10 使徒信条  題 「十字架の恵みに生きる」  2004/8/8
十字架の愛は教会の基礎
聖書箇所 1ヨハネ4:7−11

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」

(1ヨハネ4:11)


先々週、家族で信州上高地へバス旅行しました。お盆の期間で渋滞に巻き込まれ疲れましたが久しぶりに家族でゆっくり過ごすことができました。帰り道、岐阜の飛騨高山の田舎を過ぎた時、観光バスの中から親戚の子供が「あそこにほら教会が見える」と指差しました。古い民家と田んぼが並ぶ中に、白い壁、青い屋根、そして十字架が高く掲げられたしっかりした教会の姿が目に飛び込んできました。こんな田舎にもイエス様を信じる人々が住み、会堂を神様にささげ、屋根の塔に十字架を高く掲げ、地域の人々にイエス様を証ししているのだなと思うと胸が熱くなる思いがしました。すっかり1観光客の気分になっていましたから、十字架が輝いている姿は印象深いものがありました。「クリスチャンがキリストを証しすると同様に教会堂がキリストを証しする」とは昔からよく言われることばです。

十字架の意味を一般の人はほとんど理解していませんが、それでもやはり十字架は一般の人にはキリストをイメージさせる大きな力になっているなと感じました。高山の農村地帯に建てられたあの教会にどのような牧師先生と信徒さんがおられ、伝道牧会に励まれているのかわかりませんが、その働きが祝福され、十字架を仰いでキリストの救いを受け取る人々が起されますようにと祈らせていただきました。

1 十字架の救いを信じる

さて先週学んだように、聖書の中心はイエスキリストの十字架の身代わりの死にあります。イエス様は私達、全人類の過去・現在・未来のすべての罪、なすべきでなかったことを犯した罪、なすべきであったことを怠った罪、神の怒りとのろいをことごとくすべて引き受けて、十字架で死んでくださり、ご自分の死をもって私達のすべての罪を償い、清め、赦してくださいました。

十字架による赦しは1度限りの完全なものであり、永遠のあがないと呼ばれています。ですからキリストにあって赦されない罪などは一切、存在しません。しかもただ、信じることのみが求めらます。

「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)と、救いの完全性が証言されています。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1:7)と、赦しの完全性が語られています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)と、信仰による救いの祝福が語られています。

このような完全な救いが神様によって用意されたのは、人間が自分で自分を罪と死の裁きから救うことができないまったく無力な存在であることを神様がわかっておられたからです。神様はそのような無力な罪人である私達を深くあわれみ、一方的な大きな愛を注いでくださいました。値しないものに注がれる一方的な愛を「恵み」と呼びます。神様の愛の最大の特徴は、このような一方的な愛、恵みの愛であることです。恵みは神様からの一方的な贈り物としての愛ですから、受け取ること、受け入れること、信じることだけで十分であると約束されています。もし救いを受けるために何かの条件を満たすことが求められるとすれば、それはもはや恵みではなくなくなります。イエス様を救い主と信じることは、イエス様の十字架の身代わりの死を受け入れること、そして十字架において示された神の愛を信じることに他なりません。

2 十字架の愛に感謝する

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」
(1ヨハネ4:9−11)

使徒ヨハネは、イエスキリストの十字架の死を、「罪のための宥めの供え物」と理解し、神様が備えてくださった贖罪の御わざの中に、神の愛を見出し「ここに愛がある」と証言しました。神様がもし愛のお方でなければこのようなご計画をお立てになることは決してなかったことでしょう。もし神様の聖さと正しさだけを示そうと思われたならば、罪人に対して永遠の滅びである地獄の刑罰だけを用意し、「自業自得」全責任はあなたがたにあると宣言すれば済んだことでした・・。しかし、神様は罪人が滅びに向かうことを悲しまれ、価しない者を赦し救うために十字架の恵みを備えてくださいました。このような神の愛を、御子イエスの十字架の身代わりの死において、示してくださったのです。

私は22歳のとき、このキリストの十字架の愛を知りました。幼いときから教会に通っていましたから、神様が清く正しい唯一のお方であることは知っていました。キリストが十字架で死なれたことも知っていました。自分が罪深い一人の人間であることもよくわかっていました。けれども、知識として知っていることと、霊的な啓示として聖霊が魂に示されることとは異なります。「この私のためにイエス様が十字架で身代わりに死んでくださった」、この真理が聖霊によって個人的に魂に示されたときに、私は深い感動に包まれました。

