【福音宣教】  私の助けは主から来る

私は山に向かって目をあげる。私の助けはどこからくるのか。私の助けは天と地を造られた主から来る」(詩篇121:1-2)

新しい1年を迎えました。「人生、山あり谷あり」と言いますが、今年も折にかなった良き助けを神様からいただいて歩みたいものです。都のぼりの歌とは、エルサレム神殿での礼拝途上にある巡礼者たちが交互に歌った歌とされています。今朝、元旦礼拝に集った私たちも、1節ずつ交互に朗読してみましょう。

1.  神の都エルサレムと神殿

元旦の朝、テレビ局は富士山頂に昇る朝日をヘリから生中継をしていました。雪をかぶった美しい富士山に輝く太陽というのは日本人の自然崇拝の原点かもしれません。神の民イスラエルは地中海沿岸の海の民ではなく、北は雪を抱くヘルモン山、南は荘厳なシナイ山、真ん中にはエルサレム神殿のあるシオンの丘がある「大地の民」といわれています。海は波風によって常に揺れ動きますが、大地は地震以外には揺れ動きません。海のように揺れ動き移り変わる世界の中にあって、変わることのない永遠不動の神を信じる信仰は、神の民イスラエルの精神的基盤でした。そして安息日ごとにささげる礼拝こそ彼らの生命線でした。このことは、私たち教会の交わりの中に生きるクリスチャンにとっても同じです。

2.  天地を創造された神への信頼

8節からなる短い詩の中に「助け」と言う力強い言葉が2回、「守る」という言葉が6回も使われています。力がなければ助けられない。愛がなければ守れない。天地を創造された全能の神に助けられ、十字架で死なれ、よみがえられたキリストの愛によって守られ、試練や困難があっても、希望をもって歩み続けることが私たちにはゆるされています。聖書を知るまでの私たちは、八百万の神々が満ちている日本の中に暮らしながら、実は真の神なき世界で生きています。普段は「無神論者です」といいながら、いざ緊急時には神様仏様キリスト様と急に拝みだす。困ったときの神頼みは、日本人のDNAに根付いているようです。

「やれ打つな 蠅が手をすり足をする」は、弱きものへの慈愛が感じられる句で、ハエが前足をこすり合わせる姿を「助けてください」と拝んでいるように見え、叩くのをやめるようにと詠んだ小林一茶の句です。困った時の神頼みの姿とダブルと言えば失礼かもしれませんが・・。年末に教会の郵便ポストに「1円玉」が入っていました。ベンチで座った人が感謝の思いで入れたのか、教会の郵便受けの前で誰かが祈ってお賽銭代わりに入れられたのか、道に1円が落ちていたのでもったいないと教会のポストに入れたのか不明ですが。

旧約聖書を通して偉大な天地の創造主を知ったとき、無から有を呼びだすことさえ可能な全能なる神とその御力を仰ぐことができる。神にあっては不可能なことはない。この神信仰は私たちキリスト者たちの原動力になっていることは否めません。私自身は弱くても、主は力あるお方ですから助け・守ってくださいます。

さらに、新約聖書を通して、独り子さえ惜しまず十字架にかけて身代わりの死をとげさせる神の愛を知るとき、私たちの人生を根底から支える確かな真実な愛をそこに見出し、愛が冷えていく時代の中にあって根源的な癒しと信頼感を得ることができることはほんとうに幸いなことだといえます。

3.  日々の生活と魂の守り

新しい年を迎えました。一休和尚が、「めでたさも冥土の旅への一理塚」と詠みましたが、キリスト者にとっては、一歩、天国に近づいたことを意味します。めでたいことです。

身体は衰え、認知的・精神的・感情的機能を果たす脳も次第に機能不全をおこしていきます。教会も忘れ物の数が増えてきましたね。しかし、たとえ記憶力が衰え、認知症状が現れたとしても、神と深く結び合わされた内なる人である「魂」は、栄光の主を賛美し、ほめたたえることでしょう。巡礼の旅である地上の生涯においてばかりでなく、とこしえの御国においても、主への賛美はつきることはないと信じています。年配者の中には認知症症になって、神を忘れてしまうのではと不安を覚えるクリスチャンもおられるようですが、安心してください。神様はあなたの唇から神への賛美と感謝を奪われることはありません。

オーストラリア在住のクリスティーン・ブライデンさんは46歳でアルツハイマー型認知症と診断されました。連邦政府内閣府の高官として現役で活躍し、3人の娘を抱えるシングルマザーの時で大きなショックと絶望感に打ちのめされました。日ごとに進行する認知症症状と向き合いながら「私は誰になっていくの?」という題名の本を、当事者から見た視点で綴って、1998年に出版しました。世界中に2400万人いると言われる認知症と共に生きる人々に、この本は勇気を与えました。再婚した彼女は、7年後の2005年に続編を出版しました。題名は「私は私になっていく」と日本語ではつけられました。私は誰になっていくのだろうという不安は、私はほんらいの私になっていくという結論に導かれたのでした。

「神が本当の私である魂を見ていてくださることを確信してるから、私は尊厳をもってこの病気を生きていける」と記しています。「神とつながる私が私の本質であり魂なのです」と。私たちの魂は霊的に神との交わりを回復し、日々、神のいのちに信仰によってつながれている時、真の意味で「私として生きる」ことができるのではないでしょうか。

この新しい一年も、無病息災なんてありえない人生と日々を私たちは歩みます。起こる時には起こるものです。わざわいや病気が起こらないことを願うのは人の常ですが、大切なことは起こったことをどう受け止めるかにかかっています。起こってしまった過去にいつまでもこだわり、ああすればよかったこうすればよかったと後悔ばかりするか、あるいは、この先いったいどうなるのだろうかと先々を考え言いようのない不安に押しつぶされてしまうか。それとも今、起きたことをどう受け止め、どう信仰的に判断し、神の御前に持ち出していくかが問われています。

何事にも意味があり、無意味なことを神はゆるされません。すべてのことは相働いて益となると信じ、まことの神と救い主に信頼する私たちは、祈りの中ですべてが導かれることを経験してきました。これからも多く経験させていただけることでしょう。

何が起きたとしても、まことの神と神の御子キリストにつながれた私たちは、神と共に生きていくことがゆるされているし、生きていくことができるのです。これを永遠の祝福、天国からの恵み、あえていえば地上最大の御利益を受けているのではないでしょうか。「私の助けはどこから来るでしょうか。私の助けは天と地を造られた「力と愛に満ちた」神からくると、試練の時こそ、見上げましょう。 

さあ、この新しい一年も、神と共に歩みましょう。