【福音宣教】 みことばの種を播く人

良い地に播れるとは、み言葉を聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人のことでです」(マルコ4:20)

本日はペンテコステ礼拝です。イエス様の十字架の死と復活後にエルサレムに留まっていた弟子たちの群れに、新しい契約に基づいた「約束されていた神の霊」が注がれ、新しい御国の民である「教会」が誕生した日でした。ですからペンテコステの日は、世界で最初の教会である「エルサレム教会の創立記念日」という意味ももちます。

欧米の諸教会ではこの日に何か一つ赤いものを身に着けて礼拝に集うという習慣があるそうです。 私たちの教会でも実施しています。真似事ではなく、イエス様を信じるすべての者の心の中に、キリストの霊、神の御霊、聖霊が住んでくださっているという大いなる祝福とめぐみの事実を心から感謝する一つのしるしとして取り入れています。 「キリストの御霊を持たないものキリストのものではありません」(ロマ89) 

さて、イエス様は、大変有名な「種まきのたとえ話」をされました。前半は種を蒔く人がテーマで、後半は蒔かれた種がどんな地に落ちて、実を結んだか否かが、テーマです。

1.       種を播く人   

日本と違ってユダヤの国では農夫は風の吹く日に、肩から下げた袋の中の種を風に乗せてばらまくそうです。そして、そのあとで土を耕すそうです。日本のコメつくりのように水田に苗を23本ずつ丁寧に植え育てていくような農法とは異なります。現代のアメリカでも広大な畑に上空からセスナ機やドローンで種を播いていくそうです。ですから当然ながら蒔いた種が、あちこちに飛んでしまい、無駄になってしまうことは最初から計算済みなのだそうです。ある種は道端に落ちて鳥の餌になってしまう。ある種は岩地に落ちうっすら土があるので根が少し張り芽を出すがやがて枯れてしまう。ある種は茨やアザミが生い茂った地に落ちてある程度成長するもののやがて覆いふさがれてしまうため、陽が当たらず、実が結べない状態になってしまう。せっかく蒔いた種が無駄になってしまうというわけです。ところが種を播く人は気にしません。なぜならばそれらの種は分量からすればわずかであり、むしろ蒔かれた多くの種は根を下ろし、芽を出し、すくすくと成長し、やがて実を結び、1粒の種が30倍、60倍、100倍にもなるからです。計算上は60倍の次は90倍と予想されますが、計算上の予想を超える100倍という大収穫を農夫にもたらすというのです。無駄になった種、損失した種があってもそれを補って余りある大収穫があることを農夫はわかっている。イエス様が語られたこのたとえ話は、けっして悲観的な話ではなく、むしろ希望に満ちた明るい話なのです。

私たち日本人はどちらかというと悲観主義、マイナスの面に意識が向きがちです。無駄になってしまう種に意識が向いてしまい、その上、その種に自分を重ね合わせて、私は石地に落ちて鳥に食べられてしまう種、岩地において最後は枯れてしまう種、茨の地に落ちてひ弱なまま実がならない種と考えがちではないでしょうか。しかも、だからそうならないように「一生けん命がんばろう」と、信仰の世界でも、この世の勝ち負けの世界同様に、負けないように、枯れないように、自力で頑張ってしまうのではないでしょうか。ある宣教師が日本人の特徴は3G、(義理人情、我慢します、頑張ります)と言いましたが、ポイントをついています。信仰とはそんな人間的な頑張りで生きる世界ではないはずなのに。

この種は、イエス様の解説では、「み言葉の種」(14)と呼ばれています。並行記事のマタイでは「御国のことば」、ルカでは「神の言葉」と置き換えられています。つまり、種を播く人は「神の言葉・御国の言葉」を語るイエス様ご自身を指していると解釈できます。イエス様が語られる神の言葉は、福音の言葉です。裁きや警告や脅しではなく、福音すなわち喜びの知らせです。私たちを不安や落胆や失望といった悲観主義に陥らせるのではなく、平安、喜び、希望に導く楽観主義、というよりは希望に満ちた終末の日の栄光を見上げさせてくださいます。主が再臨されるときに完成する御国の栄光という希望に導くものではないでしょうか。「種まき」はまきっぱなしではなくかならず「収穫・刈り入れ」の時を迎えます。イエス様は弟子たちにそしてペンテコステに誕生することになる教会に対して、たとえそこには困難や迫害、石地や茨の地のような障壁がふさぎ、障害が待ち受けていたとしても、勝ち得て余りある大きな収穫、刈り入れ、栄光に輝くハーベストタイムが待っていることを伝えてくださっているのです。今回、私は準備をしていてそのことを学びました。

