【福音宣教】  十字架と復活の予告

「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし殺されて3日後によみがえる」(マルコ9:31)

主イエスは弟子たちに十字架の死と復活について2度目の予告をされました。1回目は弟子たちがまったく理解できなく、「そんなことがありえましょうか」(831)とペテロが代表して否定しました。キリストを政治的な王と待望する彼らの期待と大きく違っていたからです。2回目はイエス様の真剣さになにやら不安と恐れを感じとり、黙ってしまい、なに一つイエス様に質問することもありませんでした。人は誰でも、不安や怖さを強く感じるようになると、防衛本能が働いてその問題に触れないように黙りこくったり、質問もせずに、避けて通ろうとする傾向がみられます。

1. 恐れて沈黙した弟子たち

「渡される」ということばが弟子たちを揺さぶったようです。いったい誰が、どんなふうに、自分たちの先生を敵に渡すというのだろうか? 誰が仲間を裏切るのだろうか? 悪い想像と疑心暗鬼の懸念が弟子たちの心に黒雲のように広がったのではないかと思われます。

さらに、イエス様が十字架でもし処刑されたら、弟子の自分たちもただでは済まない。まちがいなく自分たちにも危害が及ぶに違いない。イエス様が王になれば、自分たちは大臣になれるかもという世俗的な野心も打ち砕かれてしまいます。こうした弟子たちの無理解と恐れのゆえに、イエス様はもう一度エリコの町に入る直前で、三度目の予告して、弟子たちに心の準備をさせなければなりませんでした(1033-34)。

「たられば」や「もしも」の話はありえませんが、この時、もしペテロが沈黙を破って勇気をもってイエス様に質問したらどうだったでしょうか。不安や恐れを覚える出来事を避けないで、しっかり向き合っていたらどうだったでしょうか。イエス様は十字架の死についてさらに深く解き明かされたことでしょう。残念ながら弟子たちはカルバリの丘でイエス様の十字架の死を目撃するまで、いいえ復活した主と直接、お会いするまでやはり理解できなかったのでした。

今、私たちは福音書とパウロの手紙を通して、啓示された「主イエスの十字架の意味」を理解し、感謝することができています。なによりも、「誰がイエスを渡すのか」という弟子たちの恐れに対して、父なる神様ご自身が御子を十字架に渡されたという神の愛の真実を知っています。十字架の死は失われ滅びゆく罪人に対する神の永遠の救いのご計画の中心であり、救いの核そのものであり、神が定められた決定事項でした。主イエスは私たちのために十字架で死なれたのです。

真理の御霊によって啓示された十字架の愛の深さ高さ広さを私たちは聖書を通して知らされ、学び、生かされ、感謝しています。なんと幸いなことでしょう。

2. つまずきとなる十字架の死と復活

考えてみれば弟子たちばかりでなく、十字架と復活が理解できないこと。これは求道者のかたがたの最初の悩みあるいはつまずきではないでしょうか。

「2000年前の十字架の死が、今の私と何の関係があるのでしょう?」とよく質問されます。聖人君子と呼ばれる偉人たちが残した言葉であれば「教訓」として受けとめることができますが、キリストの十字架の死が、この私の罪の赦しとどう結びつくのかなかなかわからないのではないでしょうか。

「死者の中からよみがえった?そんな非科学的なことを本気で信じているのか?なんとおめでたい人たちだろう?」こんな応答もしばしば耳にします。死者の復活など人間的な常識では非科学的なできごと、宗教的妄信などとして否定されてしまうことでしょう。

けれども「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ832) 「御霊は真理に導き入れる」(1613)とあるように、真理の御霊が働くと目が開かれ、「私についての証し(処女降誕、受肉、十字架の死、復活、再臨など)」をすべて受け入れることができるようになります。人間的理屈の枠内に偉大な全能者なる神をはめ込もうとしても無理な話しです。信仰の世界の奥深さがここに存在するのです。

