【福音宣教】  まだ悟らないのですか

「パリサイ派のパン種とヘロデのパン種に十分、注意しなさい」(マルコ8:15)

今日は伝道礼拝です。平井姉に救いの証をしていただきました。 来週は沈明姫姉の転入会とお証しがあります。さて私たちは日々の生活の中で、しばしばすれ違いを経験します。多くは勘違いであったり、思い込みであったり、話をよく聞かないまま独りよがりの判断をしていたりして、お互いにズレを感じるときがあります。私も学生時代に、バイトでバーテンダーをしていましたが、葉生姜の漬物であるハジカミと鼻紙を間違えてお客様に出して叱られ恥をかいたことがありました。

1.パンはあるか

どこまでも 頑なで心を開かない パリサイ人たちをさっさと後にして、船に乗り込んで去ってしまったイエス様は、ベツサイダーに向かう船の中で、弟子たちにパンはあるかと聞きました。イエス様はお腹がすいたわけではありません。イエス様が2回にわたって行ったパンの配給という奇跡に対して、どれだけ弟子たちが理解できているか確認しようとされたのでした。ところが弟子たちは「手元にパンは一つしかありません」と返答し、やがて議論を始めました。「イエス様がお腹が空いたと言われた。どうして食料を買ってないのだ。しばらく前、7つのかごいっぱいにパンの残りがあったのにあれはどうなったんだ。いやもったいないから貧しい人に全部持って帰ってもらった。急いでイエス様が船で出発されたので、食料を買う時間がなかった」などなど、彼らはそれぞれ言い訳をしたり、人のせいにしていたようです。もしこの時、弟子たちの誰かが「パンはここに1つしかありません。 しかしあなたがいるなら、必要はいつでも満たされます。 あなたはいける力ある神ですから」 と返事があったならば、イエス様はきっと深く頷かれたことでしょう。ですからイエス様は弟子たちにまだわからないのか まだ 悟らないのかと嘆いておられます。

2.  パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に注意しなさい

パン種とは パンの生地に混ぜ込むイースト菌のようなものを指しています。生地に混ぜ入れると、発酵して膨張して大きく膨れ上がっていきます。ユダヤの国ではパン種は周囲に悪い影響を及ぼす悪や罪の象徴として しばしば 語られています。 パリサイ人たちは約束されているメシアはローマ帝国を打ち倒してこの地上にユダヤ王国を再興する力ある政治的な勝利者であると信じていました。まさか異邦人の手によって 十字架で処刑されていくようなメシアはありえないと考えていました。

一方 ヘロデ 派とは異邦人 エドム人である ヘロデ王家一族を指し政治的な権力者 この世の富や名誉や権力に固執している支配者を指しています。 ヘロデ大王は ベツレヘムの2歳以下の男の子をことごとく 虐殺しました。息子のヘロデアンティパスは予言者バプテスマのヨハネの首をはねました、孫に当たるヘロデアグリッパは12弟子の一人ヤコブを切り殺してしまいました(使徒122節)。 彼らはことごとく神を否定するか、無関心あるいは、ローマ皇帝を神と仰ぐこの世の支配者たちであったわけです。

では、なぜイエス様は唐突にこのような話をなさったのでしょうか。

実はイエス様の活動の舞台が自然の美しさが残るのどかなガリラヤ湖周辺の伝道から、いよいよユダヤの国の都エルサレムへと移って行きます。エルサレムは国際的な大都会であり、神殿を中心とする宗教勢力の牙城でありまたローマから派遣された総督ポンテオピラトによる政治的な支配が行われていた中心地でした。やがて彼らによってイエス様は不当な裁判を受け、カルバリの丘の十字架の死を遂げてゆかれます。弟子たちの日々も、嵐の中に投げ込まれていきます。そういう激変の日々へと急激に展開して行きます。だからこそイエス様は、この世的な権力者たちの悪しき影響を受けてしまうことがないように、弟子たちに前もって警告を与え、心の準備をさせておられるのです。イエス様がどのようなお方なのかをしっかりと認識し、信仰に立ちことを求められたのではないでしょうか。しかし、イエス様の思いとはうらはらに、彼らは「耳があっても聞かず、目が開いても見ることができず」といった状態で、理解することができませんでした。だからイエス様は「まだわからないのか」と嘆かれたのでした。この世のことには目ざとくても、神の真理に対してはうとい私たちの姿でもあります。すべての人が真理を知ることを神は願っておられますが、そこには神の御忍耐があることを、憶えたいものです。

