
「神の国は、人が地に種を蒔くようなものです」(マルコ4:26)
イエス様は,今日の個所でも種まきの話をされました。しかも今回ははっきりと、「神の国は人が地に種を播くようなものです」(26)と、「神の国」の譬えとしてはっきりと語っておられます。ガリラヤ地方は、漁業と農業が主要産業で、人々の生活を支えていましたから、イエス様が漁業や農業に関連する身近なたとえばなしを好んでされたことも納得がいきます。そもそも「種」の中に秘められている生命力は不思議であったにちがいないと思います。1951年に千葉県にある東京大学の農場で2000年前の「ハスの種」が発見され、大賀一郎博士が条件を整えて、苦心して発芽させ、ついにきれいな花を開花させたそうです。 2000年の眠りからめざめて花を咲かす蓮の種と世界的に有名になりました。種の中に秘められている生命力の不思議さ、神秘の力に驚かされます。神の国について、3つのポイントが語られています。
第一は、28節、神の国は「人手によらず実を結ぶ」ように、神の主権主導によって進展すること 第二は、28節「苗、次に穂、穂の中に実がなる」ように、「完成までに秩序と順序」があること 第三は、29節「鎌を入れて刈り取る」ように、「実が熟してから収穫の時がくる」ことです。
1.「人手によらず」と訳されたギリシャ語は、英語のオートマティック(自動的)の語源となりました。神の国とは、何かの領土を指す言葉ではなく、神の義と愛が全地に及ぶ恵みに満ち満ちたご支配という意味です。神の国は神の御業として神ご自身が実現されるのであって、いかなる人間の介入も必要としない、不要であるという意味です。英国の聖書学者バークレーは「われわれは神の国を創造することはできない。神の国は神のものである。われわれは神の国を失敗させ、妨害することはできる」と語っています。地上に神の国をもたらそう、地上に理想的な平和な世界を創ろうと、人類の英知と科学技術の進歩発展によって、地上にパラダイスを造り出せるに違いないと19世紀の人々は夢見たかもしれません。しかし結果は見事に裏切られました。
20世紀にはいると、2度にわたって悲惨な世界大戦が勃発し、毒ガスによる400万人のユダヤ人虐殺、広島長崎への原子爆弾投下という悪魔的な犯罪行為にまでエスカレートしました。戦後、平和への願いと決意を込めて国際連合が結成されました。ニューヨークの国連ビルの広場の壁には「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2:1-5)との文字が刻まれ、2度とヒットラーを生み出さない、2度と核兵器は使わないと誓ったはずですが、戦後80年しかたってないにもかかわらず、ぐらぐらと土台はぐらつき、独裁者がふたたび登場し、国連も機能不全に陥っている現状です。人間の熱意、努力、科学技術の大飛躍といった人間の手によっては神の国は創造できません。創造の働きは神おひとりだけが実現できるからです。
2.「完成までに順序がある」(28)
地に蒔かれた種は実を結ぶがそれには「発芽し苗となり、茎が成長して穂となり、最後に実が入る」(28)というプロセスを経なければなりません。いきなり実を結ぶことはありえません。創造主なる神は、秩序の神でもあり、ゆっくりだが着実に神の国をもたらし、ご自身の主権とご意思に基づいて御業を完成されます。御子でさえ「その時がいつかは誰も知らない」(マルコ13:12)と言われるのに、人間にとうていわかるはずがありません。現代の偽キリストの虚言には、注意しましょう。2025年7月に日本で大災害が起きるという噂が東南アジアで広がり、特に香港からの旅行客が激減し、宿泊予約のキャンセルが相次いで振り回されているそうです。
