
「これらの人々はみな、信仰の人として死にました。・・・地上では旅人であり寄留者であることを告白していました」(へブル11:13)
今年もご遺族の皆様とご一緒に召天者記念礼拝をささげることができ感謝です。今年5月に田辺智子姉(初代宇治教会牧師夫人)が天に召されました。名簿には61名のお名前を記させていただいています。 そして私たち一人一人も1年、年を重ねました。一休禅師はお正月にしゃれこうべをもって町や村を巡り歩き、「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり
めでたくもなし〜」と説いてまわったそうです。私たちは1年迎えるたびに、「天国へさらに近づいた」という喜びを改めて覚えます。地獄近づいたとは思わないところが恵みに生きる幸いですね。「めでたしめでたし」と感謝したいものです。
さて、へブル書11章は、「信仰列伝」とも呼ばれ、旧約聖書の時代に、多くの困難や苦難がありながらも信仰を抱いて生涯を歩んだ人々が紹介されています。
1. 信仰の人として死にました(13
ヘブル11章には16名以上の名前が記されています。 彼らの生涯は信仰に生きた人という表現で集約することができます。「信仰に生きた」とは具体的にどんなことを指すのでしょうか。11章1節には「信仰とは望んでいることを保証し 目に見えないものを確信させるものです」と特徴が記されています。信仰とは「待ち望んでいるものに対して必ずそれを得ることができると確信して疑わないこと」と説明されています。 さらに「保証」という言葉が使われているように、必ずそれは手に入れることができる最高の価値と喜びの確実さを表しています。 では何を待ち望むのでしょうか。 日本人であれば それこそ「商売繁盛 家内安全 無病息災 良縁 子宝に恵まれますように」などと望むかもしれません。 しかしそれは「保証」されたものでは決してありません。 移り変わる危うさに満ちています。
むしろ、信仰者たちは「目に見えないもの」を待ち望みます。目に見えないもの、すなわち人間の目で直接見ることができない天地を創造された永遠なる神とその神が約束された、今はまだ目で見ることができない未来の国、神の国、天の御国を待ち望むのです。見えないものは信じないという人がいますが、寂しい人ですね。目に見えないから存在しないとは決して言い切れません。銀河系にある星のほとんど目に見ることはできませんが、2000億個の星が存在していると言われています。 私たちクリスチャンは信じ、そして確信をしているのです。
・永遠なる神は私たち人類の歴史を導いておられ、その人類の歴史の究極のゴールに永遠の神の国を用意しておられることを信仰者は信じています。 永遠の天のみ国を確かなものとして疑うことなく 希望を持って待ち望むことが信仰であると聖書は教えています。この地上での旅路を終えれば、永遠の神の御国に、時空を超えて移されることをみじんの疑いもなく信じているのです。 そして、永遠なる神が導かれる 目に見えない「神の国」という希望に生きた人々を「信仰に生きた人」と呼ぶのです。
2. 地上では旅人・寄留者として生きる(16節)
彼らはこの大きな希望を持つゆえに、地上では旅人または寄留者として生きました。旅人や寄留者はその地に土地を買って家を建て子孫代々までずーとその地に住みつくことは考えていません。
昔から人生は旅に例えられてきました。徳川家康は「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し」と言いました。よっぽど彼はしんどくて苦しい道を歩んだんだなあと思っていたのですが、彼の言葉の真意は「人生は長い道のりだから焦らず、不自由さも当たり前のことと思えば不満も愚痴も減る」という趣旨だそうです。旅をするのに不必要な多くの荷物を背負い込んでしまえば不自由になります。ぎっしり詰まった大きな倉庫(ガレージ)を引っ張って旅をするような人は1人もいません。 聖書は「神を愛する人たち、すなわち神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを私たちは知っています」(ロマ8:28)と教えています。また「望みえないときに時に、望みを抱いて 信じて(ロマ4:18) 歩んでいくことができるのは、私の歩む道を、天の御国に入るその時まで、神が全てを知っておられ、導き、成就してくださると心から信頼しているからです。
・ 「彼らは地上にあるものよりももっと 優れたもの」を大きな希望を待ち望んでいました。 この世のお金や富や名誉や地位への奴隷にならず、神のみ旨にかなって良き管理者として生きていました。 つまり「全ては神からの預かり物」という心を持って、いつでもお返しできる柔らかな心で生活をしていたのです。ある大企業の会長が世界の名画をコレクションにし、部屋に飾り、自分が死んだら棺の中に入れて一緒に焼いてくれ」と言ったそうで、周囲の人々が驚いたそうです。 物質的に豊かさであっても心の貧しさがそこには見られます。「受けるよりは与える方が幸いである」と語られた主イエスの言葉の豊かさが伝わってまいります。
3. 神は彼らに都を用意された(16)
都とは神の国の中心を指します。神の国のど真ん中に住むという祝福を与えてくださっていることを示しています。まさにこれが「保証書」の内容です。 神のお約束に間違いなしという意味です。クリスチャンの中には、「私のようなものは天国の片隅で十分です」という方がおられます。 「天国でも、都ではなく辺鄙な田舎暮らしで十分、結構です」という人もいます。これは謙虚さというよりもむしろ自分の罪深さを心から深く自覚しているクリスチャンの言葉だと思います。しかし神様は神の国の都エルサレムのど真ん中にあなたを迎えてくださると約束してくださっているのです。全てのクリスチャンは「都人」(みやこびと)として生きることができます。
「わたしが行って、あなたがたの場所を用意したなら、また来て、あなた方をわたしのもとに迎えます。わたしがいるところにあなたがたもいるためです」(ヨハネ14:3)
しかも神は「彼らの神」と呼ばれることを恥とされません。なんと大きな慰めでしょうか。
・私のようなものでさえ、「私の神と呼ぶこと」をよしとしてくださるという意味です。信仰に生きた人たちも 決して聖人君子ではありません。多くの失敗や過ちや罪の中に生きた人々でした。彼らの足跡をつぶさに調べればはっきとわかります。 ある時、葬儀で「あまり父のことを美化しないでください。表面は良くても、家の中ではもう大変だったのですから」 と正直に話してくださったご家族もおられました。 でもそれでいいのです!!私はそう思っています。 私たちはみんな罪深い者たちです。そんな私たちのような罪深い者たちでさえ、「私の神」と呼ぶことを良しとしてくださり、受け入れてくださる恵みに満ちたお方が、私たちが信じる神なのです。「そんなことはわかってる、だからこそ、一緒に私が歩むのだ」と語りかけてくださる神がおられるのです。 だからこそ、「あなたのために私は十字架にかかってあなたの罪をにない、赦した」と宣言してくださる救い主がおられるのです。十字架にかかり死の力を打ち破り、よみが得られた神の御子キリストがおられるのです。これがキリスト教の恵みと言えます。
今日、名前をお呼びした 一人一人はそのような恵みの中に信仰によって招き入れられた人々です。さあ、皆さん、天の御国を目指す旅をご一緒に歩みませんか。
「信仰の創始者であり、完成者である主イエスから目を離さないでいなさい」(へブル12:2)