3. しっかりせよ 私である

クリスチャン生活も穏やかな日々が続く時もあれば、波風が立つ困難な時もあります。時には生活が激変してしまうような緊急事態、危機的状況の時もあります。だれにも避けることはできません。そのような試みの時にこそ、「イエス様が一体どのようなおかたであるのか」しっかり理解し、信仰に立つ必要があります。そのためにイエス様は「まだ分からないのか」と弟子たちに問いかけ、準備をなさっておられるのです。心の耳が開かれてこの方こそ永遠のいのちに至る救いの言葉を語りうる唯一の救い主であること、心の目が開かれてこのお方こそ、揺れ動く時代や生活の変化の中にあっても「昨日も今日も明日も」決して変わることのない永遠の神であることを、信じ、惑わされないことを求められたのだと、私は思います。平時に養われている「信仰と信頼」が、緊急時の「力と励まし」になるのですから。

すでにマルコ6章で、ガリラヤ湖上において、厳しい向かい風の中で、船をこぎあぐね、疲労困憊している弟子たちのもとに、イエス様が湖の上を歩いて近づいてこられた出来事を私たちはすでに学びました。弟子たちは幽霊が来たと慌てふためきうろたえてしまったことを学びました。そんな弟子たちにイエス様は「しっかりしなさい、私である。 恐れるな」(マルコ6:50)と呼びかけたのでした。「私である」(エゴ・エイミー)という宣言は、 かつて神がモーセにご自身の聖名を明らかにされた時のことばでした。ユダヤ人なら誰もが知っている神の啓示のことばでした。しかし、知っていることと悟っていることとは違います。聞いて覚えていることと聞いて十分に理解し応用できることとは違います。本当の意味で分かっているというのは、自分自身の生活の中にみことばが染み込んでしまっているような体験を指します。「腑に落ちた」というような表現が日本語ではされます。

神学生時代、老婦人牧師の証しを聞きました。元看護師でしたが献身し神学校を卒業後は、伝道者 牧師として独身のまま、教会で仕えておられました。ある日。お腹に急な激痛が走り、トイレに行くと、びっくりするような大出血。これは尋常ではない。どんどん意識が遠のいていく。でも平日、教会には誰もいない。一人でこのまま死んでしまうかもしれないという大きな恐怖に包まれたそうです。その時です、「わたしである。しっかりせよ、恐れるな」と主の御声が心に大きく響いたそうです。「そうだ、私は一人じゃない。主がおられる。大丈夫だ」と、先生は看護師でしたから気を取り直し、自分で応急処置をして救急車を呼んだそうです。私たちの人生にも何が起きるかわかりません。オロオロと右往左往するばかりで、どうしたらいいかわからない。そんなお手上げの状態の時があるかもしれません。もう50数年以上も前にお聞きした証しでしたが、不思議なことにその証しは今もずっと心に息づいています。そして私を支えています。私自身も試練の中でこの言葉によって支えられてきました。「私である。恐れるな」この方がおられるならば、大丈夫、安心だ、お任せできる。なにが起きようと、何が失われようと、決してこの方はわたしを1人にしない、決して離れない。まさに私の人生と信仰の歩みの土台となっています。 

わたしたちが危機的な状況であればあるほど、人に頼れない状況であればあるほど、「私である。 しっかりせよ。恐れるな」と語りかけてくださるお方がおられることは、なんとこころ強いことでしょう。「しっかりせよ」と訳されている言葉は、「元気を出せ 勇気を出せ 安心せよ だいじょうぶだ」というような意味をも持っています。しっかりしなければダメじゃないかという非難のことばではありません。私たちの「神の子とされている自覚」をいっそう豊かに深めてくださる勇気づけのことばです。

イエス様はヨハネ1633節では「あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。 私はすでに世に勝っている」とお約束してくださっています。

このお方とともに歩む人生、これこそがクリスチャンの旅路です。