2 使徒信条  題 「我、天地の造り主を信ず」  2004/6/27

聖書箇所 創世記1:27−2:3

「こうして天と地とそのすべての万象が完成された。・・・神はその第7日目を祝福し
 この日を聖であるとされた。それはその日に神がなさっていたすべての創造のわざを
休まれたからである」
(創世記2:1.3)

皆さん、私たちが毎日手入れしている髪の毛の数はどれほどあるかご存じでしょうか。成人の場合、800−900万本もあるそうです。そして毎日、自然に100本近く抜けたり生え変わってくるそうです。私たちの体は約13兆もの細胞で構成されていますが、もし科学的にその細胞を作り出せたとして、それさえまず不可能に近いことだそうですが、その細胞を1秒間に1個づつ組み合わせても一人の人間の体ができるまでには43万年かかるそうです。お母さんの体の中で約10ヶ月で赤ちゃんの体が自然に完成されてゆくのですから驚きであり神秘としか言いようがありません。こうした生命の神秘を「偶然の連続」とみなすか、人間の存在を超えた大いなる「神のみわざ」と思うかで世界観がわかれるところです。

私達クリスチャンは、世々の聖徒たちとともに「天と地の創造主を信じる」と告白します。

天とは、目に見える自然界のすべて、宇宙空間のすべての天体、地とはこの地球をかたち造る空と海と大地、そこに住む人間を頂点とする全ての動物植物を指します。さらに「天と地」という言葉を「目に見えない世界」と「目に見える世界」と解釈することもできます。私達の世界には、目に見えませんが、数学という言語で解読でき、コンピューターで確証できる天文学的な法則や物理学的原理が無数に存在しています。これらのすべては天地を創造された神の人知を遙かに越えた叡智から生み出されたと私達は信じています。目に見えるものばかりでなく目に見えない内なるすべてのものも、創造主がお造りになり、今も御支配されていると、私達は世々の聖徒たちとともに信じています。

私は学生時代、伊豆7島を旅行したことがあります。生まれて初めて夜空一杯に輝く星を見ました。名古屋生まれの私には衝撃的な体験でした。天の川をミルキーウェイと言い、星空をスターダスト(星屑)と英語で表現する意味が初めてわかりました。クリスチャンになる前でしたが、星くずの夜空を見上げて、この世界には神がおられると直感的に確信したことを覚えています。ですから聖書を読んだ時、創世記1章1節「はじめに神が天と地を造られた」がストンと心に入りました。仮説としての進化論を知らないわけではありませんが、あの満天の星は人間の小さな理屈を一瞬で吹っ飛ばしてしまうような体験でした。父の親戚がお寺でしたから私は小さい頃からお寺と親しんできました。そこで見聞きした人間の手で作られた諸々の神仏の存在も彼方に消えてしまいました。聖書を読む以前にすでに創造主との出会いを満天の星空の下で経験したような気がします。

旧約聖書の詩人は「天は神の栄光をあらわし、大空は御手のわざをしめす」(詩19:1)と感動的に創造主のみわざを賛美しています。私は幼い子供たちにはできる限りこのような体験を豊かにさせてあげることが、聖書が示す創造主なる永遠の神に子供たちが大きな感動をもってありのまま近づく道ではないかと思います。

今日、着目したいことばがあります。第1に、「非常に良かった」という神の言葉です。

神が6日かかって世界を言葉で創造された後、「お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは非常によかった」(1:31)と満足され、第7日目を休まれたと聖書は教えています。神がやすまれたのは、疲れたからではありません。まだまだ先が長いのでここらで一服されたわけでもありません。むしろすばらしい仕上がりだと満足され、これ以上はなにも付け加えることがないと思われたから休むことがおできになったのです。もし創造されたものが不完全だったり未完成だったら神様もまだ不満足に思い、働きを続けられたことでしょう。神が休まれるほど、満足のいく最高の仕上がりだったのです。すばらしく「GOOD」なものだったのです。人間を含めこの世界は本質において「良いもの」「最高のもの」「満足のゆくもの」だったからそれゆえ生めよ増えよと神は「祝福されました」。個々の一つ一つが良いばかりでなく、相互の関連性も良く、個々が集った全体としてもたいへん良かったのです。

この世界も私達も、あなたも私も本来、造られた時、創造主が「良し」と満足され、産めよ増えよと祝福された「よい作品」だったというこの真実をしっかりと見つめ直すことはとても大切だと思います。

つまりあなたや私は根源において、憎まれるべき存在ではなく、神が喜びとされ満足された存在、ますますその数が増し加わることが神の願いとされた祝福された存在なのです。ですから決して自分を自己否定してはならないのです。良きものとして創造されたこと、それが「神のかたちに似せて創造された」ことの真の意味です。私達は自分の存在の始まりにこのような肯定的なすばらしい基礎がすえられているのです。このことは私たちの中に「人生を肯定的に生きる力」が隠されていることを意味しています。どんな困難にあっても乗り越えてゆける隠れた大きな資源ともなりうるのです。

人生には否定的な出来事、悲観的な出来事が多くあります。就職した会社が倒産した、突然解雇通告を受けた、恋愛に破れてしまった、結婚して3年なのに離婚せざるを得ない、いい子だったのに中学に入ってから荒れ出し非行に走ってしまった、あんな素直ないい子が傷害事件まで起こしてしまった、健康だけが自慢だったのに医者から癌の告知を受けた、母が痴呆になって我が子の名前も思い出せなくなってしまった、などなど。悩みは数ええればきりがありません。しかし、それでも私たちの人生の根底には、神の「Good」があり、支えられている、だから大丈夫だ、人生ってそれでもいいもんだと、前向きに生きてゆくことができるのです。

