1 使徒信条 題 我、信ず、ア−メン」 2004/6/20
聖書箇所 詩篇16:1−9
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」
(詩16:8−9)
今日から使徒信条の講解説教をいたします。私たちがいつも礼拝で唱和する使徒信条は歴史が古く、2−3世紀頃に、ロ−マ教会の洗礼式における信仰告白文として用いられたロ−マ信条がベ−スになっていると言われています。ですから使徒信条は洗礼式という厳かで感動的な場での生きた信仰告白としての性質をもっています。使徒信条が「ア−メン」という讃美で結ばれていることも洗礼式における告白と考えればなおさらその力強さが伝わってくる思いがします。
以前、イギリスのウェストミンスタ−寺院を訪ねたことがありました。高い天井、壮麗な伽藍に目を見張るばかりでした。そしてフロアには歴代の国王や聖徒たちの棺が埋葬されていました。足下に信仰の生涯を全うした聖徒たちが埋葬されているのですから身が引き締まる思いがいたしました。教会堂全体が巨大な墓地といってもいいかも知れません。古代教会では信仰に生き抜いた殉教者たちの亡骸が埋葬された墓地で年に1度だけイ−スタ−の朝にあわせて洗礼式が行われたそうです。そうした厳かさと緊張感の中でこの使徒信条が告白され洗礼が施されたのです。ですから、使徒信条はキリスト教教理のダイジェスト版と言うよりは、もっと感動的で緊張感が伴った、イエス様への生きた信仰の告白としての性質をもっていると理解したいと思います。
一方どんなに洗礼者の数が多くても、イエス様への信仰は「我、信ず」と単数形で告白されました。信仰は神様との個人的垂直的関係、私と神との霊的関係に根ざしているからです。弟子たちに祈るように教えられた「主の祈り」では「我らの父よ」と複数形が用いられ、教会としての共同性が強調されています。しかし、イエス様を「キリスト」(救い主)と信じる信仰とその告白の証しであるバプテスマは、常に個人の主体的意志に基づいてなされなければなりません。天国行きの「1枚の切符」をもって、みんなで手をつないでいっしょに天国へ入ることは許されないのです。切符は各自が手に持たねばなりません。
迫害の時代であればなおさら、個人の主体的な意志が強く求められたことと推察できます。人に頼る信仰では試練に直面したとき通用しないからです。
「我、信ず」それは、何と力強い告白でしょう。
信仰の世界では、何をそして誰をどのように信じるのかはとても大切なことです。これからご一緒に学び続けてまいります。今日は「信仰」そのものを考えてみましょう。
1 神からの賜物としての信仰
日本人の感覚では、信仰は一生懸命信心や精進に励むこと、念仏やお題目を唱えたり、戒律を守って善行に励んだり先祖の供養をせいいっぱい勤めることなどと考えられます。そこでのキ−ワ−ドは「自分が」と「行い」の2点だと思います。つまり信仰とは「自分が熱心に宗教的な行いを重ねて精進すること」と要約できると思います。
一方、聖書は信仰について次のように教えています。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」
(エペソ2:8−9)
聖書の信仰を理解するキ−ワ−ドは「神からの賜物」です。信仰は神から与えられる恵みの賜物です。信仰を神からの賜物と受けとめるとき、その人は「神が私たちを信じることができるように招いてくださった。神とともに生きる人生に神様が招待してくださった」と視点の変化を経験することでしょう。そして信仰が神様からプレゼントされたものであるなら、ただ受け取らせていただくしかないことを悟るのです。
信仰を頭で考え理解しようとしていたある求道者の方が「どうしてみんな、単純に信じることができたのか、うらやましい」と言われました。彼は「我信ず」という神の恵みの世界ではなく、「我思う」という人間の思考の世界にはまってしまい神様がわからなくなってしまったのではと思います。神様はあなたに「わかってほしい」と願っておられません。むしろあなたがそのまま「信じて受け入れてほしい」と願ておられます。信仰は神様からの贈り物ですから、感謝してそのまま受け入れることであなたのものとなるのです。
2 神様との生きた関係
さてここで、具体的に一人の信仰者の生き方を学びましょう。ダビデに目をとめましょう。詩篇16においてダビデは自分の信仰のあり方を「神を私の前に置く」と表現しました。
この詩は、王位後継者であるダビデがサウル王におわれて逃亡生活をする中でつくられた歌です。ダビデは数々の試練の中で信仰とは「神への信頼」(1)にあることを学びました。神様をどのような位置におくかで神様と自分との霊的な関係が見えてきます。ダビデは神様をいつも「前におきました」。それは、神様の御心を知り御心にかなった歩みをするために神様と向き合い、語り合って生きる祈りの生活を意味します。神のみこころを知るだけでなく、先立って進まれる神様にいつでお従いする献身の生活をも意味します。神様に信頼するから、後ろに下がってお従いするのです。
