
「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」(マルコ7:8
人間の人柄は大きく「ことばの人」か「行動の人」かによって判断できると言われています。世の中には言葉だけの人もいれば、行動は早いけれどことばの説明が足りない人もいます。有言不実行よりは、不言実行のほうがまだましですが、理想は言動が一致していることですがこれはなかなか難しい。皆さんはいかがでしょうか。
主イエスの場合はさらにそこに祈りが加わり、「祈りの人、ことばの人、そして行動の人」でした。しかも3つのすべてが矛盾なく「神の愛」に貫かれていました。ですから、キリストは「真の神にして真の人」として、信じる対象であるとともに、見習う対象としても尊重されています。どう生きていけばいいのか、何を信じて生きていけばいいのか、進む道がわからず、目的もわからず、モデルとなる人も見いだせず、人知れず苦しみ悩んでいる若者も多くいます。だれも人生で自分の先生、師として仰ぐ対象を探し求めていますが、なかなかそのような人物に出会うことは難しいのではないでしょうか。もしそうであるならば、聖書に記されているイエス様をもっともっと知って、「イエス様のように生きる」ことを学んでいただきたいものですね。
今日の聖書の個所は、自己矛盾に気づかず、イエス様から偽善者呼ばわりされたパリサイ人とイエス様の論争が記されています。
1. エルサレムから派遣されてきたパリサイ人と律法学者(1)
イエスの評判がユダヤの国の都エルサレムにも届き、サンヒドリンと呼ばれる宗教議会から調査のためにユダヤ教の戒律に厳格なパリサイ人と法律に詳しい学者たちが、イエス様の宣教活動の拠点であるガリラヤ地方に派遣され、イエス様の言動を監視し始めました。彼らは弟子たちの言動にまず、目をつけました。
さっそく彼らの目にとまったことは、弟子たちが手を洗わないで食事をする行為でした。パリサイ派の人々は、宗教儀式に則って手を洗って、この世の穢れを落としてからしか食事をしませんでした。これは神が定めた大切な戒めというよりは、昔の人の言い伝え、人間的な習わしにすぎませんでした。自分たちが大事にしている「言い伝え」や「習わしやしきたり」に忠実であってもかまいませんが、そこに固執するあまり、それに反するからと言って人格まで否定し、罪人呼ばわりする態度を、イエス様は厳しく叱責されたのでした。手をいくら洗っても、それでこころや魂まで清くなるわけでは決してありません。パリサイ人は儀式的形式的な枝葉のことにこだわり、イエス様は本質的なことをいつも重視されました。
2 コルバンというつくられた制度(11-12)
次にイエス様は。「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8-9)。昔からの「言い伝え」に固執して、もっとも大切な神の愛と御心をないがしろにしていると語り、パリサイ人にとって耳の痛い具体例を取り上げました。彼らは、「神への義務は、親に対する義務よりも優先すべきである」と強調していました。その考えから、「コルバン」(神へのそなえもの)という制度が設けられました。神へささげたものは他の目的には使えない、手をつけてはならないとされていました。ですから、このお金は「神にささげるつもりです」と言えば、実際は何もささげてもいないにもかかわらず、親への扶養義務や責任を回避することができたという実態がはびこっていたのです。
「あなたの父、母を敬え」(10)という神の戒めは、モーセを通して神が与えた「十戒」の中で、人間に対する一番目の戒めとなっています。さらに「父母をののしる者は死刑に処せられる」という罰則までつくられていました。にもかかわらず、「コルバン」(神にささげた)と宣言をすれば、老いた両親の生活を金銭の面からお世話することから免れるという、逃げ道に用いられていたのでした。パリサイ人は、神への愛を強調するあまり、隣人への愛をおきざりにしてしまっていたのです。隣人の中でももっとも大事な両親への愛と扶養義務をなおざりにしてしまっている、その事実が見えなくなっていました。
しばしば何かにこだわり、意識が集中するあまり、「視野狭窄」状態に陥り、全体が見えなくなったり、バランス感覚を極端に欠いてしまうことが起こりえます。わたしたちも自覚したいですね。
3. 自分で気づかない自己矛盾
本来、旧約聖書に記されている神の戒めの本質は、「神を畏れ敬い、自分のように隣人を愛する」ことでした。ティーリッヒは「人間の罪とは、神に対する不信仰、人に対する傲慢さ、この世に対するむさぼり、強欲」であると言いました。神への愛と人への愛こそが、神が教えた戒めの中心なのです。ですからイエス様は「2つの中心的戒めに立ち返りなさい」と強調しておられます。第一は「心を尽くして神を愛すること」、第二は「隣人を愛すること」(マタイ22:37-39)でした。613にも及ぶユダヤ教の戒律をイエス様はこの2つに要約したのでした。
ところが人はだれもこの二つですら、完璧に守ることができません。そんな人間の弱さや不完全さを主イエスは良く知っておられます。理想通りには生きられない人間の過ち、愚かさ、罪深さを糾弾し、裁くために主イエスは来られたのではなく、むしろすべてを引き受け、身代わりとなって罰を受けて十字架で死なれるために来られました。 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(マルコ2:17)
パリサイ人は枝葉にこだわり、不完全さを罪と呼んで人を厳しくさばきましたが、イエス様はすべての罪を引き受けて十字架の上で贖いの死を遂げてくださったのでした。
こんな小話があります。旅人が井戸に落ちてしまった。道徳的な生き方を説く儒教の師が「今度から落ちないようによくよく注意をして歩きなさい」と説教して立ち去った。仏教の高僧が「これも前世の因果応報のゆえと悟りなさい。今度生まれ変わったら徳を積みなさい」と念仏を唱えて立ち去った。次にキリストが来て、黙ってその井戸の中に飛び込み、泥だらけ傷だらけ、血に染まりながらその人を救い上げた。この小話は、それぞれの救いの道が端的に表現されているように思います。
パリサイ人は、儀式的形式的、枝葉の事柄にこだわり、神の戒めの本質を見失っていました。私たちもこのような生き方に気づかないまま過ごしている可能性があります。イエス様は「偽善」と呼びましたが、本来の意味は「役者」という意味です。舞台の上で演技をするだけでなく、人生や生活という舞台でも演技をしてしまうことを偽善といいます。
人は日中歩けば影ができるものです。影がなければ人間ではありません。人は誰もが表と裏、光と影、笑いと悲しみを抱えて生きています。使徒パウロでさえも「私はみじめな人間です。この死の体から誰が私を救ってくれるのか」(ロマ7:24)と自分を真実に深くごまかさずありのまま見つめています。そしてそこにキリストの十字架による救いを見出し、聖霊による新しいいのちの道を見出したのです。誰もが自己矛盾を抱えて生きています。人間だからいたしかたない。しかし、そのことに気づいた者から、神の赦しといのちに満ちた新しい道を、キリストと共に歩みだすことができるのです。
「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく創られた人なのです」(2コリント5:17)