【福音宣教】 あなたの信仰があなたを救った

あなたの信仰があなたを救った。安心して帰りなさい」(マルコ5:34)

先週、私たちはユダヤ教の会堂司の12歳になる娘を死からよみがえらせた驚くべき主イエスの出来事を学びました。今週は、12年間も出血の止まらない女性がイエス様のもとに来て救いをもとめた出来事です。彼女は多くの医者にかかって苦しめられ、全財産を使い果たしても、病気は ますます悪くなるだけでした。医者にも薬にも頼れないとなれば、後は神様に頼るしかない。ところがユダヤの律法によれば、婦人病で出血が止まらない女性は、汚れた者とされ、神殿に上ることは禁止されていましたから、神殿で祈りをささげることが赦されなかったのです。神に近づくことができないのです。さらに彼女が触った物は汚れてしまい、彼女に触れた人もまた汚れるとされていましたから、人との交流がもてず、共同生活からはじかれてしまっていました。12年間の病で彼女は肉体的 経済的 精神的にもすっかり 破綻していたのです。ヤイロの娘は病気で倒れる12歳になるまで、父親が会堂司ですからユダヤ社会と共同体の真っただ中で豊かな生活を送り、子供なりに人生を楽しむことができました。ところが長血の女性は同じ12年間を、孤独の中で過ごさなければならなかったのでした。「長血の不浄の女」というレッテルをはられ、宗教的社会的な偏見の中で深く傷つき苦しんでいたのです。

1.    イエス様に望みをかけた女性

彼女はついに意を決して、群衆に交じってイエス様の後ろからそっと近づき、イエス様の衣の裾をつかみました。なぜなら、イエスの衣に触れれば「救われる」(SOZW)に違いないと、ずっと思い続けていたからです。病気が癒されるとか、治るという動詞ではなく、救われるという動詞が使われているのも、彼女がただ単に病気だけが癒されることを願ったのではなく、彼女の体だけでなく、魂も、心も、社会生活も、すべてが救われ回復し、健やかになることを心から願い、イエス様に望みをかけ、イエスさまと出会うことを心待ちにしていたことを物語っています。失われた12年間を回復してくださるのはイエス様だけと信じていたからです。

こうした彼女の一連の行動を、「ご利益信仰」だと非難する人もいます。私はそうは思いません。人と接触することが禁じられ許されなかった彼女が選ぶことができた唯一の精いっぱいの行動は、後ろからそっと衣に触れることだけでした。触れた相手が汚れてしまうと考えられていた中で、彼女は「イエス様は聖なるおかたであり、私が触れたところで決して汚れてしまうようなお方ではない」そんな思いがあったからこそ、衣に触ったのでした。すると、たちどころに彼女の血の源が止まり、12年の長きにわたった病気が「治った」のでした。完了形が用いられているので、完全に血が止まり、「完治した」ことを意味しています。彼女の願いは神に聞かれたのです。

2.    あたりを見渡し続けるイエス様

するとイエス様から力が抜け、イエス様は「誰かが私に触った」と言われ、周囲を見まわしておられました(32)。弟子たちは、こんなに大勢がひしめき合ってイエス様を取り囲んでいるのですから、誰が触ったのかわかりようがありませんと伝えましたが、イエス様はそれでも見まわし続けて(動詞は未完了形)おられました。イエス様は、待っていたのです。後ろから衣を触った人物が、後ろからではなく、正面に回って、イエス様と顔と顔とを合わせてまみえることを。彼女にしたら、このまま黙って立ち去ってしまうこともできました。人前に出て自分の恥をさらす必要を避けることもできました。名前が知られることもなく、群衆のひとりとして恵みだけを頂いてそっと帰ることもできたはずです。イエス様はもしそうだとしても、彼女に癒しをもたらしてくださる慈しみ深いお方です。12年間の彼女の苦しみを、神に近づくことさえ許されなかった苦悩と孤独をちゃんとわかっておられたからです。しかしイエス様は待っておられました。

