【福音宣教】  変貌山の主イエスの御姿

「イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に導いていかれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった」(マルコ9:2)

1が3つ並ぶこの日(1月11日)は鏡餅を割って食べる「鏡開き」の日、プロポーズの日(一緒にいつまでもいよう)と言われています。私たちは主がよみがえられた日曜日の朝、今年も「イエス様と一緒に生きよう」と新たな信仰告白をささげましょう。

1.高い山で

ピリポカイザリアでペテロが「あなたはキリスト」です」との信仰告白をしてから約1週間後、 イエス様は3人の弟子(ペテロヤコブヨハネ)を連れて高い山に登り、そこでご自分の神の子としての栄光の姿を示されました。 どこの山であるのか、 1年中、雪が消えることのない北のヘロモン山(2774m)であったかもしれません。あるいは、ガリラヤ湖の南(588m)のタボル山(588m】かもしれない。 大切なことは地理的にどこの山であるかということよりも、彼らが主イエスキリストとの真の出会いを経験したということです。神と出会ったことです。御子の栄光の姿を目撃したことです。教会もまたこの地上において、救いを求める者たちが神と出会っていく霊的な場所、高い山であると言えます。

2.イエス様の変貌

弟子たちの目の前でイエス様の姿が変わり(92) 日常的な姿から栄光に輝く御姿へと変わりました。 人となられたイエス様の本来の神の子としての栄光が外に現れ、弟子たちに啓示されたのでした。メタルフォーというギリシャ語は 内なる本当の姿が現れ出るということを意味します。 青虫がさなぎになり そして蛹の皮が破れた時、 そこから美しい蝶々が生まれ出てきます。 同じ命でありながら変貌する、ちょうどそのようなものと言えます。 ペテロは2ペテロ116-18,ヨハネは114でこの時の経験を証言しています。このお姿はイエス様の復活の栄光の姿であり、ご再臨されるときの姿です。私たちもやがて天のみ国で栄光に満ち満ちた主イエスキリストを仰ぎ見る日を迎えることがゆるされています。

3. モーセとエリヤの出現

さらに 弟子たちにとって驚くべきことは、エリヤがモーセとともに現れてイエス様と語り合っていた(9:4)光景でした。 もっともこの二人がエリヤとモーセだとどうしてわかったのでしょう。イエス様が「こちらはモーセ様です」と紹介したのでしょうか。名札をさげていたのでしょうか。不思議です。不思議ですが天の御国ではお互いがわかるのです。私たちも肉の身体から朽ちない栄光の身体に変えられますが、お互いを理解できるのです。きっとこのことは、幼い子供を亡くした信仰者の親にとってなんと大きな慰めでしょうか。大津波で行方不明になりいまだに遺体が見つからないご遺族にとってどんなに大きな慰めとなることでしょう。

ところで、イエス様とこの二人はいったい何を話し合っていたのでしょう。ルカの福音書では「エルサレムで起きようとしていた最後について」(ルカ930-31)話していたと記されています。十字架の死と復活の出来事です。十字架と復活の出来事は神の救いのご計画のクライマックスであり、頂点でした。旧約聖書はイエスの十字架と復活をまさに証言していると言えます。

4. ペテロの感動と興奮

ペテロは目の前の信じられないような光景に言葉を失い どうして良いかわからなくなり 「先生、私たちがここにいるのは素晴らしいことです」 と言い、ここにいつまでもずっと いましょう 、天幕を3つ立てましょうと申し出ました。 礼拝において一瞬 神様の前に引き出されるというような感動的な経験というものを私たちは経験することがあります。ビリーグラハムの伝道集会そしてケジックコンベンションでスティーブン・オルフォード博士がメッセージをした時、私はそのような経験をしました。目の前で「イエス様がザアカイに語り掛けている」。その場面にタイムスリップして、自分が目撃者の一人になっている。どんな映画よりもあざやかで生き生きしている。もちろん総カラー! 私の思い込みでしょうか・・。 牧師が毎週の礼拝で語るメッセージが、皆さんにとって神との出会いを経験し 神の臨在を覚える、甦られ今も生きておられるキリストと「今ここで」出会う霊的な恵みの時であればとどれほど心から願っていることでしょう。何か特別なプログラムで特別な演出をして人々を感動させたり聞き入らせるというわけではなくて、人が神と出会っていく時に人は恐れおののきつつ、また来たい、いやここにいつまでも留まりたいという霊的な感動を覚えるのではないでしょうか。

5. イエスの他だれもいなかった

ところが父なる神様はペテロの願いをお許しにはなりませんでした。雲が現れて彼らを覆ってしまい モーセの姿もエリアの姿ももはや見ることはできませんでした。 そして天から声が響き「これが私の愛する子、これに聞け」(97)と彼らに呼びかけました。 すると先ほどまでの栄光に満ちた姿は消え去りいままでのイエス様だけが、彼らと一緒にそこにおられました。

イエス様は山にとどまるのではなく、弟子たちを連れて山を下りました。イエス様がこれから向かわれる道はカルバリの丘の「十字架の贖いの死」でした。そして弟子たちもまたイエス様と共に十字架の道を、自分の十字架を負って歩み出すためでした。栄光に輝く主イエスの御姿をこころに深く焼き付けながら、弟子たちはイエス様と共に十字架の道を歩みだしたのです。父なる神様は弟子たちに「これに聞け」と命じました。モーセに聞く必要もない。エリヤに聞く必要もない。イエス様だけが「そこにおられる」のです。 そして私たちは、いいえ教会はイエス様から何を聞くのでしょうか。

言うまでもありません。十字架と復活の恵みの言葉を日々、聴き続けていくのです。イエス様は恐れひれ伏す弟子たちの手を取り、「さあ起きなさい」(マタイ177)と導かれました。「恐れるな」と主は手を取り、日々私たちの歩みを導かれるおかたです。

栄光に輝く主イエスの御姿を心にとめながら私たちもまた主と共に十字架の道を歩みましょう。復活の日の朝は栄光の主に礼拝をささげ、平日はイエス様と共に自分の十字架を負って、置かれた場所で、導かれた場所で、神様から託された働きの場で、重荷を負う人々への奉仕の現場で、イエス様に仕えるようにしもべとして仕えましょう。主に仕えることは苦痛ですか?嫌ですか。早く引退したいですか?はやく卒業して楽チンしたいですか。縁側で日向ぼっこしてお茶でもすすりたいですか。それもいいでしょう、でも生涯イエス様にお仕えする人生を歩みたいと私は願っています。私の喜びだからです。特別な高い山ではなく、今ここが、あなたにとって、栄光の主と出会う場なのですから。