もし神様を「私の後ろにおく」というのでは、自分が先に立ってとっとと歩き、神様を子分のように従わせている姿と言えます。「はようしいや」「何してんの」と後ろを振り向いて神様をしかりとばしそうな傲慢な信仰でもあります。
「上に置く」とは、神を高くあがめ奉って関係が薄くなってしまった状況をさします。日常生活と遊離した遠い存在、神棚の神になってしまうことです。もし形式や宗教的な装いばかりが強調され、神様との内的な関係が失われてしまえばむなしさを覚えることとなります。よみがえられ今も生きておられるキリストを信じる信仰は、「神様が共にいてくださる」、「私の祈りにも応えてくださる」、そんな喜びで満たされる世界ですから。
一方、もし私たちが日常生活に埋没してしまい、神様に属することと、この世のこととの区別があいまいになってしまうとすれば、それは神様を自分とこの世の「下におく」ことになってしまいます。
もし神様を「横において」肩を並べて歩むことが、神様を相対的な世界に置くことと通じてしまうなら、やがて神様への畏れの心、感謝の心を忘れることになるかもしれません。神様の恵みにも慣れてしまい、「当たり前」のように受けとめたり感じたりして、感謝を忘れてしまうなら、大変悲しいことです。
神様を前におく信仰は、だからといって「神様を前におかなければならない=神様に従わなければならない」と思いこむ「〜すべき」思考と混同させてはなりません。Should主義やMusut主義で生きることはたいへんしんどいことです。もしそのようなしんどさにとらえられたときは、「ねばならない」にとらえられている自分から、先だって歩まれる神様に視線を移してみましょう。
どんな困難な道も、先頭を歩まれるのはイエス様であり、行く手を切り開いてくださるのもイエス様です。わたしたちが神様を前に置くということは、神様が私たちを背後にかくまってくださっていることを指します。そうしてじつは私たちは守られ導かれてきたのです。私たちが知らないところ気がつかないところで、どれほど神様は道を開き、扉を開いてくださっていたかわかりません。神様のすばらし神様の恵みが大きく見えてきませんか。
神様が先立って歩んでくださっているのです。だから心配いらないのです。恐れなくていいのです。大丈夫なのです。
明日のことさえわからない私たちは、いつも未知の世界への恐れや不安に悩まされます。しかし明日のすべてを知っておられる神様が、信じる私たちに先立って歩み、道を備えてくださっているならばどんなに心強いことでしょうか
主を前に置くから、ダビデは、
「私の幸いはあなたのほかにありません」(2)と、永遠の価値、人生の最高の価値を神様の中に見いだし続けることができました。たとえどこに行こうとも、そこは「わたしへのゆずりの地」(8)と、神様が導かれたところが最高の場所、ベストプレ−スであると信じて建設的に生きてゆくことができました。
自分のいる場所が自分にふさわしいのか、他に自分の場所があるのではないか、ここにいることがベストなのか他の場所が良いのか、私たちはしばしば「居場所」をさがして悩みます。学校でも職場でも家庭でも、あらゆる人間関係の中で居場所探しが始まることがあります。以前、家族の中に居場所を見つけられなくて自宅のトイレに毛布を持ち込みそのまま5年間も閉じこもっていた青年のドキュメント番組がありました。居場所が見つからなくて精神的に破綻し死を選んでしまった人も決してすくなくありません。居場所を見つけることは確かに難しいことだと思います。
しかし、本当の居場所は神様の中にあります。ダビデは神様を自分の前に置きました。神様と自分との正しい関係、神様が望まれる関係を理解していました。神様の中に最高の価値を置き、神様とともに生きる自分を見いだすことができていました。
神様を前におくならば、そこにはこのような喜びが約束されています。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」
(詩16:8−9)
そこには神の力ある助けと守りがあります。心の喜び、魂の楽しみ、体の健やかさという3重の祝福がそこには充ち満ちています。
神様を前に置き、神様への信頼の道を歩ませていただきましょう。
祈り
主よ、「私はあなたを前に置き、あなたと語り合い、あなたにお従いします。」。
その祈りの中に日々の私たちの歩みをお導きください。
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