ついに彼女はイエス様の前に進み出て、ひれ伏し、名乗り、自分の身に起きた「真実」をありのまま告白しました。

もらうだけもらって立ち去ってしまうことを「逃げ得」というそうです。イエス様はそんな厚かましい逃げ得は許さないとばかり、見まわしていたのではありません。彼女の信仰を引き上げようとされたのです。

信仰とは、神との人格的な交わりの世界です。何の神様かよくわからないけれど、とにかく良いご縁がありますようにと「5円玉」をお賽銭箱に投げ入れて願い事をするという、非人格的な交わりのない信仰は、キリスト教の信仰ではありません。キリスト教の信仰は、主イエスとの出会いであり、人格的な交わりです。

3.    あなたの信仰があなたを救った

「救った」ということばは、病気の癒しだけを指すのではなく、肉体的、精神的、社会的、霊的すべてにおける「全き救い」がここに完成したという意味です。ですからイエス様は、「さあ、安心して行きなさい」と彼女を、神の平安・シャロームに包んで、新しい人生へと送り出してくださったのです。

伝説によれば、彼女の名前はベロニカと呼ばれています。後に彼女は、主イエスが十字架を負ってビア・ドロローサ 悲しみの道を歩まれた時、苦しみのあまり油汗を流して、つまずきながら進まれる主イエスのみ姿に心を痛め、自分のハンカチで主のみ顔を拭った。そのハンカチには 受難の主のみ顔が鮮やかに残されていたと言われている。 ジョルジュ・ルオー の作品にもこれを描いた有名な絵があります。後ろからそっと近づこうとする者さえも、決して拒まず、受け入れ、傷ついた心を癒し、世間の偏見や差別から解放し、病を癒し、平安に満ちた社会復帰を促し、救い出してくださる恵みに満ちたイエス様です。

しかし、そのままの在り方で良しとするのではなく、癒しを受けとるだけでなく、もっと大きな救い、神と向き合い、語り合い、人格的な交わりをもちながら、生きていく、真実な信仰へとイエス様が引き上げてくださるのです。
*もし子供が父親や母親の背中におんぶされながら、後ろ姿しか見ることができないとしたら、どんな気持ちでしょうか。それでも親子として通じ合っているといえるでしょうか。後頭部がおやの顔と錯覚してしまうかもしれません。きっと子供は父親や母親の顔を正面から見たいと願うことでしょう。そして顔と顔を見つめ合いながら、語り合いたいときっと願うのではないでしょうか。後ろからの信仰では、神様との距離がやはり「遠い」のです。

「後ろからそっと衣に触れる」それも一つの信仰の在り方として、主イエス様は拒まれることなく受け入れてくださいました。人には人なりの様々な事情や背景があります。会堂司ヤイロのようにユダヤ教の重要人物の独りでありながら、世間の目を恐れず、人が何を言おうと、指さそうと、危篤状態の愛娘のために、イエス様の前にひれ伏して願い出た「後ろからではなく正面から」の人もいます。しかしそれだけがすべてではありません。長血という自分の汚れや自分の罪深さをわかっているだけに、後ろからイエス様の衣に信仰をもって触れることが精いっぱいの自分の信仰と考えている者もいるのです。人を非難したり裁いたり、こうあるべきだと一方通行の見方だけでなく、イエス様のような広い心を持たせていただきましょう。それが「愛」というものです。

ショパンの代表的な作品に「幻想即興曲」という美しい曲があります。ところがショパンはこれは「駄作」であると、発表せず隠したままでした。ショパンの死後、この楽曲が発見され、出版され、名曲として今日に至るまで世界中で演奏され、愛されています。

後ろからそっと衣に触れた者をも、主イエスはその信仰を認め受け入れ、正面から語り合う親しい友、神の家族としてくださったのです。

「あなたの信仰があなたを救ったのです」