
「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)
3人の弟子たちが山の上でイエス様の本来の栄光の姿を目撃し、感動の中にいた時、山の麓では残りの弟子たちの間に大きな問題が発生していました。彼らと律法学者たちとが議論をしていました。実は、イエスの弟子たちのもとに父親がやって来て「一人息子(ルカ9:38)が幼い時から激しい発作に襲われ、何度も死にかけたことがあるので、なんとか助けてほしい」と願い出たにもかかわらず、弟子たちは何もできなかったというのです(9:18)。つかさず、律法学者たちが議論を仕向けてきました。弟子たちは自分の無力さを痛感しさらに厳しい非難を受けて困惑に陥っていました。弟子の無力さはその師であるイエスの無力さへの非難でもあったのです。
なぜ、弟子たちはこの少年を癒すことができなかったのでしょう。
イエス様はすでに「弟子たちを宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を与えてくださった」(3:14-15)、「派遣されて悪霊を追い出し、油を塗っておおくの病人を癒しました」(6:2)という経験がすでにありながら、にもかかわらず今回はまったく無力でした。2つの理由が考えられます。
1. 御国の福音を宣教し、人々が悔い改めるときに、癒しの御業が行われるからです。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:14)。このイエスの宣教、神の国のご支配が宣言され、聞いた人々が神の前に悔い改めて、神の国に招かれるという一連のプロセスの中で、神の御業として癒しが行われます。福音の宣教を託された弟子たちが御国の福音を宣べ伝え、受け入れ信じた人々の只中に、神の国のご支配が及ぶ時、そこに悪霊は自分の居場所を見つけることはできないからです。すくなくとも、弟子たち自身に何か特別な力が与えられたと考えることはふさわしくないと思われます。福音宣教が力強く進められているそのただ中で、救いと癒しと悪霊の追放が行われるのです。
2. 彼らの信仰が薄かった(マタイ17:20)から
19節で、イエス様は「不信仰な時代だ、いつまであなた方といっしょにいなければならないのか」と嘆かれました。不信仰の極みはメシヤの受難、キリストの十字架の贖罪を受け入れない信じないことです。そしてイエス様の十字架の死の時が今や目の前に近づいているのです。
あなたがたとは、単に弟子達だけを指すのではなく、この世界、この時代、この世全体に対してイエス様は「信仰を見出すことができなかった」のです。信仰が失われている時代は、今日でも同様ではないでしょうか。日本の社会全体をみても、宗教はあっても、信仰が失われている。信仰とは、神様への信頼、神が遣わされた救い主キリストへの人格的信頼であると言えます。神社仏閣にお参りに行くことはあっても、そこで祀られている神仏が誰なのかを知らない。知らないから人格的な交わりも信頼をよせることもあり得ない。宗教学者の島田裕己氏が、「風景としての宗教」と表現しているように、観光としての神社仏閣であっても、そこで人々の生活が生かされているわけでもない。信仰の価値がますます薄められ、宗教離れ世俗化が加速していくことでしょう。信仰は神様からの贈り物です。受け取った信仰に生き生きとした命が吹き込まれていく必要があります。
イエス様は葡萄の木と枝との譬えを用いながら、「私につながっていなさい」(ヨハネ15)と、信仰の本質を、キリストとの絆、交流、結びつきとしいのちが通う神秘的な人格的な交わりにあることを教えてくださったのです。教会に植えてある葡萄の木はまだ幹が細いですが、枝を折ると樹液がしたたり落ちてきます。幹と枝はまさにいのちが通いあっている関係なのだと、改めて思わされました。
3. もしできるというのか
この父親はイエス様に助けを願い出ましたが、「おできになるなら、私たちを憐れんでお助けください」(22)と願い出ました。一見、謙遜な祈りのように見えますが、彼の中にあきらめや失望が色濃く漂っているのをイエス様は見逃されなかった。「できるならばというのか、信じる者にはどんなことでもできる」と、彼の不信仰に対して、神のいのちの息吹を吹き込まれたのでした。「神にとって不可能はない。その神を信じる信仰に立つならば、神は願いをききとげてくださる」、このイエス様の一言は彼の信仰を目覚めさせたことでしょう。ユダヤ人である父親は当然ながら神への信仰は持っていた。信仰は持っていたが、本気でその信仰に生きることはなかったようです。イエス様から信仰の息吹を吹き入れられた彼は、「信じます。不信仰な私を助けてください」(24)と信仰を告白したのでした。
現実は不信仰な私、うたがったり、まよったり、慌てふためいたり、祈りよりもあちこち実際的な助けを求めて右往左往したり、どうせだめだ、なにも変わりはしない、祈ってもしかたがないと無力になってしまっている。そんな現実を自覚し、受け入れながらも、「信じます」と告白していく、それが私たちの信仰のありのままの姿であり、イエス様はそうした信仰を受け入れてくだっているのです。矛盾している自分、信じる思いと疑っている自分が同居しているような状況、そのありのままの姿でイエス様の中に身を投げ入れる、飛び込む。完全無欠な信仰を神は求めてはおられないのです。イエス様は十字架で罪も汚れも不完全さも丸ごとうけいれてくださいました。「信じます」が先行し、現実のもろさがそこに伴っても、主はその信仰を認め喜ばれるのです。父親の覚醒した信仰が動き始めたとき、イエス様は悪霊にこの少年から出ていくように命じ、引き倒された子供の手をとって起こすと、彼は癒され、立ち上がったのでした。
4. 弟子たちが後に、「なぜできなかったのか」(28)とイエスに尋ねると、イエス様は、この類は「祈りによらなければできない」と教えられました。
祈りの持つ神秘的な力を覚えさせられます。弟子たちの祈りの力不足への指摘とも受け止められますが、この場合は弟子たちの信仰や祈りではなく、病の息子をもつ父親の祈りを指していると考えられます。周囲が祈るのではない。彼自身が「本気で信じ、本気で祈り、自らをキリストに投げ入れ、神との生きた交わりの中で生きる」ことがなければならない。その時、彼の心はキリストの愛と恵み、すなわちキリストがもたらす新しい神の御国のご支配の中に置かれる。そうなれば悪霊は居場所を失うからです。
あなたを創造された神様は、あなたが神以外のものに支配されることを許されない。あなたは神のものであり、あなたが心を開いて委ねる時、そして本来のすがたにあなたに立ち返る時、神はあなた方のもとに来て、いつまでも共に住まわれるのです。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(エペソ2:10)