十字架の愛を知り、イエス様からこれほどまで愛されていた、大事にされていた、なによりも私の存在がこれほどまで尊く見られていたかと思うといい知れない喜びが沸きあがってきました。そして、生涯、この愛に精一杯お応えしたいなと素朴に思いました。この感動は未だにわすれることはできません。感動は今も2つのことを私の心に語りかけてきます。

一つは、キリストの十字架の愛を決して忘れず、十字架の愛以外の何かを神様にさらに求め、その結果、初めの愛を失ってしまうことがないようにしたいという思いです。もうすばらしい愛をいただいたのですからこれ以上何を神様に要求することがあるでしょうか。「イエス様、あなたの十字架の愛でもう十分です」この感謝の思いが、私の「礼拝」に対するすべての考えの根本となっているなと感じます。

二つ目は、もし愛を見失い幸せを見出せない人がおられたなら神様の永遠の愛をぜひお伝えしたいという願いです。これは私の「伝道」の根本的な動機になっています。伝道以前に信頼関係を築くためのカウンセリングを行うことの動機にもなっています。礼拝も伝道もカウンセリングも神様からいただいた愛を根底にしています。おそらくこのことは、私だけではなくすべてのクリスチャンに共通している思いではないでしょうか。

神学校の恩師があるときこういわれたことばが強く印象に残っています。

「クリスチャン生活はたとえ何年経とうとも、いつも十字架を見つめることに始まりそして終わる。例えるならば、手漕ぎボートを漕ぎ出すようなものだ。モーターボートならば目的地に向かって操縦するけれど、手漕ぎボートの場合は、出発した岸を向いて櫂を漕ぎ続ける。天国に向かって進むためには、実は出発点である十字架を見続けることになる。」

クリスチャン生活は、年数がどんなに経っても、結局はイエス様の十字架を見つめて歩んでゆく生活なのです。

迫害という大きな困難に直面しているラオデキアの教会を励ますために、使徒ヨハネに神様から啓示が与えられました。ヨハネは信仰の勝利を得るために「 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙2:4)と勧告しました。はじめの愛に立ち返ることによって苦難をも乗り越えることができるからです。

私達はイエス様の十字架の愛によって、真実な愛を知りました。ですから、初めの愛を思い起してください。十字架の前であなたが涙をながした初めの愛と感動を思い起こしましょう。私たちはもうすでにすばらしいものを受け取らせていただいているのです。ですから、初めの愛を思い起せば力を受けることができ、どんな状況のなかからでも再出発することができるのです。

今、アテネオリンピックが開催され、日本選手も次々と金銀銅メダルを獲得しています。メダルを手にした各選手がそれぞれ喜びの言葉や感動を語っています。長年の努力が報われ、自分の力で勝ち取った勝利だけにその感動も大きいことと思います。しかしそれが私たちの経験する感動のすべてではありません。神様から最高の愛を贈られた感動もあるのです。十字架の中に示された神様の永遠の愛を、信仰によって受け取らせていただくという大きな感動もあるのです。

3 十字架の愛に生かされる

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(1ヨハネ4:11−12)

「ここに神の愛がある」と十字架の出来事の中に神の愛があることを証したヨハネは、続いて「私たちもまた互いに愛し合うべきです」と命じました。

神様の愛を受け取った私達は、その愛に生きることが求められています。なぜならば「これほどまでの愛」を私達は受け取ったからです。十字架の愛は「これほどまでの愛」と呼ばれています。ことばでの説明をはるかに超えた愛、私達が人生において知りうる最高の愛を指しています。

これほどまでの愛をもって愛された私達が、互いに愛し合って生きるならば、神の愛が教会の交わりの中で全うされる、完成されるというのです。もし、信徒の交わりにおいて愛が示されないなら、神の愛は完成されないのです。神はご自分の永遠の愛をカルバリの丘のイエスキリストの十字架において目に見える形で明らかにされました。そして次に、キリストのからだである教会において、ご自分の愛が目に見える形で明らかにされることを願っておられます。私達が互いに愛し合うことにおいて、神の存在を人々が知ることができ、神の愛を実感することができます。ですから教会は神の愛が交わりを形づくるのです。

