
「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい」(マルコ8:34)
ペテロがついに「あなたはキリストです」(8:29)との信仰告白に導かれたとき、主イエスは「十字架の死」(8:31)について教え始めました。「そんなことは考えられません」と否定するペテロに対して「サタンよ、引き下がれ」とイエス様はきびしく彼を叱りつけました。
サタンの最大の働きは「神の御子の十字架の贖い、すなわち身代わりの尊い死」を妨害しようとしているからです。十字架の贖罪と言う歴史的事実を抜きにしたキリスト教などサタンにとっては痛くもかゆくもない無価値なものだからです。
イエス様は続いて弟子たちに「誰でも私に従ってきたければ、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」(8:34)と命じました。その理由は、2つです。第一に「真のいのち」得るため、第二に「十字架を誇りとして」生きるためです。
1. 真のいのちに生きるため
いのちには3種類あることを聖書は教えています。まずすべての人がもっている地上のいのち、肉体のいのちです。残念ながらこれは限定的です。平均寿命80年後半。最終的に心臓の働きが止まれば肉体のいのちは失われ、肉体の死を迎えます。脳のあらゆる機能が停止しますから、考えることも感じることも動くこともできません。第二は神様との関係の中に生きる霊的ないのちです。キリストの十字架の御業によって「罪の赦し」が与えられ「神との和解」がキリストを信じる信仰によって与えられ、「神と共に新しく生きる」いのちの日々が御霊とともに始まります。イエス様のことばで表現すれば「キリストと福音のためのいのち」(35)です。つまり自分のためにだけ生きていたような、古い自己中心的ないのちに代わって、キリストのため、福音の宣教と奉仕のため、神と隣人への愛の奉仕のために生きるという新しい目的を持ついのちを指しています。
パウロは生まれながらの私たちは、「かつては自分の背きと罪の中に死んでいたものであり・・・」(エペソ2:1-2)と、霊的には「死んでいた」いのちであったことを告白しています。バッハはすべての作品に「ただ神の栄光のため」SDL(ソリ・デオ・グローリア)とサインしたそうです。アメージンググレースを作詞したジョン・ニュートンは、かつては奴隷船の船長として欲と金のために人間を売買して生きていましたが、キリストに救われ、神のために生きる喜びに導かれ、神をほめたたえ、奴隷制度廃止のために尽力しました。「驚くばかりの恵みなりき。この身の汚れを知れる我に」とはまさに彼の悔い改めそのものといえます。そして第三は聖書の約束通り、新しい天と地が到来するときに復活し、新しいからだをいただき永遠の神の国で生きる輝かしい勝利のいのちを指します。もし目先の限定的ないのちにのみとらわれ、永遠のいのちの希望と神と隣人への愛の奉仕に生きるいのちを失っているとしたらなんと空しいことでしょう。聖書は「全世界の富を得たとしても何の得になるでしょう」(36)と問いかけています。長崎24聖人の一人にルドリコ・茨木という少年がいました。取り調べをした大名が少年のけなげな心に打たれ、「侍の子として養子に迎えよう」と勧めたところ、「この世のものと天の御国のものとを取り換えるわけにはまいりません」と断り、自ら進んで十字架のはりつけを選んだそうです。 イエス様は弟子たちに「私についてきなさい」と招きました。それは、「決して朽ちることのない真のいのちを得て、生きるため」です。
