
「でも、食卓の下の小犬でさえも、子供たちのパンくずはいただきます」(マルコ7:28)
イエス様の活動地域は 主に ガリラヤ湖のカぺナウム・ベツサイダーを中心としたガリラヤ地方でした。 7章に入り「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15) と呼ばれたツロ。シドン地域、イスラエルの国境から20㎞ほど北方へ離れた地中海沿岸地方へとイエス様は足を運ばれました。そして10章に入ると舞台はいよいよユダ・エルサレムへと移っていきます。 すでにマルコ3章7-8節では 「ヨルダンの向こうの地 また北のツロ・フェニキアからもおびただしい群衆がみもとに押し寄せてきた」と記してあります。イエス様のうわさはこの地域にもすでに伝わっていたと思われます。
さて、イエス様はフェニキア地方に出かけられ、家を借りて身を隠しておられました。なぜでしょうか? パリサイ人は完全にキリストに敵対し拒絶しています。群衆はひたすら癒しをもとめて押し寄せてきます。彼らは安易につまずきます。一方、弟子たちは相変わらず悟りが鈍くて、多くの奇跡を目撃し、御国の教えを幾度も聞いていたにもかかわらず、「この方はいったいどなただろうか」と驚くばかりで、イエス様を救い主、約束されたメシヤと信じきれない、中途半端な有様でした。イエス様の活動舞台はやがてユダ・エルサレムへと移り、イエス様はいよいよカルバリの十字架というクライマックスへと進みます。そのためにはまず、弟子たちの目が開かれ、十字架の道を歩まれる主イエスのみこころを理解する必要がありました。ツロ・フェニキヤ地方への旅は伝道旅行というよりは、弟子たちとのリトリート、主イエスを霊的に知り、深く交わるための旅行という性質をもっていたと思われます。
1. ツロ・フェニキアの女性
ところが、イエス様が町に来られたと噂で聞いた一人の女性がさっそく、イエスさまのもとを訪ねてきました。 彼女はギリシャ人でツロ・フェニキア生まれという、明らかに異邦人でした。しかも、彼女の幼い娘が悪霊につかれ狂乱状態に陥っていたため、めちゃめちゃな生活を強いられていたと思われます。マタイの福音書がさらに詳しく その状況を記しています。マタイ15:22では「 主よ、ダビデの子よ、私を哀れんでください」 と叫び声をあげ続け(未完了形)、懇願したと記されています。 そしてイエス様の前に来てひれ伏しました。娘の癒しを願う母の涙ながらの訴えですから、イエス様はすぐに癒してくださるものと、私たちは想像しがちですが 、イエス様は彼女の願いを聞き流し、さらには「子供達のパンを取り上げて 子犬に投げてやるのは良くないことだ」と、彼女の願いを拒否されました。
私たちの信仰生活においても、切実な祈りが聞き流され、あるいは拒否されるように思えてしまような時、心を砕かれてしまう時があります。 苦しくて辛くて失意のどん底にいるからこそ、必死で祈るのに、神が聞き流し、拒否されるように思えてしまう、いわば二重の打撃と言ったらいいでしょうか。 ただでさえ、直面する問題の難しさや重圧ですでに心が折れてしまっている上に、祈りが聞かれない。失意と悲しみによって、ニ度、心が折れてしまうような、苦しい思いを私たちも経験するのではないでしょうか。多くの場合、 ここまでかと、諦めて立ち去ってしまうかも分かりません。
2. 子犬でさえ パンくずは いただきます(28)
しかし、彼女はイエス様が「小犬」(Kunarion)と、言われた言葉を聞き逃しませんでした。 ユダヤ人は一般に異邦人を犬(kuwn) と呼んで軽蔑しました。これは野良犬を指す言葉です。 野良犬という言葉は 異邦人に対する最大の軽蔑言葉でしたが、イエス様が使われたのは 子犬、これは家の中で飼われている犬を指す言葉です。 家で飼われている犬は、主人の食べ物を勝手に奪い取って食べたりすることはありません。 テーブルの下にいて、主人の食卓から落ちるパンくずを食べます。ですからこの母親は、「主よ、その通りです。でも小犬でさえ、主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と、なおも願い求めました。 飼い犬は主人とその子供たちと自分をちゃんとわきまえています。中には、自分が女王様か、お姫様のように振る舞って、飼い主を家来だと思っているような犬もいるようですけれども 。