クリスチャンである私達は、個人としてキリストの愛に生きることが求められ、キリストのからだである教会の一つの枝としてお互いの愛に生きることが求められています。一人のクリスチャンとして個人的な愛に生きることは目に見えない隠れた奉仕といえます。牧師が知らないところでみなさんが兄弟姉妹や隣人への愛に生きておられることを知っています。おそらくみなさんは神様から満点をいただくことがおできになるのではないでしょうか。

もう一つのあり方でも私達は神様から満点を頂きたいと願います。それは一つのからだなるイエス様の教会として、私達が神様の御心を知り、神様の願われる愛の奉仕に共に生きることです。神様は私たちに愛に生きること、あるいは愛の奉仕に生きることを願っておられます。愛の奉仕に生きるためには、まず何よりも神様の御心を知ってお仕えすることが大事だと思います。

みなさん、私はずっと考え祈り求めていることがあります。教会が神様の御心を知り、神様の御心に喜んでお仕えするにはどうしたらいいのだろうと・・。「御心を知る」といいましたがもっと正確には「御心を知らされ」るにはどうすればいいのかということです。

個人的に神様が導かれる経験について私は自分の経験を多く語ることができます。天使があらわれてとかイエス様の声が聞こえてとか、預言が与えられてなどという経験はありませんが、主の御心と信じて個人的に行動したり、決心することはありますし、その霊的な感覚を自分の中では大事にしています。

しかし、宇治バプテスト教会というイエス様のひとつのからだとして、イエス様の御心を知らされ、一致して信じていくことはどうしたら可能なのか、なかなか難しさを覚えます。一人のクリスチャンとして自分の個人的な意見や考えを語ることはできます。また教会の全体的な指導を委ねられている牧師としての意見や考えを語ることもできます。しかしながら、牧師の意見や考えがそのまますべて「神の御心である」と私は考えていません。牧師の意見は神の御心と受けとめてくださる信徒さんがいらっしゃることも理解していますが、肝心の牧師がそう思っていませんので、了承していただきたく思います。

では、信徒さんのいろんな意見を聞いて最終的に多数決で決めれば、その決定が神様の御心であると言い切れるかといえばそれも疑問です。十分祈っていないにもかかわらず多数決で決めるというのは、神様の御心を多数決で否決してしまうことにもなりかねないからです。カリスマ的でなくワンマンでなくそれでいて単なる多数決ではなく、どうしたら私達は「教会のかしらであるイエス様の御心」を知らされることができるのでしょう。導かれていることをお分かちしたいと思います。

第1に、神様から私が教えられたことは、神様のみこころは牧師だけに示されるのではなく、牧師と役員を含めた、教会を愛するすべての信徒に示されるということです。イエス様のからだそのものであるすべての信徒を通して神様は御心を示されると私は信じています。教会に属するすべての信徒が教会を導こうとされる神様のみこころを知らされたり、感じることができると信じています。それは信仰年数にあまり関係がないようです。ただ祈りとは関係があるようです。無関心な人は祈りません。聖書においては無関心は愛の反対語です。ですから愛がない人には祈りがともないません。重荷と関心がある人は祈ります。ですからご聖霊も豊かに働かれ、神様の御心を知らせてくださるのだと思います。

第2に、すべての信徒さんに神様は御心をお知らせになることがおできになるとすれば、からだの一部が神様から知らされていること、感じていること、導かれていること、語りかけておられると思うことを、からだ全体に伝えることが大事になってきます。積極的に証しすること、みんなと分かち合うことが大切になってきます。導かれたことを語らないのは罪といえば言いすぎでしょうか。神様がその人を通して御心を語りかけようとされておられるのに、聞き逃してしまうことはたいへん残念なことだと思います。

証しをする場合、自分はこう思うとか、こうすることが正しいとか得だとか、こうすべきだとか、この世的な判断に基づいた自分の考えを語るのではなく、神様から教えられたこと、導かれたこと、示されたこと、神様がこう願っておられるのではと思うこと、感じることをみことばとともに「証し」していただくことが大事です。つまり、意見と証しとをちゃんと区別しなければなりません。