ヨハネは「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(3:16)と現在形で断言しています。驚くことにイエス様ご自身も「信じる者は永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っている」(ヨハネ5:24)と完了形で語っておられます。永遠のいのちは、やがて将来に受け継ぐものだけではなく、信じる者たちが、従うという実際的な歩みの中で「今、ここで」経験できるものとされています。信じることと従うことは相互に置き換えることができる同義語ともいえます。たとえるならば双子の姉妹のようなものです。信じることが先に生まれた姉、従うことが後で生まれた妹、でもほぼ同時に生まれたと言ってもよいほどです。しかしながら、信じることと従うことの間に、乖離が生じてしまうことがクリスチャンの抱える悩みの一つと言えます。子供は親を信頼し信じています。でもなかなか素直に親の言うことに「はい」とは従ってくれません。あれやこれやと自分の我を押し付けてきます。でもそうやって親に反抗したり、反発しながらも、成長していく姿を見守るのも親のだいご味。親にゆとりがなくなると「キー」となって「もうこの子は!!」と喧嘩が勃発してしまう。父なる神様は、私たちがキリストを信じるだけでなくキリストに従っていくことが一つになっていくことを霊的な成長、成熟とみなして見守ってくださっていることを覚えましょう。そのうえで、イエス様は「自分の十字架を負い、そして従ってきなさい」と命じました。
「自分の十字架を負って従え」と言われたのであり、イエス様の負った十字架を負って従えとは要求されなかったことを覚えましょう。なぜなら、イエス様が負われた十字架は、イエス様以外に誰も負えない十字架だからです。天の父なる神様もイエス様以外に負わせようなどと決して思っておられない。カルバリの丘の十字架を背負って歩まれるお方はイエス様ただおひとりです。
数年前、十字架を背負って街を行進する運動が各地で起こり話題になりました。でもその十字架はそれほど重くはなく、先には車輪までついていたらしいとのこと。それは真似事にすぎません。イエス様の十字架はイエス様しか負うことができない、いいえ、イエス様が負わなければならないDivine Must、神が定められた受難のメシヤの十字架、「痛みと悲しみを知った人である神の御子」だけが負ってくださった十字架でした。
イエス様は弟子たちに「お前たちの自分の十字架を負って従え」と言われました。あなたの十字架、自分の十字架です。他人の十字架ではない、真似事の十字架でもない。
それではあなたの十字架ってなんでしょう。自分が負ってイエス様に従う十字架とはなんでしょう、そしてどこにあるのでしょう。100人がいれば100通りの人生があります。100の異なった十字架がそこにはあると思います。人の人生を誰かが代わりに歩むことはできません。渡辺和子さんが「置かれた場所で咲きなさい」と味わい深い言葉を残されましたが、あなたが置かれた場所にあなたの十字架があるのではないでしょうか。
一般人には「十字架を負う」とは、「病や障害などを抱えてたいへんな避けられない重荷を負うこと」や「一生消えない罪を背負って生きる」ことと理解されているようです。でもクリスチャンにとっては、一生消すことができないようなその罪を、神の御子は十字架で担い、償い、「あなたの罪は赦された、生きよ」と解放して下さったのです。ですからクリスチャンにとっては「十字架を負う」とは、十字架において神が明らかにしてくだった神の「無償の愛」「無代価の愛」に感謝して、その神の愛に促され、自らが召された場所、置かれた場所で、御国の栄光のために生きることではないでしょうか。「自分を捨てて」、とか、「自己犠牲」などと仰々しく考えず、「ちょっと自分をわきに置いて、相手を優先させてあげる」「自己主張ばかりせず、相手のことばに耳を傾ける」「相手の権利を認めてあげる」、身近なそんな生き方もまた「私の十字架」を負って、イエス様の愛に応えて生きていく姿といえます。
イエスの時代、十字架は「恥」そのものでした。しかし、私たちにとって、十字架は誇りであり喜びであり、「この身の汚れを知る身にとって」はアメージンググレース・驚くばかりの神の恵みと神の愛そのものです。「私と私の言葉を恥じるようなものを私も恥じる」(38)と主イエスは言われました。神にこれほどまで愛された真実と喜びをどうして恥じる必要があるでしょうか。主の十字架を恥とはせず、誇りとして生きる人生へ、キリストを信じた時から私たちは招かれ、生かされているのです。
「私は福音を恥とはしません。福音は信じるすべての者にとって救いを得させる神の力だからです。」(ロマ1:16)