【福音宣教】 伝統と改革

「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」(マルコ7:8) 「新しい葡萄酒は新しい皮袋にいれるものです」(マルコ2:22)

京都は不思議な街で、昔の日本の都として1000年の歴史を持つ文化と歴史の街です。ですから京都では創業100年の歴史をもって初めて「老舗」と呼ばれるそうです。一方で京都には日本を代表するような最先端の企業の本社が数多く存在しています。京セラ、日本電産、村田、オムロン、任天堂、ローム、島津、ワコールなど。さらにアジアの大学で最多となる11名ものノーベル賞受賞者を自然科学分野で京都大学は輩出しています。つまり京都は古い伝統と最先端技術が融合しているユニークな文化、風土を形成しています。

AIで調べると、「伝統」とは、ある社会で長年にわたって培われ、受け継がれてきた信仰、風習、制度、思想、芸術などのことです。一方、「改革」は、旧来の組織、制度、習慣、方法などを新しく変革することです。これらはしばしば対立する概念と捉えられがちですが、実際には、伝統が時代に合わせて発展(進化)し続けることで、未来への発展の土台となることもありますと書かれていました。           広い意味で京都地域にある宇治バプテストキリスト教会も、キリスト教会が持つ古い良き伝統を大事にしつつ、それにとらわれることなく常に改革し続けていく教会として存続し、この地に歴史を刻んでいきたいと思います。

1.    改革者イエス

先週学んだように、エルサレム神殿当局と宗教議会から調査に来たパリサイ人と律法学者たちの論争が記録されています。イエス様の主張は「あなたがたは人間の言い伝えに固執し、神のみ旨である戒め、「神を愛し隣人を愛せよ」をないがしろにしている」という点でした。ここにいわば改革者であるイエス様と古い体質のまま伝統と言い伝えにこだわる体制派の対立を見ることができます。

イエス様は、すでにマルコ2章でユダヤ教の指導者であるパリサイ派や律法学者たちと論争しています。論点は「なぜ、イエスは取税人や罪人たちを一緒に食事をするのか。汚れてしまうではないか」「なぜイエスの弟子たちは、安息日に麦の穂を摘んで食べるのか、重大な安息日違反ではないか」などでした。結論として、イエス様は「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れるものです」(マルコ2:22)と語られました。

イエス様の時代、旅をする人や商売をする人は、葡萄酒を動物の皮で作った皮袋の中に入れて持ち歩いたり運んだりしていました。なぜなら、新しい葡萄酒は発酵力が非常に強く、弾力性を欠いた古い皮袋では圧力に耐えられなくて袋が破れてしまうからです。中心は、新しい葡萄酒の発酵力、生き生きとした力強い生命力や新鮮さにあります。その生命力を古い皮袋に押し込んで封じ込め殺してしまってはならないという点でした。

今日は、新しい葡萄酒と新しい皮袋に焦点を合わせて学びましょう。

2.   新しい葡萄酒と新しい皮袋

新しい葡萄酒とは、第一にイエス様ご自身です。このお方は、人となられた神の御子です。

新しい、古いという言葉はふつう「時間枠」で考えられます。けれども天から来られた、上からこられた、という「質的な新しさ」も考える必要があります。イエスキリストを知るために、そしてこのお方とのいのちの交わりの中に生きるためには、新しい皮袋を必要とします。それは「信仰」です。人間的な知識たとえば、世界の4大聖人の一人、教科書に載っている歴史上の人物、そんな人間的なレベルの知識ではイエス様のすばらしさは1mmたりとも理解できません。まるでおいしいスープを箸ですくって食べるようなものです。スープはスプーンでおいしくいただく必要があります。聖書は、「彼を受け入れた者、その名を信じた者に神の子となる特権を与えられた」(ヨハネ112)と教えています。受け入れるとは信じることなのです。そして信じることとは全幅の信頼を置くことでもあります。主イエスキリスト、この方は「父の御もとから来られたひとり子(14)であり、「信仰」という新しい革袋を必要とするのです。
「ことばは人となって私たちのあいだに住まわれた。私たちはこのかたの栄光を見た、父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)

新しい葡萄酒とは、第二にイエス様によってもたらされた「神の国の福音」喜びの良き知らせを意味します。

神の国は将来の希望でありつつ、今私たちが生きている現実でもあります。単なる望みでもありません。地上の生涯が終われば遺骨となって墓の下に納められます。しかしそれが最後ではありません。そこから新しいいのちに生きる神の国の扉が開かれるのです。これこそクリスチャンが持つ揺るがない大いなる希望です。さらに、神の国はこのように将来を望みつつ、同時に今、ここに現臨される復活されたキリストと共に生きることの中に展開されます。

「2-3人、私の名によって集まるところに私もいる」(マタイ1820)。そしてキリストが臨まれるところが「すでに神の国」なのです。それを体験できるのは、御霊に導かれた祈りにおいてのみです。ですから新しい皮袋とは「聖霊に導かれた祈り」と言えます。ユダヤ教では定型の祈りが中心でした。しかしイエス様が弟子たちに教えてくださった祈りは、全く新しい祈りでした。神を父と親しく呼び、御国を来たらせたまえと最初に願い求める祈りでした。
主の祈りを「キリスト教念仏」にしてはなりません。主の祈りを化石化してはなりません。主の祈りを生き生きとした祈りに高め、深め、広げるのは、御霊のお働きです。聖書は「御霊によって祈りなさい」と教えています。 カトリック教会では伝統的に「瞑想」メディテーションを重視しています。沈黙の中に神の御声を聴くことを習慣にしている伝統は学びたいものです。フランスの小さな村にカトリックとプロテスタントの修道士たちによる「テゼ共同体」が創設されています。この兄弟の中で数日過ごすことによって、祈りの中で、静かな瞑想の中で現臨されるキリストとの出会いを経験し、癒しを経験し、抱えて苦しんでいる数々の問題に光が与えられ、苦悩から解放され、再び戻っていくそうです。驚いたことに、年間10万人もの若者が訪れるそうです。御霊に満たされ御霊に導かれてささげる祈りの世界の中で、よみがえられた主イエスは出会ってくださり、ご自身の愛と真理を伝えてくださるのです。言葉があふれかえる世界の中で、沈黙の時はますます価値を高めています。御国の福音は、祈りという新しい革袋を必要としています。

新しい葡萄酒とは、第三に、聖餐式です。

ユダヤ教の神殿における儀式に変わって、イエス様は聖餐式を定められました。神殿において祭司たちの手によって、祭壇にいけにえの犠牲を何度も繰り返す必要はもはや不必要となりました。神の御子が傷のない完全な犠牲の小羊となって十字架で死なれ、民の罪を完全に贖ってくださったからです。屠られた動物の犠牲は焼かれて灰になって終わりですが、主は死からよみがえられ、死と滅びから永遠のいのちと神の御国へと信じる者を招き入れてくださいました。聖餐式は十字架の死を記念するだけではなく、神の御国での祝宴をも意味します。ですから喜びの祝いのときでもあるのです。

エルサレムの二階座敷で行われた主の最後の晩餐は、復活後のエマオ途上の弟子たちの家での食事、ガリラヤ湖での朝の食事へとつながっています。主が食卓にふたたび弟子たちを招いてくださっているのです。この生き生きとした喜びに満ちた聖餐式を提供できるのは教会だけです。教会の宝、受け継がれてきた「遺産」は聖餐式といえます。この意味で新しい皮袋は「キリストの教会」といってもいいでしょう。祈りと聖霊にみちた生きた教会においてささげる礼拝と聖餐式は、私たちの献身と感謝のしるしであり、そこに臨在されるキリストと食卓を囲む喜びの場でもあるのです。聖餐式を単なる儀式にしてしまうのは私たちの罪と言えます。

聖餐式において提供されるパンとジュースは決して高価なものではありませんが、そこには2000年の歴史が受け継がれています。その自覚を現代のクリスチャンは失って、うすっぺらな聖餐式にしてしまってはいないでしょうか。どのように丁寧に祈りつつ聖餐式を用いれば、「主の食卓」に預かっていることを実感できるのでしょう。ご一緒に考え、改革していきましょう。

京都は1000年の歴史を持つ古都です。教会で執り行われる聖餐式は、それ以上2000年の歴史をもつ価値ある伝統、聖礼典であり、「教会の宝」です。その輝きは決して廃れません。

かつて英国を訪ね、荘厳な国教会でささげた聖餐式は感動的でした。その日はちょうど「子供の日の聖餐式礼拝」でした。盛装した子供たちが十字架と燭台を掲げて入場します。献金のお祈りも子供がお母さんの付き添いのもとでささげました。大人も子供も一つとなって聖餐式に預かります。子供たちの顔も誇らしげで輝いていました。それは、地上における御国の姿を想起させる豊かさに満ちていました。

宗教改革者は正しい健全な教会の3つのしるしとして、「み言葉が語られ、聖餐式が執行され、教育訓練が行われている」ことを重んじました。聖餐式を聖餐式として回復する、それはまさに新しい皮袋とされている教会が、現代に取り戻すべき古くて新しい課題ではないでしょうか。


「ですからあなたがたはこのパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11:26)