もしあなたが病床にある方をお見舞いにいって「5年もこんな病気でもう辛い」と言われたらどうされますか。「おつらいですね。たいへんですね」とマイナ−な面だけを見て会話を続けても、二人とも落ち込んでしまいそうです。そこで「5年もよくがんばられましたね。本当に忍耐強いんですね。どんなふうにしたらそうなれるのか、教えてくださいませんか」と、質問をすれば、この方はただ嘆き悲しむばかりでなく5年間もこんな大きな試練と戦い、今も生きている自分自身の隠れた能力に気づいて自信をふと覚えるかもしれません。あるいは自分を今日まで支えてきてくれた多くの人々の顔を思い浮かべて感謝の思いに満たされるかもしれません。どんな状況の中でもその人ができている小さなことがかならずあるはずです。それを見つけて誉めて認めてゆくならば、肯定的な存在感が高まって元気がでるのではないでしょうか。

昔ある青年が鉄道自殺をしたことが新聞で報道されました。彼の遺書には「私のような人間がいたことなどは早く忘れ去ってください」と書かれてあったそうです。自分の存在価値を認めることができないこの青年は、自分のような存在がいたことさえ抹消したいほど、自己を否定しました。「自分の存在など、なかったことにしてくれ!」これほどまで希望を失った叫びが他にあるでしょうか。

天と地を創造された神、祝福に満ちた神、「私の目に貴方は高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:3)、「You are very good」と語りかけて下さる神を知ったならば、「自分の存在など、なんの意味も価値もないから消し去ってくれ」という底なしの絶望からこの青年はきっと救われたのではと思います。

加藤常昭牧師が、「私を造られた神」[]と題するメッセージの中でこのようなことを語っておられます。「神はご自分が造られた世界を祝福され安息を楽しまれた。日曜日に教会に集いともに御言葉を聞きともに歌を歌いながらこの安息を楽しんでおられる神の祝福を受ける。この祝福を自分の祝福として受け入れる。それは日曜日にここに来るたびに、お互いをみな自分を「自分は良いものだ」と受け入れなおすことなのです。自分がまるごと神様に祝福を受けるんだという恵みをここで味わうのであります。・・そしてお互いが良かったねと喜び合うのが教会であります。」[]

加藤先生は教会の交わりを「みな自分を「自分は良いものだ」と受け入れなおし、お互いが良かったねと喜び合う」ことととらえておられます。とても大切な指摘だと思います。

現代人は競争社会、管理社会、効率功績重視、能力主義偏重という時代の中で生きています。何ができるかできないかが大きな価値基準になって人が評価されます。そして「あなたはこれができてない、あれも不足している、だからダメ!」という切下げや切捨てのことばを嫌というほど聞かされ苦しんでいます。教会において「神さまからまるごと良いものだと言われて良かったね」と互いに喜びを分かち合うことができたらどんなに大きな慰めを得、元気付けられることでしょう。

人を見る時には「この人に対しても神様は「たいへん良い」といわれ満足して世に送り出されたんだな思いましょう。そうすれば人のあらばかりを探している嫌な自分から解放されることでしょう。

反対に自分を見て罪深さに苦しむ時は、イエス様の十字架の血によって罪赦され、聖霊のいのちを頂き「良き神の作品」として再創造していただいたんだと思いましょう。堕落した罪人をも十字架の赦しと聖霊の満たしをもって神の作品として復元してくださった神様に思いをあてましょう。信仰とは、人間の視点からものごとを見て考えるのではなく、神様の視点からものごとを見て考えること、そのような世界に招かれることだと思います。

さて、第2番目に、「創造」とい訳されたことばに着目しましょう。
神が世界を創造されたとき、ヘブル語ではバーラーという特別な言葉が用いられています。これは神が「無から有を生じさせる」ような特別な創造を意味しています
[]。人間が何かを作ったり、製作したり加工する場合には他の動詞が使われ区別されています。

私達は神様によって実に創造性豊かに形造られました。ですから私達も自分の人生を他の誰かがまねできないように独創的に生きることができるのです。他の誰かの真似ばかりをする人生ではなく、その人にしか作り出せない自分だけの人生を生きることができるのです。創造主なる神様は、あなたをそして私を、人まねの人生ではなく、オリジナルの人生を歩むようにとの願いをこめてこの世に送り出して下さいました。

イザヤの次のようなことばを励ましとさせていただきましょう。「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」(イザヤ40:26)

天地を造られた神は、私達を数え、その名を呼び、「たいへんよい」と満足され、この世界に送り出してくださいました。

たしかに、人生にはいろんな出来事がありつらいことやうけとめがたいことが多くあります。苦しくても避けて通れないこともあります。あの青年のように「もう私がいたことなども忘れ去ってください」と叫びたくなる絶望のときがないとは誰にも言い切れません。

しかし、どんな試みの中におかれても、私達を「良し」とみなし祝福してくださる創造主は、「生れてきてよかった」「生きてきてよかった」「生きていることはすばらしい」と感謝と賛美をささげることができる人生へ導いてくださることでしょう。礼拝も、交わりも、造り主である神の祝福に対する感謝と賛美に満ちたものになることでしょう。

キリストのからだに連なる世々の教会、世々の聖徒たちとともに

「我は天地を創られた神を信ず」と告白してまいりましょう。アーメン。


[] 加藤常昭 使徒信条講解 日本基督教団出版 p103
[] 加藤常昭 使徒信条講解 日本基督教団出版 p107
[] FAシェーファー 創世記 いのちのことば社 p36
    無からの創造1:1 いのちの創造1:21 人間の創造1:27


    
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