【福音宣教】 12の籠の祝福

「そしてパン切れを12の籠いっぱいに取り集め、魚の残りも取り集めた」(マルコ6:43)

男子の数だけでも5000人の会衆に、主イエスは5つの大麦のパンと2匹の塩漬けの小魚を裂いて分け与えたところ、全員が食べて満腹した。しかもパンの残りを集めると12の籠いっぱいになった。

1. たった5つのパン

あまりにも少ないパンの数に、弟子たちは「なんの役に立つか」と最初からあきらめ、不可能と判断しました。人間的な計算に立ったからです。分ければその分、減っていくのが世に中の計算法則。しかしイエス様は信仰に立って、わずかな物を受け取り、天の父に感謝し、祝福を求めました。天国の計算法則は、分ければ分けるほど豊かに増えていくのです。全員が満腹してもなお余りが出るほどでした。足らないどころか余りがでるほど。残ったパン切れが12の籠、いっぱいになったのです。
主イエスのこの奇跡の原点には何があったでしょうか。少年が自分のお昼用のお弁当を「イエス様にどうぞ」とまるごと差し出したところからすべてが始まりました(ヨハネ69)。この少年にすれば、1-1は0、自分には何も返ってこない。「あげ損」状態のはずですが、この少年も一緒に座った50人のグループの人々とともにおなか一杯、喜びつつ食べることができたのでした。
                                        「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒2035)と言われた、主のお言葉の恵みを私たちも味わわせていただくことができます。

2.   主イエスはありあまったパン切れを集めるように命じました。

食い散らし青草の丘をゴミだらけにしないという配慮もあったでしょう。が、そんなことよりも、弟子たちに、そして主イエスを信じる一人一人に、受けた神の恵みを決して無にしない、無駄にしないという「信仰による後始末」を教えられたのではないでしょうか。食事の前に「いただきます」、終われば「ごちそうさまでした」ということもなくパクついて食べ終わり、すぐスマホを見る・・・。これは、日常よく見かける「感謝を忘れた現代人の姿」といえるのではないでしょうか。

先進国、日本の場合も該当しますが「フードロス」の問題は深刻であると言われています。本来、食物も空気や水と同様、創造主なる神が地上に住む、生物が生きるために備えてくださった「豊かな恵み」の一つです。神は無条件で豊かに恵みを与えますが、人間の罪と欲は、惜しみなく奪いとり、独り占めし、貧しい者、小さい者、弱い者からも搾り取り、搾取していきます。

日本の食品ロスは年間472万トン、金額にすると約4兆円になり、これは日本全国民が、毎日おにぎり1個を捨ててる額。廃棄食料はなんと、輸入食糧の1/3になるそうです。しかも、世界の飢餓人口は世界総人口の8%、6億7000万人にも達します。5歳以下の子供の4人に1人が「食の貧困」に陥っていると言われています。

「頂くだけ頂いたら、感謝も忘れてさっていく」という、なんともさびしいできごとが聖書に記されています。10人の重度の皮膚病(ツラート)の患者が、主イエスのもとに集団でやってきました(ルカ1712)。「祭司に身体を見せて、全快したと証明してもらい、家庭に帰りなさい」とイエス様は、送り出しました。その途中で彼らは癒されました。ところがイエス様のもとにすぐに帰ってきて、感謝し、主をほめたたえたのはたった一人だけでした。あとの9人は、のどもとすぎれば熱さも忘れるがごとく、そのまま立ち去ったのでした。「9人はどこにいるのか」と問いかける主イエスのことばは現代社会にも響いているように私には思えます。

「わが魂よ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを、何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し・・」(詩篇1032-3

