【福音宣教】  祈りによって解決する道

「この種のものは祈りによらなければ」(マルコ9:29)

イエス様の弟子たちの前に、一人の父親が現れて、「悪霊につかれ癲癇の発作に苦しむ一人息子を癒してくださるように」と願い出ましたが、弟子たちは何もできませんでした。

かつてイエス様から派遣されて二人一組でガリラヤの町々村々で福音を伝えた時には、「悪霊を追い出し、病を癒すことができた」(マルコ314-15 67-12)だけに、彼らのショックは大きく、ふがいなさに気落ちしたことでしょう。家の中でそっとイエス様に「悪霊を追い出すことができなかったのはなぜでしょう」と尋ねました。するとイエス様は「この種のものは祈りによらなければ何によっても追い出すことができない」(29)と諭しました。今日はこの29節を中心に、学びましょう。

1.  不信仰は祈りの力を奪ってしまう その一例を父親自身の中に見ることができます。

先週学んだように、自分の息子の癒しのために、最初は弟子たちに、その後イエス様に願い出ました。彼はユダヤ人ですから、異邦人のように神を知らない民族ではなく、全知全能の神の御名も、祈りのことばも知っていました。幼いころから神の言葉を学び、祈り、1/10を神にささげることは、ユダヤ人にとって信仰生活のMUSTでした。知ってはいましたが、「もしできるならば」とイエス様に思わず自分の不信仰さを露呈してしまいました。知ってはいるが信じていない、信じているが神の御力と憐れみに委ね切っていない、祈りと信仰の中に疑いが忍び込んでいました。これを不信仰と言います。結局、不信仰は祈りの力を弱めてしまいます。祈ってはいるが半分以上、無理だろうなとどこかで思っているのです。

「神にはできないことはない」と天使から告げられたマリヤが「あなたのおことば通りこの身になりますように」(ルカ138)と祈ったような、単純にして素朴な信仰をもつならば、きっと神の栄光を見ることができることでしょう。マルコ福音書には「主の祈り」が記されていません。しかし135で「朝早く起きて一人で祈られる」イエス様のお姿を記しています。さらに、1122では、「疑わずに信じるならばその通りになる」と信仰に貫かれた祈りの価値をイエス様は教えておられます。不信仰は祈りの力を薄めて無力化してしまうことを覚えましょう。「もしできるならば」0でなく、「信じるならば」が祈りの世界です。

2.  御国の宣教と結びつかない祈りには、霊の力が伴わない

12弟子たちも(マルコ313-15)、その後の72人の弟子たちも(67)悪霊を追い出し、病を癒す権威を主イエスから与えられて派遣されました。派遣の前提に「神の国が近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ115)というキリストによる御国の宣言があり、神の御子が人となってこの世界に来られ、救いの御業を開始されました。神の国ということばは、神の恵みのご支配という意味であり、マルコの福音書の主題です。神の支配が及ぶところに悪霊は自分の居場所を得ることができませんから、救いの御業に激しく抵抗します。それゆえに宣教は、「霊的な戦い」とも呼ばれています。パウロは教会の真のあり方を説くエペソ人への手紙を締めくくるにあたり、610-11で、私たちの宣教の働きは、悪霊との戦いであり、それゆえに「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。目を覚ましていてすべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」(エペソ618)と、命じています。神は私たちをこの戦場に、「祈りの兵士」として招いておられます。この戦いのために神の武具を身に着け、み言葉の剣を持ち、御霊の愛にみちて、忍耐の限りを尽くして祈りなさいと激励してくださっています。一人の魂のために、忍耐の限りを尽くし祈るところに、人知を超えた神の救いの御業が行われるのです。祈る教会は多くの救いの奇跡を見ることができるに違いありません。

忍耐の限りを尽くしてとは、「どこまでも、どこまでも」という意味です。人間はすぐに限界を定めて、ここまでだ、ここから先はもう無理と投げ出し、あきらめてしまいやすいものです。限界のその半歩先、一歩先まで、導くのは御霊の愛がなす業です。失われた羊を見つけ出し、肩に担いで、牧場に連れ戻すイエスキリストの愛こそが御霊の愛です。御霊の祈りは限界や制限の支配をうけません。神の御心が成就するまで御霊による祈りは続けられ、必ずや実を結ぶことでしょう。

3.  祈りの第一歩は沈黙です。神は沈黙を友としています。

1)これは愛と祈りの人であったマザーテレサの言葉です。彼女は「本当に祈ることを望むならば、まず聴くことを学ばねばなりません。神は沈黙のうちにある心に語られるからです」(「祈り―信頼の源へ」サンパウロ会)と語っています。「神は沈黙を友としています」とも彼女は語っています。ですから私たちも沈黙を友としなければなりません。世の騒がしさから離れ、身を引き、神との語り合いの中で、神とつながることが必要です。環境的な沈黙だけではなく、神の沈黙にも寄り添うことが必要とされます。

私たちは直面している悩みや問題を解決していただくために神に祈ります。祈りは神から、神の子たちに与えられた特権ですから、大胆に安心して行使しましょう。しかし祈っても祈っても答えが来ない、解決できない、先が見えない、長い沈黙の中に置かれることがしばしばあります。神の沈黙の中で、神は私たちの祈りがどこへ向かうかを待っておられます。「もしできるならば」と私たちの心が疑いへと揺れるか、「信じたことは必ずなる」ととどまり続けるか、神は見ておられます。

2)現代社会は、予測が不可能で複雑な時代(変動性・不確実性・曖昧性)と言われています。その中で、何でも「すぐに解決」しようとすれば、壁にぶつかり、不安になったり、イライラしたり、精神的重圧でこころをすりつぶしてしまったり、あとから後悔するような誤った判断を性急に下したりすることがあります。「答えの出ない事態に静かに耐える力」のことを医学用語で「ネガティブ・ケイパビリティ」と言います。医者たちは現代の医学では限界があることを知っています。最善を尽くしてもここから先は、答えが出ない、解決法が見つからない。家族から何とかしてくださいと訴えられてもどうにもできない病や障害や医療の限界そのものがある。医者としての人間的な無力さに静かに耐えることが医者の素質として求められているそうです。

3)すぐに答えを見つけることができない状況が存在することは紛れもない事実であり、現実です。私たちはそのようなとき、「神の沈黙を友とする」祈りの道を知っています。沈黙は神の無力さや神の不在を意味してはいません。沈黙の中で、私たちは待ち望んで祈るのです。そしてそこに神の御業を見せていただくのです。祈りの世界は多様であり、奥深さがありますが、神は真実なお方であり、愛に満ちたお方です。朝の来ない夜はないように、神の沈黙の先には神の栄光と御業が用意されています。

待ち望む力を祈り求めましょう。

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。」(詩篇42:11)