弟子たちは質問することもしませんでした。質問をすることはとても大事です。何がわからないのかわからないので質問もできないと正直に言われる方もおられます。質問しても答えを理解できないことも多々あります。そもそも私たちが生きる世界にはわからないことも未だに山ほどあります。そして知っていただきたいこと、いいえ、知っておくほうが人生をより幸福に生きることができることがあります。それは、「答えが出ないこともある、答えがないこともある」という事実です。 医学用語で「ネガティブケイパビリティ」と言います。医学も万能ではありません。「なぜ私が癌にならなければならないのですか。子供もまだ幼いのに・・」という質問にどの医者も答えなどは出せません。牧師も同じです。人生の矛盾、不合理、不可解さに「これはこうです」と安っぽい占い師のように答えなど即答できません。信徒と一緒に人生を歩もうと願う牧師は、安易な答えを出せません。  「うーん、どうしてでしょうね・・。いっしょに考えましょう。私も祈ります」と答えるのではないでしょうか。人生の不合理性の谷間をともに祈りつつ歩むのが、牧会者だと私は思います。 

3. あなたにとっての十字架と復活

あなたにとって十字架とは、そして復活とは、なにを人生で意味しますか? 大切なことは、この質問に対する「あなたの答えをあなたの言葉で」表現することではないでしょうか。

聖書が告げる真理を私たちは自分の信仰生活の中に落とし込み、そこからにじみ出ることばで形作り謙虚に表現することが証しであり、伝道といえるのではないでしょうか。しっかり生活に根差していることが愛の基盤です。それは決して空虚な美辞麗句とはなりません。「愛をもって真理を語りなさい」(エペソ415)とパウロは強調しました。そうでなければ単なる「キリスト教教理の押し付け」にすぎなくなります。魂に触れることはないでしょう。

私にとって、十字架それは「神の愛」そのものと言えます。イエスキリストの十字架の死の尊さが理解できた時、「罪の赦しのため、もはやどんな労苦も必要としない」ことが腑に落ちました。「天の歴程」を記したJ・バンヤンは「罪の重荷に悩む巡礼者がやっと十字架にたどり着いた時、十字架の前の大きな穴に、人生のすべての重荷と罪が転がり落ちた」と言う趣旨を書いています。罪の赦しを求めるいかなる努力ももはや不必要なのです。十字架は他ならぬこの私のため、私の罪の赦しのために神の御子が死なれ罪を償い帳消しにして取り除いてくださったのです。「たとえあなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ118)の体験をさせてくださるのです。

復活はいかがでしょう。私にとって、「復活、それはよみがえられたキリストがともに歩んでくださる」ことそのものです。もう私は一人じゃない。どこにいても何が起ころうとも決して一人じゃない。よみがえられた主キリストがここにおられる。それは孤独からの解放でした。人間的な愛の虚しさを両親の離婚を通して深く傷つき確信していた私にとって、よみがえられたキリストが私と共におられることは、魂の空洞を埋める出来事でした。さらにそこに信仰を分かち合う兄弟姉妹があり 祈りの絆があり、永遠の家族がいる。これにまさる幸いをほかに探すことはできません。

脳梗塞で倒れ入院をしている車椅子生活の姉妹がいます。病室を見舞うたびに、姉妹の口からは伝道の熱意がこぼれてきます。先日も、「教会の将来を考えると子供への伝道が大事。子供たちを楽しく迎えることが大切。そのためにドリフターズの高木ブーさんと体操のお兄さんを迎える。ブーさんが来れないなら、私が雷さんの役をする」と。「おへそを出して雷の役をするのはちょっと恥ずかしくありませんか」と私が聞くと、「神様のためなら恥ずかしいことも平気です」と笑って答えておられました。家庭集会を開いて、地域の子供たちへの伝道に熱心に取り組まれていた姉妹です。意識と記憶の混乱が見られますが、神を愛し、子供たちを愛する魂は純粋さをずっと保っておられます。

キリストの十字架と復活による喜びを、真理の御霊がきっと信じる者たちの魂に届け、満たし続けてくださることでしょう。アーメン。