【福音宣教】  建てることと聞くこと

「イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことを誰にも話してはならないと特に命じられた」(9:9)

「茶柱が立つと縁起がいい」と言いますが、驚いたことにこの言葉は、お茶さんが広めた販売戦略だそうです。お茶の中でも三番茶以降のお茶は「番茶」といわれ、お茶の芯も交じってしまうので、味も香りもすっかり落ちてしまい売れないのだそうです。そこでお茶屋さんがこのことばを考案したそうです。お茶屋さんの中には芯の太い部分をわざとつぶして水分を含みやすくして、お茶を注いだ時に茶柱が立つように裏技を使っているそうです。しかも「茶柱が立ったこと」を誰にも言わないように、誰かに言うと「運が逃げてしまうので」、黙って飲むようにとも付け足して流布したそうです。誰にも言うなと言われるといいたくなるのが人間のさがです。「みて、茶柱が立ってる。正月から縁起がいいや」「どれどれ」そんな会話が予想できます。世の中では、「これは秘密なんだけど」と、こっそり話せば、もう間違いなくその日のうちに周囲に広がってしまうということがしばしばあります。

今日の聖書の個所は先週の続き、続編の部分です。

Ⅰ 復活まで誰にも語ってはならない(99

1.  イエス様は3人の弟子たちにご自身の真のお姿を示されました。それは、人となられてこの世界に来られる前のイエス様の栄光の姿でした(ピリピ26-7)。山を下る時、弟子たちにイエス様は「人の子が死人の中からよみがえるまでは、このことは誰にも言うな」(9)と強く、くぎを刺しました。

弟子たちは、栄光の光に包まれて輝く神の御子の本来の姿を目撃したわけですから、「誰にも言うな」と言われても無理な話。、弟子たちは大声で話したくなるはずです。が、話せなかった。なぜなら、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにしても、この時点ではまだイエス様の真のお姿、「神がこの世界を救うために、全人類の救い主として遣わされた生ける神の御子」であることを理解できていなかったからです。ペテロがピリポカイザリヤで「あなたはキリストです」(829)と聖霊に導かれ告白したものの、イエス様が「十字架の死」について語られると、そんなことはあり得ませんとばかり諫めたため、「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱り飛ばされました。ましてやイエス様が、「十字架の死ばかりでなく、その後の復活についても語られるに及んでは、もはやついていけなくなっていました。自分が十分理解できていないことは、人にきちんと正確には話せないものです。

2.  イエス様がここまで厳しく命令されたのは、自分たちが十分理解できていないまま、他人に話すならば、誤解されるだけだからです。特に群衆が期待していたキリスト・メシヤはローマ帝国の支配と圧政からユダヤ民族を解放してくれる政治的な強い王たる存在でした。ですから、見せしめのために十字架の極刑に処せられるメシヤなどとうてい考えられませんでした。頭から否定されることは明らかでした。

3.  よく話題になるのですが、教会で一番たくさんの人に伝道し、教会に友人たちを連れてくる人は誰かといえば、実は求道者あるいは信仰に入って間もない人だそうです。なにしろ気持ちがホットですから。周りの人も大いに影響されます。ところが信仰に入ってまだ浅い人は、聖書の教理を総合的にまだ身に着けていませんから、しばしば極端な答えを語ってしまいます。

教会学校の生徒が家に帰って「イエス様を信じなければ地獄へ行く」といきなり言って家族を驚かせ、「もう教会へ行くな」と言われてしまったことがありました。ご主人に「私は仏式のお墓には入れません」と言って、あの世まで一緒に添い遂げたいと願う愛妻家のご主人が深く悲しんだという話も聞いたことがあります。気持ちは熱く霊に燃え、しかし頭は総合的な真理に立って穏やかに語ることが求められます。旧約聖書の背景を知らない異邦人に対するベテラン宣教師であるパウロは、「愛をもって真理を語りなさい」(エペソ415)と教えました。キリスト教のバックグラウンドをもたない日本人への伝道においても同様に、配慮して真理をおだやかに伝えましょう。