意見は語れば語るほど多種多様となります。多様な意見をまとめることは難しいことですし、まとめようとすればかえってまとまりのないものになってしまいそうです。また、意見は時には対立を生んでしまいます。強い意見の前に何も言えなくなってしまい沈黙を強いられてしまうことがあります。考えをまとめることが苦手な人は考えている間にもう議題が次に進んでしまうこともあります。しかし、証しは神様のみこえや御心を聴いた方のことばに耳を傾けることへとからだ全体を導きます。証しを聴くことによって、唯一つの御心をもっておられる神様に私達が共に近づくことが可能となります。

だれが言い出したというわけではありませんが最近、役員会や自由に話し合う交わりの中で、もっと「証し」をしようという提案が広がってきています。意見ではなく証しを聴きたいとの願いが強くなっています。意見か証しかはクリスチャンならば判断できます。その証しが神様からのものかあるいは個人のものか、さらにはサタンからのものか、聖霊の宮とされているイエス様のからだなる教会は健全に判断することができると信じます。

意見は語れば語るほど多種多様となります。多様な意見をまとめることは難しいことですし、まとめようとすればかえってまとまりのないものになってしまいかねます。また、意見は時には対立を生んでしまいます。強い意見の前に何も言えなくなってしまい沈黙を強いられてしまうことがあります。考えをまとめることが苦手な人は考えている間にもう議題が次に進んでしまうこともあります。しかし、証しは神様のみこえや御心を聴いた方のことばに私達が耳を傾けることによって、唯一つの御心をもっておられる神様に私達が共に近づく道だと思います。

もちろん、神様はある人に御心のすべてを明らかに示されるわけではありません。旧約の預言者たちは決してすべてを啓示されていたわけではありません。彼らは必要なことのみを啓示されました。神様はからだのメンバーを通して、徐々に必要なことを示され導かれます。それは「まだ目に見えないことを信じ従う」という信仰の力を神様が養われるためです。ですから、神様から導かれたこと、示されたことを、イエス様のからだである他のメンバーに証しをして聴いていただくことに積極的でありたいと思います。そうすることで神様の御心の全容をやがてともに知ってゆくためです。それは出すぎたことでもあつかましいことでもありません。むしろ霊的には大切なことです。そして、証しを聴いたメンバーは決してその証しに対して自分の意見を言ってはなりません。反論してはなりません。心に留めて自分も祈り、神様の御心かどうかを待ち望む必要があります。そのようにして、待ち望んで示されたことを再びからだである教会員に対して証しをします。こうしてからだである教会ぜんたいに神様の御心が明らかに示されてゆくのではないでしょうか。

では求道中の方や他の教会の方はどうでしょう。その方々も私達の教会に今、導かれて集っておられることそれ自体に神様の御心があると私は信じています。決して彼らは、第三者や傍観者ではないと思います。神様の御心があるから多くの教会がある中でここに導かれたのです。なくてはならない「からだの一枝」と神様はごらんになり、将来の働きを期待され、ご計画のうちに宇治教会に招かれておられるのです。ですから、彼らの証しをも貴重な証として耳を傾けることが大事だと思います。

証しをすること、分かち合うこと、良く聴くこと、そして祈ること。このことはキリストのもとで互いに愛しあうことが命じられている教会にとって、主の御心になかった具体的な交わりの姿であると思います。そこで、いつどのようにすべての信徒が自由な雰囲気で証しを語り、証しを互いに聞くことができる「分かち合い」の場を持つことができるか、主の導きを待ち望みたいと切に願っています。

主は十字架で神の愛を明らかにしてくださいました。そして教会が十字架の愛に生きることを神様は喜びとされています。教会の交わりは愛の交わりであり、愛の交わりは神様の御心を知ってともに仕えてゆく中でさらに豊に育まれてゆきます。キリストの十字架の愛に感謝し、十字架の愛に生かされてゆきましょう。

                                祈り

主イエス様、あなたの十字架の愛をいつも覚え、「初めの愛」を忘れないで生きる者と導いてください。あなたから愛された喜びと感謝をもって、私たちも教会の交わりを愛することをお導きください。


    
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