この女性はユダヤ人の目から見るならば、自分たちは神との恵みの契約から離れた異邦人であり、「犬」と呼ばれてもそれを受け止める「謙虚さを持っていました。 しかし 同時にマタイによる福音書では「主よ、ダビデの子よ、哀れんでください」 と呼びかけています。 弟子たちでさえ言葉にできなかったイエス様への信仰を胸に抱き、告白しています。異邦人である私たちにも パンで象徴されるような「神の憐れみと神の御国の恵み」、と、その「ご支配」に招き入れられると彼女は信じていたのでした。 それはまさに、驚くべき信仰でした。
3. 見上げた信仰だ(マタイ15:28)
イエス様は彼女の応答を聞き、「ああ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と答えました。立派と訳されたMegare は大きい、際立っている、すごい、そのような意味です。イエス様の驚嘆を指している。そして、「あなた」が強調されています。 マルコの福音書では「そうまで言うのですか。それでは 家へ帰りなさい 悪霊は娘から出て行きました」と主イエスはこの母親に答えました。「その言葉で十分である」とも訳されています。 彼女は娘の癒しを直接見てはいませんが イエス様の言葉を信じて信仰を持って、家路に着きました。家に帰って彼女が見た世界は 今までとは全く違っていました。半狂乱で荒れていた娘は今、安らかに 平安に包まれて眠っていたからです 。彼女のイエス様への信仰が、彼女と彼女の娘を救ったのです。異邦人にまで及ぶメシヤの救いと神の国の恩寵を、彼女は十分味わったことでしょう。
4. 神の恵みは 境界線を超える
フェミニズムの立場から 聖書を研究している 山口先生はマルコの注解書の中で、「神の恵みは境界線を超える」と表現しています。イエス様はユダヤ人と異邦人という民族的な境界線を越えて、神の恵みを与えてくださるお方です。マルコ福音書は、諦めずに熱心に主に求め続けるという「祈りの努力」や「熱心さ」を強調しているのではなく、 主イエスが民族的な人間的な境界線を常に打ち破ってくださるお方であること、これこそが神の御国の恵みそのものであることを強調しているのではないでしょうか。
地上の国には境界線がありますが、神の国には境界線はありません。すべての国民が、キリストを信じる信仰によって、御国に招かれているのです。私たちの心の中にも目に見えない境界性が引かれ、差別や偏見、内と外との区別が無意識に行われてしまっていることを認めざるをえません。
ヨハネ福音書4章では、サマリアの女性に対して、イエス様が「尽きることのないいのちの水を与えられる」出来事が記されています。当時、ユダヤ人とサマリア人とは敵対関係にあり、ユダヤ人はサマリアの地域に足を踏み入れることさえ「汚れる」と思い拒んでいました。イエス様は「あえて」このサマリアの地域に入られて、スカルの町の井戸のほとりで、一人の女性と出会われました。 そしてイエス様は エルサレムでもこのゲリジウム山でもなく、霊とまことをもって神を礼拝する時が来る(4:21-24)と語られました。全ての民が、キリストを通して、真の神を礼拝する時が来る、それはすなわち、分け隔てなくすべての民が「神の御国」に導かれる終末論的な恵みが約束されたのです。
ギリシャ人であるこの女性は、当然ながらプライドをもっていたことでしょう。
しかし「小犬」呼ばわりされても、怒ったり、反発したり、抵抗したりせず、謙虚に受け止めました。プライドが邪魔をして謙虚になることができないことがしばしばあります。教会に来ていきなり「あなたは罪人です」と牧師の説教で指摘され、「なんと失礼な」と怒って帰ってしまった方がおられたそうです。もちろん聖書が伝える「罪人」ということばは「犯罪者」を意味することばではありません。「神のもとから離れ出て、道をさまよい、虚しさの中に生きるあり方」を聖書は罪と呼んでいます。その結果、様々な人間関係のいざこざや争い、怒りや憎しみの念、自分ではどうにもならない欲望の渦に翻弄され、良心のうずきに苦悩する日々が待っています。そんな現実に目が開かれ、「自分も神の前には一人の罪人なのだな」と気が付くところから、信仰の扉は開かれます。人間的なプライドへの固執から解放され、神の御前にひれ伏す一人の礼拝者へと導かれるのです。
ツロ・フェニキヤの女性は2000年前に出来事ではなく、現代に生きる私たち一人一人の経験でもあると言えます。「小犬でさえ子供たちのパンくずを頂くことができます」彼女のこの言葉はまさに謙虚さ、すなわち心の貧しさをいみしていると言えます。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイ5:3)
「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをくださる」(ヤコブ4:6)