私たちの信仰は失望に終わるものではなく、輝かしい希望つまり、終末における最終的な輝かしい大豊作、大収穫、神の御国の蔵が満ち溢れることをしっかりと「観る」ことではないでしょうか。信仰とは主イエスの約束を信じること、まだ見ぬ事実を確信することではないでしょうか。御国の宣教の働きは水の上にパンを播くような(伝111)努力の連続かもしれませんが、涙をもって種を播く者は喜びをもって刈り取る幸い(詩篇1265-6)が待っています。だから種を播く働きをあきらめたり、中断したり、投げ出してはならないのです。

Ⅱ 種が落ちた地 

イエス様は弟子たちと教会が、幾多の試練や困難や迫害の中を進まなくてはならないことを知っておられました。いつの時代でも、弟子たちが、教会が、私たちが神の言葉を伝えるとき、福音を語るとき、そこには、「種が道端に落ちて無になってしまうような」、この世の人々の「無関心」というサタンの働きがあります。反論したり抵抗してくれるほうがまだ関心をもっている証拠ですから、ましといえますが、「無関心」ほど恐ろしいものはありません。福音に対する最大の抵抗勢力は、偶像礼拝ではなく、「無関心」です。それはこの世界から神の存在を信じる「宗教心」という大切な魂の一部をそぎ落としていく、切り落として消滅させてしまうほどのサタン的な闇の力といえます。「永遠を思う心を神は与えてくださった」(伝道311)にもかかわらず、目に見えない世界と神を頭から無視し、勝つか負けるか、得か損かという目に見える現世義に人々を縛りつけてしまうのです。

第二は、岩地のような「宗教ブーム」です。最大の特徴は「一過性」です。熱しやすく冷めやすく移ろいやすいのです。しっかりと定着しない。根づかないため、困難が来ると信仰が環境や状況に押し流されてしまうのです。3年たてば教会のメンバーが入れ替わってしまっているということがないでしょうか。。あらゆるブームは一過性です。信仰生活に浮き沈みがあることは避けられませんが、それでもイエス様から離れることなく、イエス様のもとにとどまり続けるお互いでありたいですね。キリスト教会にも様々な宗教ブームが定期的に押し寄せてきます。しかし、私たちは変わることのない福音に根づき生きづく歩みを続けたいと願います。

第三は、茨やアザミが覆いかぶさり、成長できないため結果として実を結ぶまでに至らない人たちです。時々古びた廃屋を見かけますが、蔦やコケで壁も屋根も一面覆われてしまい、かつての美しい家の姿を失っているのを見るのは悲しいことです。原語では19節の「世の心遣いや富の惑わし、いろいろな欲望が入り込んで、みころばをふさぐので」と記されている、「ふさぐ」、「覆われて」という言葉は、「窒息させられている」という意味だそうです。この世の思い煩い、心配事で圧倒されている状態を指します。悩みがあると呼吸が浅くなり息苦しくなります。そのまま「生き苦しさ」に通じます。まさに窒息状態になるそうです。この世の富やもろもろの肉欲、我欲も信仰の世界を覆っていく力を持っています。子供時代は結構無欲であっても、年を取るに従い、欲が深くなるのは悲しいことです。渡辺和子さんが「人が最後に残せるものはかき集めたものではなく、分かち与えたものである」とのマザーテレサのことばを紹介しています。またある医者が「人が不健康になるのは入れるばかりで出すことをしないからだ」と指導されたことを紹介しています。かき集めることばかりの人生を、やがて虚しさが覆いつくしていくことは世の常です。「天に宝を積みなさい」「まず神の国と義を求めなさい」と主イエスは教えてくださっています。

初めから「良い地」などは存在しません。良い地は作られていくものです。ユダヤの農法では、種を播いてから土を耕すそうですが、この順番は示唆に富んでいます。100倍もの実を結ぶことができる人たちとは、「みことばを聞き続けていく人たち」(20)を指しています。聞くという動詞は現在分詞形ですから、継続を意味します。その良い習慣があなたの生活と人生を、「良い地」に変えていくのです。「みことばの種」そのものにはすでに100倍、1000倍の実を結ぶ力、無限の力、不可能を可能に変える力、荒地を泉が湧く地へと変える力が秘められています。神の言葉は決してむなしくは終わらないのです。これは、主のお約束です。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ5510-11) ペテロも強調しています。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによ  って成長し、救いを得るためです。」(1ペテロ22

ペンテコステの日は、教会を励まし、幾多の困難や迫害さえも乗り越えながら、福音を伝え続けていく原動力である「聖霊」が天よりそそがれた日です。み言葉の種が全世界という畑に惜しみなく蒔かれ続けていく「始まりの日」です。

「終わりの日」は、終末の日の刈り入れの時、ハーベストタイムが待っています。その時に、天の倉にはあふれるばかりの収穫がおさめられることでしょう。

その時、あなたの愛する一人一人が天の御国の倉に納められているとしたならば、何という幸いでしょうか。信じ、期待し、み言葉の種を、主イエスとともに播き続けましょう。