
「この時代はなぜ、しるしを求めるのか」(マルコ8:12)
1. 天からのしるし
デカポリス 地方から ガリラヤ湖西岸のぺナウムの南に位置するダルマヌタに来られた時、真っ先に迎えたのは主イエスにことごとく敵対するパリサイ人たちでした(11節)。 彼らはイエスを試そうとして悪意を持って議論をふっかけてきました。「あなたが噂通りのメシアなら、天からのしるしを見せてくれ。 我々が納得できるような」と要求したのです。 彼らが求めた天からのしるしとは、嵐を鎮める 病気を癒す 悪霊を追放するという地上で行ってきた奇跡的な行為ではなくて、まさにマルコ 9章24から25に記されているような「天変地異」終末の時にメシアによって起こるとされている出来事を意味していました。イエスは彼らの不信仰と心のかたくなさに対して非常に嘆かれ、怒りさえ覚えて「なぜ今の時代はしるしを求めるのか。しるしは絶対に与えられない」(12節) と断言され、さっさと船に乗り込み、この地を離れ去りました。 もう相手にされなかったということです。
2. 不信仰な時代はしるしを求める
地中海地域と諸国を宣教をしたパウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求める」( 第1コリント1:22)と語っていますが、しるしを求めるユダヤ人に対して主イエスは「すでに預言者 ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない」(マタイ 12:39)と語っていました。海に投げ出されたヨナが大きな魚に飲み込まれて3日3晩、その腹の中にいたように、イエスはご自分の十字架の死と復活の出来事を「ヨナのしるし」と表現して予告をされたのです。イエス様のこの十字架の死と復活はやがて都エルサレムにおいて成就することになり、多くの人々がその目撃者となりました。
神の御子が人となって この世界に来られたこと カルバリの丘の十字架に釘付けにされ ご自身の死をもって全人類の罪を償い、負いきれない罪の負債を払い切ってくださったこと そして3日後に復活をされたこと 死の力と律法の呪いと罪の力を打ち破り、墓を空にし、重く閉ざされていた永遠の命への扉を開き、天の御国に至る唯一の救いの道を備えてくださったこと。この十字架の身代わりの死こそが、世に与えられた最大のしるしなのです。 しかし、この最大のしるしは同時に最大のつまずきともなっています。 十字架の言葉は滅びゆくものには愚かであるが救いにあずかる 私たちには 神の力である」(第一コリント1:18)
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、召された者たちにとっては神の力、神の知恵であるキリストです」。」
最大のつまずきと愚かさである十字架につけられたキリストを、それでも宣べ伝え続けるのです。それが教会に託されたミッションだからです。
3. 十字架の主イエスを信じる信仰
パリサイ人たちは天からのしるしを求め、神の臨在をその中に認めようとしました。
確かに奇跡的な出来事は、人々の心をとらえます。 韓国の教会のある牧師の証を聞きました。 朝鮮戦争の時、隠れ家が敵に見つかり周囲を取り囲まれ、一斉射撃をあびた。一人だけ大怪我を負いながら脱出することができたが、月が照らしだす夜、木にもたれかかるようにして息を潜めていた。ところが敵兵が横一列になって捜索を開始した 見つからないはずがない絶体絶命の状況の中で、彼は「神様助けてください。助かったならば 私は神様にお仕えします」と祈られたそうです。すると、なんと目の前にいる自分に全く気づかないで その脇を敵兵たちは通り過ぎて行ったというのです。まるで木だけしか見えていないように。彼はこの奇跡的経験を通して神がおられること確信し、献身したとのことです。
ある国立大学病院で、がんの摘出手術を受けるため、手術室に入った兄弟がいました。ところが執刀医がすぐにやってきて家族に説明をしました。「前日に検討したがんの箇所がまったくなくなっているのです」と。心を込めてずっと祈り続けておられた奥様の祈りが、神の恵みによってきかれた瞬間でした。牧師としてこのような神の御業を私は経験してきました。
皆さんの人生にも実はこのような奇跡的な出来事が数多くあったのではないでしょうか。 未信者時代であるなら「運が良かった」で片づけていたでしょう。しかし、それはあなたが神と出会うための恵みの時でもあったのです。神は決して無意味なことはなさいません。クリスチャンになってからも生死をさまよう中から生還できた体験があるのではないでしょうか。なんのため? それはあなたがおまけの人生を神の栄光のために生きるためです。私たちは死ぬためにいかされているのではありません。神にあって生きるために生かされているのです。
このような奇跡的な体験は非常に強力で感動的ですけれども、意外とその効力が次第に薄れやすくなるという特徴があります。 だからと言って神様にしっかりと結びついていくというわけではないようです。けれども、キリストの十字架の贖い、神の御子が最も低いところにまで降りて来てくださって、「友のためその命を捨てる これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と、十字架の上で神の真実な愛を明らかにしてくださった。この神の愛に勝るしるしなどは、他を探しても決して見出すことはできません。
それゆえ パウロは「福音は、ユダヤ人を始めギリシャ人にも、信じる全ての人に救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)と、全世界に向かって宣言しています。主イエスの弟子であったペテロは「キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに,あなた方は癒さエたのです」(第一ペテロ2:24) と教えています。
もろもろのしるしを追い求めるのではなく、たった一つのヨナのしるし、イエスキリストの十字架の救いのみを崇め、褒めたたえ、誇りとし喜びとしましょう。 私たちが信じる喜びの知らせ―福音は、神の御子の十字架の贖いの知らせです。 そして永遠の命の扉を開いてくださったキリストの復活にあるのです。 この福音を信じるならば必ずあなたは救われます。
「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」(1コリント15:2)