3. 最後になぜ12篭なのでしょうか。

答えはシンプルです。なぜなら12弟子たちがそれぞれ旅行用に小さな籠をいつも携帯していたからです。籠と訳された言葉は、コフィノスで、ユダヤ人たちが旅行をするときに持ち歩いた枝で編んだ携帯用の籠をさすと聖書学者バークレーは語っています。これから続く旅のために、12人の弟子たちが食料を入れる自分の小さな籠に、残り物を詰めたと解釈しています。たいへん合理的な解釈ですが、みみっちい話に縮小されてしまっているようで、ピンときませんね。

主イエスが行った「奇跡」にではなく、このような奇跡をおこなうことができるイエスとはいったい誰なのか。ここに弟子たちも群衆もフォーカスが当たらなければなりません。

8章をみると、同じようなパンの奇跡がもう一度、イエス様によって行われました。今度は4000人の群衆に対して7つのパンを用いて食事が提供され、パンの残りは7つの籠にいっぱいに集められました。この2回にわたるパンの奇跡をもってしても、弟子たちは、イエス様がいったいどなたなのか、まだわからなかったのです。ですからイエス様は「まだ悟らないのですか」(821)と弟子たちに問いかけました。結論的に言えば、この直後にピリポ・カイザリアで、イエス様が「あなたがたは私をだれだと思うのか」と、問いかけた時、聖霊に満たされたペテロがついに、「あなたはキリストです」(829)との告白に導かれました。パンを無限に裂き与え、飢えた民を満たしうるお方こそ、約束されていたメシヤ、イスラエルの真の救い主、まことの王、良き羊飼いなのです。

主イエスがパンを裂き、それを飢えた人々に分け与えることは、イザヤ58:7「飢えた者にあなたのパンを与え、さすらえる貧しいものをあなたの家に入れ」と、預言されているように、恵みに富む神の愛と神の臨在を告げる、象徴的な行為でした(土戸清)。

イエスが約束されたメシヤ・救い主キリストであること、この事実、この真理がまず、12籠に象徴される神の民であるイスラエル12部族に明らかに示されたのです。これが「12籠いっぱいのパン」という奥義の意味なのです。2回目の「7つの籠」は、7という完全数で、全世界の諸民族を象徴しています。主イエスの十字架の贖いの死と復活によって、教会を通して全世界の民に、神の救いの恵み、絶対的な神の愛が宣教され、罪の赦しと永遠のいのちが、惜しみなく、無条件で、イエスを信じるすべての人々に与えられる。この「イエスキリストの福音」の宣教と救いの御業が「7つの大きな籠」に象徴されているのです。したがって、奇跡の数々よりも、それを行うことができる唯一の生ける神である、イエスキリストご自身に、目が開かれ、信仰が育まれることが最も大切なことなのです。

主イエスはヨハネ福音書において、飢えた者に、霊肉共に恵みのパンを与える救い主としてのご自身をはっきりと示しておられます。                                       「わたしがいのちのパンです。私のもとに来るものは決して飢えることなく、私を信じる者はどんなときにも決してかわくことがありません」(ヨハネ635

肉体上の飢えと渇きは世界的に決して看過できない深刻な問題です。しかしそれ以上にもっと深刻で悲惨な問題は「魂の飢えと渇き」ではないでしょうか。物が豊かで満ち溢れ、食べ物に事欠かない飽食の時代の中にあって、人々は満足し満ち足りているどころか、却って孤独と虚しさと疎外感の中で悩み苦悩しています。もしイエス様が現代社会の様子をご覧になればきっと「羊飼いのいない羊のように」(634)心を痛め、憐れみ、「私のもとに来なさい、あなた方を休ませてあげよう」と招き、小麦や大麦のパンではなく、「神の言葉」という「いのちのパン」で、すべての人々を余すところなく満たしてくださるのではないでしょうか。

12籠の祝福、それは飼うもののいない羊となった神の民イスラエルを顧み、真の羊飼いとなって導いてくださる主イエスキリストの臨在と、主イエスに聞き従う一人一人の人生という籠が、いつも豊かに満たされることを教えてくださっているのです。 

                           「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」ピリピ411                                                                    「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」(詩篇231