4.「人の子がよみがえるまでは」と、限定してイエス様はだれにも語るなと命じました。しかし、この命令は、キリストが復活した後においては内容がひっくりかえりました。語るな!ではなくて、地の果てまで、全世界に向かって語らなければならないのです、キリストの十字架の尊い贖罪と神の愛は全世界に向かって語られなければなりません。死を前に恐れおののきふるえる希望なき人々に対して、復活のいのちの希望を大胆に宣言し語り伝えなければなりません。

「時が良くても悪くてもみことばを語り続けなさい」とパウロはテモテを励ましています。語ってはならないと命じたイエス様は、今、すべての人に福音を宣べ伝えよと命じておられます。彼らが叫ばなければ石が叫ぶことでしょう。イエスキリストこのお方以外に私たちを救うことができる名は他にはなし!ですから。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒412

Ⅱ 「彼に聞け」(97)との天の声

6.  イエス様の栄光の姿を目撃したペテロは、この山の頂に「天幕を建てましょう」と言いましたが、天の父なる神様はこれを拒むかのように、すぐさま雲であたり一面を覆い隠し、おごそかな声で命じました。「これは私の愛する子、これに聞け」と。

有名な牧師がここには「建てる」と「聞く」という対比が見られると語っています。私もそうだなと共鳴共感しました。

私たちの働きの多くはどちらかというと「建てる」ことが優先され、そこにエネルギーが注がれます。すなわち何かをする、行動する、成果を出す、結果を残す、成し遂げる、がんばって働いて若くしてついに一軒家を建てたともなれば人生の成功者、モデルのように周囲からは賞讃されます。しかし、神の声を聴く、とりわけ神の懐におられたひとり子、イエスの言葉に聞くという霊的な面はあまり評価されないのではないでしょうか。

昨年私たちは、トイレの洋式化、会堂外壁の塗り替え、外階段のシート張り、集会室の内壁の撤去という「建てる」働きにずいぶんとエネルギーを注ぎました。昨日、集会室の動力を使ったエアコンがどうやらダウンしたようです。今年はすでに瀕死の重態になっている礼拝堂のクーラーの買い替えを進めなければなりません。 まだまだ「建てる」働きは続きそうですが、「聞く」という霊的な働きを見つめ直し、霊的なエネルギーを注ぎたいと思います。

建てる働きはいわば筋肉を鍛えるようなものですが、聞く働きは魂に活気を与え、全身に栄養を送り届けるようなものと言えるのではないでしょうか。礼拝前の詩篇を読む会があります、火曜日の聖書学校の学び、木曜日の大笹家の家庭集会、ハイナイトの会もあります。しかしながら、毎週の主の日の礼拝にまさって「神に聞く場」は他にはありません。礼拝は1030から始まるのではありません。主の日の朝、目覚めた時から主の日の礼拝は始まっています。この日は特別な日であると自覚し、前もってよく準備し、礼拝前には静かに椅子に座って祈り、少なくとも聖書箇所はじっくりと目を通。その聖なる想いはたいせつではないでしょうか。

礼拝前15分前には静かな時が流れている、そんな雰囲気をつくりだそうではありませんか。韓国のクリスチャンたちが礼拝堂に入ったらまず静かに祈り自らを神の前に整える姿を見るたびに霊性の豊かさを感じます。礼拝が終われば喜びが大爆発して様々な活動が始動することは今まで通り。でも、もう15分早く家を出る、そんな習慣を今年は育みませんか。イエス様に仕え、イエス様もこよなく愛されたべタニヤ村の女性マルタとマリヤ。姉のマリヤは建てる奉仕にいそしみ、妹のマリヤは聞く奉仕にいそしみました。マルタとマリヤはふたりでひとりの奉仕者といえます。建てる働きは疲れを覚え、やがては衰える可能性があります。しかし、聞く働きは、ますます魂が潤され、満たされ、クリスチャン人生そのものを豊かにするのではないでしょうか。

イエス様は私につながっていなさいと言われましたが、それは「主イエスの語ることばにつながっていること」と「主イエスの愛のうちにつながっていること」でもあると教えてくださいました(ヨハネ155-7)。
                         主イエスに「聞く」ことを学ぶ1年でありますように。