存在、風のような存在ではなく、しっかりとイエス様にとどまり、イエス様との交わりの中に深く息づく存在でなければなりませんでした。

この12人に求められたのは「宣教という行動」ではなく、「証人」としての存在でした。ほかの誰よりも有能で、名説教を語り、すぐれた知識をもって弟子たちに教育したり、こまごまとしたお世話することが求められたのではありません。エルサエム教会はイエス様の弟であるヤコブが実務を担い、アンテオケ教会ではペテロよりも雄弁で教養と知識に満ちたパウロがいて世界宣教の道を切り開いていました。12人に求められたのはイエス様の御そばにいて言葉を聞き、御業を見ていた事実、なによりも十字架の死と復活のできごとを見て聞いた、実体験として証言できる「証人性」にありました。

2) 第二の目的は神の国の宣教のためです。

イエス様は、神の国の福音宣教に遣わす目的のために、12人を弟子として招き、御そばにおき、特別に訓練しました。しかしわずか3年足らずで神の器が作られることは不可能です。弟子たちはイエス様の十字架の死と復活を目撃するまでは、イエス様の教えを理解できませんでした。十字架の死と復活を目撃してもまだ不十分でした。ペンテコステを待たねばなりませんでした。キリストの御霊が注がれることを待たねばなりませんでした。真理の御霊、愛の御霊が弟子たちに注がれて初めて彼らの目が開かれ、臆病の霊ではなく、力と愛と真理の霊に満たされ、神の国の宣教に立ち上がることができたのでした。宣教は確かに十字架のキリストと復活の宣教です。具体的には十字架による罪の赦しを宣言することです。復活によって全人類を束縛している死の力がついに打ち砕かれ、永遠の命の扉が開かれたことを宣言することです。「イエスキリストこのお方以外に救いはない」(使徒4:17)と宣言することです。と同時に、忘れてはならないことは、神の国が今ここで、すでに始まっている、キリストともに神の国がここに存在しているという恵みの事実を示すことです。神の国が神の愛とともにいまここに現臨していることを示すことです。病を癒すことも、悪霊を追放することも、神の御国がいまここに既に存在していることの現実的なしるしだったのです。

神の国の現臨のしるしは他にもあります。それは弟子たちが、世の人々への愛の奉仕に送り出され、遣わされ、キリストの愛を具体的に証ししてひとうひとつ実が結ばれていくという働きの中にも見ることができます。

「もしあなたがたが互いに愛し合うなら、世の人々はそれによってあなたがたが私の弟子であることを知るでしょう」(ヨハネ13:35)とイエス様が言われた通りです。 

今日の礼拝では、木田晶子姉妹が宣教報告をしてくださいました。インドの東部ミゾラム州には、ミャンマーから逃れた3万人の難民が住んでいます。今回、木田姉妹はミゾラム州の4つの難民キャンプを訪問し、医療・保健活動に従事されました。教会がささげた17万円の支援献金で、医薬品や医療品を購入し、現地スタッフの協力を得て、難民キャンプで生活する人々に届けられたことを聞くことができました。姉妹の医療宣教活動は、私たちの医療宣教活動でもあり、私たちがキリストにある愛の奉仕にともに預かることでもあるのです。

まとめ

ヤコブの手紙の中で、隣人への愛と奉仕に生きることがもし欠けているならば、「死んだ信仰」と等しいことを私たちは昨年の礼拝講解説教で学びました。初代エルサレム教会では、兄弟姉妹たちに、抑圧された少数の人々、貧困の中に生きる人々、病める人々、孤児や寡婦たち、この世で小さくされた者たちを忘れないようにお世話をしなさい、孤独に陥らないように彼らを訪ねなさい、自分は忘れられてしまった存在だと失望しないように彼らを見舞いなさいと命じられています。F・アイゼンバーグの版画「ホームレスの人々の列の中に立つイエス」の絵を、礼拝で共に分かち合いました。ホームレスの人々に給食を配布する愛の奉仕そのものは尊いことです。しかし、ホームレスの人々を支援する側に立っているだけなら、「してあげる愛」で終わってしまうことになりかねません。もしホームレス人々の列の中にイエス様が立っておられることが見えるならば、そこにおられるイエス様にお仕えすることが愛の奉仕そのものとなり、「させていただく愛」へと昇華されるのではないでしょうか。

木田姉妹は、難民キャンプの中にともにおられるイエス様にお会いする、それが私の霊的なエネルギーの源、命の力、喜びになっている。私が救われ、誰よりも癒されていると、証しされていました。 神の国の福音宣教には、隣人への愛の奉仕が要請され、一体となっています。宣教は、愛を持って真理を語ることであり、宣教は御霊による力と愛によって実を結ぶことができるからです。

カトリックのシスターである渡辺和子さんは、「いのちを大切にと何千回、何万回言われるより、あなたが大切と誰かにそう言ってもらうだけで生きていける。一生の終わりに残る者は私たちがかき集めたものではなく、私たちが与えたものなのです」と語っておられます。珠玉のことばではないでしょうか。

イエス様の御心は、私たちを御側において、神の国の福音の宣教のために遣わし、病人を癒し、悪霊を追い出すため、すなわちイエスの名によって隣人への愛の奉仕に仕えるためであることを、この朝、心に憶えましょう。