「夜は寝て、朝は起き」(27)て、通常の一日が過ぎていく。そうした平凡な日々の中で蒔かれた種が「芽を出して育っていく」のです。神の御業は静かにしかし着実に進展しています。人間が神の時計を早巻きすることはできないし、遅くすることもできない。私たちにできることは、「夜は寝て、朝は起きて」、普段通りの生活を送ることである。ユダヤの国では1日は、夕方日没から始まり、朝、夜明けとともに終わる。現代人は朝起きて仕事を初め、夜くたくたになって家に帰り、寝て一日が終わる。神の御国では、1日はまず神の安と眠り、憩い、安らぎから始まるのです。このことは、神の恵みをまず豊かに受けてから、人間の営みや労働や奉仕が始まることを教えてくれています。安息を得ずしていきなり働くから、恐れ、心配、思い煩いにとらえられ、あわただしく一日が過ぎ去り、疲労が残り活力が失われていくのであろう。おだやかな落ち着いた生活は、神の安息から生み出されます。ルターの有名な言葉を思い起こしましょう。「たとえ明日が世界の終わりであっても、私はいつものようにリンゴの苗を植える」と。
3.「実が熟すると、すぐに鎌を入れる」(29節)
神様は秩序正しくご準備され静かにことを運ばれ、必ずご目的を達成されます。実が熟すると、すぐに鎌を入れ、刈り入れが始まるのです。ここでも少し立ち止まって考えよう、「刈り入れの時が来たから、鎌を入れる」のではない。「実が熟する時が、刈り入れの時」だとイエス様は言われています。実が熟していようと、熟していまいと、時が来たらさっさと刈り入れが始まるのではない。もしそうだとしたら実がまだ熟していない穂は理由にかかわらず容赦なくばっさり刈り取られ、投げ捨てられ、焼き尽くされてしまうことになる。つまり、裁きが先行するのです。しかしそうでしょうか。神は慈愛に満ちたお方で、一人も滅びることなく永遠のいのちの実を結ぶように、忍耐の限りを尽くしてくださっています。神の国においては、滅びではなく神の愛と救いが先行しています。望みはそこにあります。
神様の目は世界の歴史を、全人類の動向を静かに見ておられます。「実が熟しているか否か」が、神の時を決めるのです。4つの畑のたとえ話で、道端、石地、茨の地に落ちる種が確かにあるけれど、多くの種は実を結んでいく。1粒の種が30倍60倍100倍にも豊かな実を結ぶという、希望と喜びがすでに前もって語られています。一粒の麦だねからどれほどの麦が育つのか? AIによれば、小麦の収穫倍率は意外と低く、中世でも3~4倍程度、品種改良や土壌改良が進んでいる現代でも20-70倍(平均15-20倍)だそうです。一方、お米は一粒が約400-500倍になるそうですから、収穫倍率は巣ば抜けて高いといわれています。2000年前のイエス様の時代に、30倍60倍100倍の実が結ばれるというのは、とんでもない収穫倍率を指しており、人間の想像を超えた大収穫を指していると言えます。天の御国の倉に納められる実は非常に多いとイエス様はご覧になっているのです。ここにイエス様からの励ましが語られています。
もし、「時が満ちた」に焦点を当てるならば、焦り、失望、あきらめが先だってしまいかねません。ついに救い主がこの世界に遣わされるという神のご計画が実現したことを指して「時が満ちた」と言われているのです。神の国がキリストとともに現実に人間の世界んもまっただ中に到来したことを指しています。次は「実が熟する」時です。「神の御心が天でなるように、地にもなるように」と、祈ることを学んだイエス様の弟子たちと教会の福音宣教と隣人への愛の奉仕によって「実が全地に満ち、熟するとき」に、終末の刈り入れがついに始まるのです。それは恐ろしい神の審判という負のイメージをはるかに超えて、喜びに満ちたハーベストタイム、神の御国の大いなる喜びに満ちた収穫の始まりという祝福のイメージで語られています。
旧約聖書の約束の言葉を心におぼえましょう。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇126:5-6)
そして、イエス様の御心にお応えしましょう。「弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)
神のために献身する働き人が起こされるように、神の国のために人生をささげる志を持つ者が多く起こされるように祈りましょう。