【福音宣教】 嵐の中で眠る主イエス

どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのはどうしたことです」(マルコ4:40)

主イエスが、 ガリラヤ湖の嵐を鎮める出来事は、ゲラサの地における悪霊追放の出来事、会堂司ヤイロの娘を突然の死の淵からよみがえらせる出来事、そして長年にわたる婦人病を患った女性の癒しと続く一連の奇跡物語の最初に位置しています。これらの奇跡物語はそれぞれ「自然界をご支配される主イエス」「悪霊やサタンといった悪しき霊的な世界を支配される主イエス」 そして人間とって避けられない「病と死を永遠のいのちをもって支配される主イエス」 すなわち「全被造物を支配しておられる主イエス」の姿を示しています。主イエスの支配が及ばない領域などはこの世界に何一つ存在しないことを私たちに教えています。

「一体このおかたはどなたであろう。風も海もしたがわせるとは」(41)このことばがキーワードです。あなたにとってナザレのイエスキリスト、このお方はいったいどのようなお方なのでしょうか。イエス様がガリラヤ湖の東海岸である異邦人の地、ゲラサ地方に「さあ、向こう岸に渡ろう」と弟子たちに呼びかけられたことは、主イエスキリストの主権と恵みがユダヤ人ばかりではなく、異邦人たちにも開かれていることを示しています。主イエスの恵みから異邦人世界も漏れることはないのです。

1.    突然の嵐

岸辺での説教を終えたイエス様は、弟子たちに向こう岸へ渡ろうと、東海岸に位置する異邦人の地、ゲラサ地方に漕ぎ出すように命じられました。聖書をよく読むと「他の船もついて行った」(36)と記されています。 ガリラヤ湖の湖底から当時、用いられていた10人乗りの船の遺跡が発掘されたそうです。 少し狭いですがイエス様と弟子たちが一艘の船に乗り込んだとしたならば、他の船(複数形)になっていますので、弟子たちが2班に分かれて乗り込んだのでしょうか。 それともボートまで乗って群衆がイエス様の後について行ったのでしょうか。真夜中にガリラヤ湖を東岸まで渡ることは危険なことですから、もし群衆であれば、彼らはすぐに引き返してしまったことでしょう。最後までイエス様とともにあるのが弟子たちの姿です。

さて 突然の嵐が吹きおろし、高波が船の中にも流れ込んできました。木の葉のように波風に翻弄された上下に激しく揺れ動いたことでしょう。37節の「突風」というのは 海抜 マイナス 200m のガリラ ヤ湖に吹き降ろす独特の強風であり、この夜はガリラヤ湖を知り尽くしている漁師たちでさえも、全く予想できないほどの規模の大暴風であったと思われます。プロの漁師たちである弟子たちでさえ全く無力。経験したことのないような嵐での前に、なす術がありませんでした。

私たちの人生にもなす術がない突然の悲劇、試練、困難苦難が襲いかかることがあります。  困った時の神頼みと言いますが大きな人生の危機的な状況に遭遇した時に、その人の本当の姿が見えてきます。 普段つよがりを言っていても思わず「神様 仏様 キリスト様 お助けください」と叫び出す人もおられますね。信仰というのは困難な時にこそ、その内なる力を発揮していくのではないでしょうか。

2.    主イエスの眠りと弟子たちの慌てふためき

お手上げ状態になって今にも 船が沈んでしまいそうな危機的な状況に際して、 弟子たちはイエス様に「私たちがどうなってもお構いにならないのですか」(38) と苛立ち、叫び、イエス様を揺り起こしました。 マタイの福音書では同じ記事が「主をお助けください。私たちは死にそうです」(825)と 丁寧に説明していますが、マルコはまさに弟子たちの恐れと不安と無力さを、半ば怒りの気持ちを込めてイエス様に投げかけている様子が生き生きと描かれています。 この弟子たちのなじるようなイエス様への問いかけは、危機的な状況の中にあって、神様が沈黙をされる時に、私たちが思わず言葉にしてしまう思いではないでしょうか。「私たちがどうなってもいいのですか」。  神様の恵みの御手から あるいは守りから、交わりからまるで漏れてしまったかのような叫びが込められています 。「こんな大変な目にあっているのに、こんな辛い思いをしているのに、私たちを助けてくださらないのですか、忘れてしまっておられるのですか、 私たちなどもうどうでもいいのでしょうか」、そんな訴えを神の沈黙の中で 私たちも思わず叫んでしまうのではないでしょうか。

イエス様は39節で起き上がり、 風を叱り、波に向かって「静まれ黙れ」と命じました。 すると風は止み、波はなぎになったと記してあります。 イエス様は風も海も従わせうる主権者なるお方です。 私たちの人生にたとえどんな嵐が吹き荒れようと、「静まれ黙れ」と権威を持って命じられ、従わせる主権者なるお方です。このお方が、共におられることを心に覚えましょう。私たちはしばしば困難に直面すると、慌てふためき不安に襲われ、焦り、具体的な解決の方法を必死で求めます。 しかし解決の諸々の方法よりも、解決する力を持ちたもうお方がおられること、主イエスキリストがすでに私の人生と小舟にすでにおられることを心に覚えましょう。 直面する問題がどんなに大きくても、それよりもはるかに大いなるお方が、主権者なるお方がおられることにしっかり心の焦点を合わせたいものです。

3.    どうして信仰がないのか なぜそんなに怖がるのか

イエス様、嵐に向かっては「黙れ 静まれ」と大声で命じられました。 一方、弟子たちに対しては「どうして信仰がないのか、なぜそんなに怖がるのか」と、 静かに彼らの心に語りかけてくださいました。

ドイツ語の聖書では「どうしてあなた方はそんなに気が小さいのか」と、訳されているそうです。信仰 というのは、私たちの生まれながらの性質や気質というものとどこかでは結びついているところがありますね。世の中には心臓に毛が生えているような神経のド太いタイプの人もおられます。かと思えば ノミの心臓のように、あるいはガラスの小細工のようにちょっとしたことで傷ついたり、思い煩ったり 考え込んだり、ずっといつまでも引きずってしまうタイプの人もいます。気の小さい 私はクリスチャンになってから次の言葉で幾度も励まされました。「神が私たちにくださったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。(2テモテ17)。  不信仰と臆病さ、これは私たちクリスチャン生活における大きな課題の一つではないでしょうか。不信仰と無信仰とは違います。 神様は私たちに大きな立派な、優れた力強い、大胆な信仰を持ちなさいと、サイズを問題にしているのでしょうか。 決してそうではありません。 むしろイエス様は「もし、からしだね一粒ほどの信仰があれば、「この山に向かって 海に移れと言っても可能になる」と教えてくださいました。 大切なのは、主イエスキリストを信頼する信仰があるかないか、そこに全てが関わってきています。 たとえ からし種一粒ほどの小さな信仰であったとしても、その信仰に立ってキリストに信頼するならば、聖霊の力と愛が惜しみなく注がれて内なる力、勇気となるのではないでしょうか。

不安の根底にあるのは「見捨てられる」という恐怖です。主イエスキリストは弟子たちを「どうでもいい存在」などとはこれっぽちも、持っていません。最後の極みまで愛されるお方です。十字架と復活の福音を、弟子たちを信頼し任せきるお方です。すべてを知っておられ、恵みと平安に導かれる唯一のおかたではないでしょうか。 どんな厳しい状況の中にあっても主イエスはあなたとともにおられ、あなたを望む港へ導かれるあなたの救い主です。

詩 107:30 「波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた」