
イエスはまた言われた。「人から出てくるもの、それが人を汚すのです」(マルコ7:20)
小学校時代、私の修学旅行先は奈良京都でした。京都の清水寺の音羽の滝でみんなで手を洗って、口をゆすいで、水を飲んだ記憶があります。神社仏閣では、参拝するにあたって「手を洗う」儀式がしばしば行われます。衛生上の必要上というよりは、「お清め」の宗教儀式とみなされ、無意識に伝統的習わし、しきたりとして行われています。
旧約聖書にはこれを食べてはならない、これに触れてはならないという「食べ物に関する規定」(レビ11章)が詳細に記されています。こうした戒めは、神の民とされたイスラエルをほかの異民族から聖別し、神の民として信仰に生きる民族的な自覚・アイデンティティを高める目的で定められました。ところが次第に、「食べる物が汚れていれば、心も汚れてしまう。聖い食べ物を、聖い人々と一緒に食べることが聖い神様に喜ばれること」と考えられるようになり、形式的儀式的になり、守れない人々を「罪人」呼ばわりするようになってしまいました。神の定めた戒めに対する人間のさまざまな解釈がまとめられ、これが「言い伝え」として受け継がれるようになったのでした。今日の個所でも、イエス様とパリサイ派の人々との「食べ物を巡る論争」が記されています。
1. 私に聞きなさい(14)
旧約聖書申命記6:4には「聞け、イスラエル」という預言者の言葉が記されています。まるでそれを彷彿させるように、群衆に向かって主イエスは「みな、私の言うことを聞け」そして「悟りなさい」(14)と語りかけました。イエス様の時代、ユダヤの国の識字率は低く、祭司階級の人々でさえ読み書きは難しかったそうです。したがって人々は「聞くしかない」し、大切なことは「口伝」、口で伝えて、耳で聞いて覚えることが中心だったそうです。そして聞くだけでなく、悟ること、つまり理解すること、自分のものとして消化することが求められました。盲目的服従ではない。「父の懐にいる独り子の神だけが父を解き明かすことができる」(ヨハネ1:18)。だから「私のもとに来て学べ、悟れ」と主イエスは言われるのです。
2. 外から入るものはなに一つ穢れていない 神が創造されたものは「良い」ものである(15)
「すべての食物はきよい」(19)のです。これはイエス様の見解であり、画期的なスタンスでした。
この世界に、食べて「人を汚す、つまり魂を汚すようなものはない」。もちろん、食べすぎたり、賞味期限が過ぎて腐っているものや、細菌に汚染された物を食べれば、腹痛や下痢や嘔吐や発熱を生じて、病院に行かなければなりません。肉体に害を与えてしまう物は多く存在しますが、大福もちを食べたので、「私は汚れてしまった。罪深い人間だ」、わたしが人を恨んだり憎んだりするのは「きっと焼き肉を昨日食べてからだ」などと言う人はいません。イエス様が指摘しているように、反対に、「汚れているものは私たちの口から出るもの」(20)なのです。
そこで主イエスは21節で、私たちの口から、すなわち心から流れ出て、周囲の人々を害する13の悪徳について語ります。
そもそも、「こころにもないことを言ってしまった」などと言い訳をしますが、真実ではありません。口はところてんのように、心にあるものをそのまま流れ出させます。「そんなつもりはなかった」という弁解も、真実ではない。人間の営みのすべて、考え、意図し、決心し、行動するすべての生産工場は「こころ」です。「人は心にあふれてくることを語る」(ヤコブ3:11-12)とあるとおりです。
心理学では、心の投影と言います。自分の心にある思いや価値観で、私たちは世界を見ているのです。警察官を見て「怖い」と思うか、「頼もしい」と思うか。のどかな田舎の風景を見て「美しい」と思うか、「退屈極まりない」と思うか。私たちは心の中の世界を外界に映し出して観ていると言われています。
さて、12の悪徳の最初の6つは複数形で記され、「常に繰り返されている」ことを現わすそうです。モーセの10の戒めの、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、貪るな」にも結び合わされています。ドイツの著名な神学者であるティーリッヒは人間の罪は「神に対する不信仰、人に対する傲慢さ、世界に対する欲情・貪欲」の3つに尽きると言いました。主イエスは365ある戒律をただ2つに凝縮し、しかも禁止命令ではなく積極的肯定的な指針として示しました。「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」(マタイ22:37-39)と。ヨハネはさらに「ただ一つのイエス様の戒め、命令」として「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)との言葉に結晶化しました。
