11 使徒信条 題 「黄泉にくだられたイエス」 2004/8/29
・・地も地の下も、主の宣教地・・
聖書箇所 1ペテロ3:18−22
「その霊によってキリストは捕らわれの霊たちの所に行って
みことばを宣べられたのです」
(1ペテロ3:19)
使徒信条は十字架で死なれたキリストは墓に葬られ3日後に復活されるまでに「陰府」(よみ)にまで降りてゆかれたと告白しています。「陰府に下って」ということばは、使徒信条独自の告白であり、ロマ信条にもニカヤ信条にもありません。ですから私達が「黄泉に下って」と使徒信条を告白する場合には特別にその意味を噛みしめながら、世々の聖徒たちとともに告白したいと思います。
聖書が「陰府」という場合、必ずしも「地獄」を指してはいません。地獄は明らかに神から完全に見捨てられ祝福を失い永遠の審判が執行される場です。そこにはもはやなんの希望も救いもありません。一方、黄泉はすべての死者がゆく世界とされています。神を信じた人々も不信仰な人々も偶像礼拝者もすべての死者が行く死者の住む闇の世界と考えられていました。ではなぜキリストは「陰府の世界にまで」下って行かれたのでしょうか。鍵となる御ことば[1]があります。
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」(1ペテロ3:18−21)
「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした」(1ペテロ4:6)
文字どおりに読めば、キリストはとらわれた霊のもとにいって御言葉を宣べ伝え、神のもとに導こうとされました。彼らはノアの洪水の時に不従順のために滅ぼされた人々のことであったとされています。
獄中にいる「捕らわれている霊ども」とありますから、「彼らは救いを受けていない人々」であるとわかります。その理由は、「箱舟に逃げ込むだけで洪水の裁きから救われる」という唯一の救いの道が、目に見える形ではっきりノアによって語られていたにもかかわらず、「信じようとしない、従おうとしない」不信仰不従順のゆえに滅んだからでした。しかしこのような解釈に立てば、陰府でキリストがみことばを語られたのは、ノアの時代に不従順であった死者だけに限定されてしまいます。
竹森満佐一先生は、神様に不従順であったのは彼らだけではなかった。彼らは「キリストの福音を聞かなかった人々の代表[2]」という意味ではないかと解釈されています。交通手段も通信手段もない時代にノアが世界中の人々に神の裁きと救いを語りつくせたわけではありません。ノアのことばを聴かなかった多くの人々もこのとき突然おそった天変地異ともいえる大洪水で滅んでしまいました。ノアのメッセージを聞きながら不信仰にもノアをあざ笑って滅んだ者とノアの話を聴く機会すら与えられないで死んだ人々との間に区別がなければ、「不公平」じゃないか「愛に反する」ではないかという素朴な疑問が生じてきます。そこで、キリストは神の救いのことば、キリストの福音を聴く機会がなかったすべての死者のもとを訪ね、みことばを語られたのではと考える解釈も可能となってきます。
このことは、私達と教会が福音を十分、お伝えできなかった人々の救いを考えるときの一つの慰めや希望になると思います。少なくとも、「聴いて信じる機会がなかった人まで神様は地獄に落とすのか、そんな冷たい非常な神なのか」という人々のとまどいや疑問が解消されると思います。
しかし、ここではっきり確認しなければならない重要なことがあります。
1 イエス様がよみにまでくだり、御言葉を語られたのは、この地上で福音を聞くことができなかったすべての人のためであったとしても、福音を聞いていながら不従順のために拒んだ人のためではありません。つまりセカンドチャンスの教えではありません。「地上では精一杯この世の快楽を楽しみ、あの世で救いを楽しもう」と考えるあつかましい求道者がいるならば、失望することになります。彼らが黄泉で聞くみことばは「救いのみことば」ではなく、「裁きのみことば」であることを覚えなければなりません。人は一度死ぬことと死んだ後、裁きを受けることが定められており、人生の総決算書を神に差し出すときが必ず来ます。
キリストの救いを聞いて信じたか信じなかったか、まさにその1点に救いの焦点があてられます。りっぱな人であったか、神のために偉大なことをしたか、何人を救いに導いたかに焦点があてられるのではありません。あなたの中に十字架を信じる信仰があるやいなや、心の十字架を神はごらんになるのです。
2 イエス様が黄泉に行かれ福音を語られたからといって聴いた死者の霊がみな自動的に救われるわけではありません。頑固で不従順な者は黄泉に下ってもやはり頑固で不従順です。黄泉は天国と違い罪の性質が清められている世界ではありません。ですから聞いても拒むものは拒むのです。事実、イエス様が3年間、直接伝道をなさったときでも、神の民と呼ばれたイスラエルが、あれほど頑なにキリストを拒んだことは何よりの証明です。最も偉大な伝道者、説教者のメッセージを聞いても彼らは拒んだのです。人間の地上での不従順は地下の黄泉の世界でも変わらない可能性が高いと考えられます
3 しかも、イエス様が陰府にいる死者に対して十字架とは異なる福音、異なる救いの道をご用意されることは考えられません。もしそうであれば「二重の救いの道」が用意されることになり、神様の真実な御性質に反することになってしまうからです。イエスキリストの救い、福音は永遠にただ一つであり、十字架の救いは完成された永遠の贖いであり、生きた者にも死んだ者にも唯一の慰めに満ちた良きおとずれの知らせなのです。