イエス様が最も伝えようとされたのは、清めの水で手を洗って聖なる神を崇めることではなく、悔いし砕かれた清い心で心から感謝と賛美を神にささげることでした。
イエス様の食物規定を廃する確信的なメッセージは、2つの新しい可能性の道を大きく開くました。
第一は、異邦人宣教の進展です。食物規定はユダヤ人と異邦人とを隔てる「障壁・壁」となっていました。当初はペテロでさえ戸惑いました。異邦人であるイタリヤ人コルネリオ一家を救いに導く前に、神様は夢の中で「穢れた動物を食べなさい」と3度にわたって示しました。ペテロはその結果「どの国の人であっても神を畏れかしこみ、正義を行う人なら、神は受け入れられるのです」(使徒10:35)との理解へ導かれました。パウロの宣教によって異邦人世界に福音が伝えられ多くの異邦人クリスチャンが誕生したとき、ユダヤ人クリスチャンとの間で、「食物規定」を巡る対立が生じました。解決策を図るためエルサレム会議が招集され、協議されました。結論は両者の交わりと食事において、異邦人クリスチャンは「偶像に備えたものと、血と、しめ殺したものと、不品行を避けること、これらのことを注意深く避けていればそれで充分です。以上」(使徒15:29)というシンプルなものでした。さらにのちの時代、パウロはローマ教会の信徒に対して、「なんでも食べて良いと信じている強い人もいれば、偶像にささげた肉を食べてはならないと信じている弱い人もいます。私が確信していることは、それ自体で穢れているものは何一つないということです(14:16)」。強い人は弱い人をつまずかせてはならない。律法に縛られている弱い人のためには愛の配慮を心がけなさい。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰としてそれを保ちなさい」(14:22)」と教えています。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(14:17)。愛の配慮、これこそが神の愛なのです。
3. 新しく心に迎えるもの
イエス様は口から入るものは魂を汚すことにはならない。心にあるものが外にあふれ出て害するのだと言いました。 ウオッチマン・ニーという中国の伝道者が書いた「キリスト者の標準」という信仰書があります。私たち生まれながらの肉なる人間の心の中には廃液を垂れ流している悪しき工場が存在している。キリストの十字架の赦しは、垂れ流された廃液をきよめてくださる。しかし廃液を垂れ流し続ける工場が廃止され、操業停止とならなければ根本的な解決にはならない。それが「古き自分が十字架で葬られることである」(ロマ6:6)。そして操業停止となった工場は、新しく建て替えられた。それが「聖霊による新生」である。新しく建て替えられた工場からは、かつてのように「毒液が垂れ流されるのではなく」、御霊による愛があふれ流れ出て、実を結ぶという趣旨が記され、若い日の私は目が開かれる体験をしました。イエス様がリストアップした12の悪徳・罪とは、真逆の「御霊による8つの実」がリストアップされています(ガラテヤ5:22)。人を傷つけ、苦しめ、破壊と破滅へと導く罪・汚れではなく、自分を生かし人をいかし、傷を癒し、和解と交わりに導く御霊の働きと実がここには約束されています。
自分で自分を変えること、自分の中から出てくるたれ流し状態の悪徳の元栓を自分で閉めることは不可能です。もしそれができればパウロは「私は自分が願っている善ができなく、願っていない悪を行っている。誰がこの死の身体から救ってくれるだろう」(ロマ7:25)ともがき苦しむことはなかったことでしょう。キリストを信じる時、甦られたキリストが御霊と共に、私たちの心の中に来て、住んでくださいます。私たちの内には古い自分だけではなく、御霊と共にキリストがおられるのです。私たちの口から出る最初の「きよい言葉」は、イエス様への信仰告白ではないでしょうか。誰も聖霊によらなければ「イエスを主と告白できない」のですから、最初のきよい言葉は「イエスは主です」との告白の言葉なのです。この信仰告白は、いわば閉められていた水道栓が開かれる瞬間でもあると言えます。神への感謝と人への感謝があふれ流れてきます。入院中の姉妹はお世話してくださる看護師さんや介護士さんに、ありがとうといつでも口にされ、手話を使って「ありがとう」と伝えておられます。
この「イエスは主です」との信仰告白が流れ出るまでは。私たちの心の底からは、相も変わらず「毒舌」しか吹き出してこないのです。蟻が10匹ぐらいウロチョロしているような感謝ではなく、どんな時でもあふれるばかりの感謝が主イエスのもとからは流れ出てくるのです。
「すべてのことについて感謝しなさい。これがキリストイエスにあって神があなたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:18)