ノアの大洪水の時、箱舟に入った8人の家族だけが救われました。ペテロはノアの洪水からの救いを水のバプテスマと結びつけています。洗礼、バプテスマは信仰の告白のしるしであり、キリストによる救いの象徴でもあります。私達がこの地上の生活において聖霊に導かれ罪を告白しイエスキリストを救い主と告白し、水のバプテスマを受けることは決して小さな出来事ではありません。それはノアの救いに匹敵する大きな出来事です。ノアと家族と動物たちに新しい地と新しい生活が約束されたように、イエスキリストの名によるバプテスマを受けた者たちには新しい生活が用意され、神様との親密で深い愛の交わりが贈り物として与えらます。神様の恵みの招きを退けないで、今日、御声を聞いたならば信じて救いを受けて頂きたいと願います。
さて、黄泉でイエス様がどのように救いを語り、どのように神のもとに導かれるのかに関しては、ここまでにして、後は神の愛におゆだねしたいと思います。もっと大切なことは、黄泉にまで降りて、死者に福音を語り、彼らを救いに導こうと願われたイエス様の「宣教」に目を留めることではないでしょうか。黄泉の深みにまで降りてゆかれるイエス様の「愛」と「宣教」に目をとめたいと思います。
陰府に行って神のことばをイエス様が語られたというならば、地上においても陰府においてさえも、イエス様の救いのことばが語られていないところはもはや存在しないという恵みの事実が明らかになってきます。福音が及ばない世界はこの地上にも黄泉にさえも、もうどこにもないことを意味しています。
イエス様の十字架の救いは、全人類のためであり、イエスキリストを信じるすべての人々のためのものです。福音の恵みはイエス様の時代にイエス様を信じて生きた人のためばかりではありません。イエス様以後の時代に、教会が宣教する福音を聞いて信じた人々のためばかりでもありません。イエス様が陰府にまで行かれ福音を語られたのは、イエス様が生まれる以前にイエス様を知らないで死んだ多くの人々の救いのためでもあったのです。十字架の福音が彼らにも及ぶためでした。イエスキリストの十字架の救いは時間の壁を越えた完全な救いであることを使徒信条ははっきりと告白しているといえます。
カルバンはイエス様が黄泉にくだられたことを、イエス様の十字架の苦難の徹底化と理解しました。イエス様は黄泉という極限の絶望にまで身を低くされたと主張しました。一方、ルタ−はイエス様が黄泉に下られたのはすべての死者に福音の勝利を宣言するためであったと理解しました。私は個人的にはルターの解釈に共感を覚えます。
イエス様は地上での宣教に関する権限をお弟子たちに委ねました。ペンテコステの日に、聖霊を上より注ぎ、彼らを愛と力で満たし、全世界へ出て行って福音を述べ伝えるように導かれました。この地上のすべての地域を宣教の地として教会に与えました。ペンテコステ以後、全世界は教会の宣教地となりました。そしてご自身は人間がおよばぬ世界、すなわち死者たちの世界においてご自身の主権的行為として福音を宣教されていると理解することができます。そこはイエス様だけにゆだねられた宣教地であり、イエス様だけがなしうる宣教の御業です。こうして天においても地においても地の下においても、キリストの栄光が崇められ、救いの喜びが満ちることになるのです。
「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、
その主となるために、死んで、また生きられたのです」(ロ−マ14:9)
旧約の聖徒たちが願い求めたことでもありました。詩篇 139: 8「 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」
私達、地上の生活を営むクリスチャンは地上におけるすべての宣教を託されました。ですからすべての人々が福音を聞く機会を惜しみなく提供するために教会は宣教のみわざに務めなければなりません。もちろん、私達が弱さのためにあるいは愛のなさのゆえに福音を伝えきれない人々がいたとしても、イエス様はその方の死の後にも福音を聞かせてくださることがおできになります。私達の祈りの足りないところ愛の足りないところ力の及ばないところをイエス様は覆ってくださることでしょう。しかしだからといって、私たちと教会が福音を宣教することを怠る理由には決してなりません。ペンテコステ以後、地上の全世界は教会の宣教地となったのです。このことを忘れては主にお仕えすることができません。
地上の各教会はそれぞれの地域に住む人々にイエス様の福音を届けるために神様によって置かれました。教会はキリストの愛に根ざし、その地域に根ざし、その地域に住む人々の霊的な必要に根ざしながら福音を語り続ける神の国の宣教基地、神の国の放送局のような存在と見なされています。教会は人格的な交流やあたたかみが大切にされる宣教のための「家」「ホ-ムグラウンド」といっても良いかと思います。福音を聴いた人々が、子供から老人まで福音をさらによく理解できるように教え、導き、福音を聞いた人々がイエス様を信じて受け入れるように愛をもって執り成し祈ります。これらはすべて宣教の働きに属することです。
ウィリアムブースは神学校を卒業する士官たちに「あなたたちを地獄に連れて行きたい。そうすればきっとあなたたちは死ぬ物狂いで愛する人のために祈り福音を語るだろう」といいました。アッシジのフランチェスカは村の人々ばかりでなく、森に住む小鳥たちにさえ福音を語ったといわれています。
イエス様の福音をどのようにすればイエス様の御心にかなって、すべての人々に知らせることができるでしょうか。そのために私達には何ができるでしょうか。そして何よりも、この宇治の地に置かれた教会に属している私達に、イエス様は何を願っておられるでしょうか。黄泉にまで下られ福音を語られた宣教の主」であるイエス様にお聞きしてゆきましょう。宣教の熱い志を与えていただきましょう。
祈り
十字架の主イエス様、あなたが陰府にまでくだり福音を宣教されたとするならば、私たちはこの地上において福音の宣教を怠るわけにはまいりません。地上の全地が教会の宣教地をされていることを聖霊の愛で満たして見つめさせてください。
地上におかれた教会が、宣教の働きをまっとうできますように、祈りを分かち合い協力する知恵を豊かに導いてください。
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