13 使徒信条  題 「神の右に着座されたキリスト」  2004/9/26

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、
今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に
高く置かれました」(エペソ
120-21

今日は「全能の父なる神の右に座したまえり」という使徒信条の告白に焦点を当てて学びたいと思います。古代社会では王の右の座は、王の持つ全権が委ねられる後継者がすわる特別の座席として空席にされていたそうです。聖書においては、父なる神の右の座は、父から最高の権威を委ねられた者だけが座ることができる特別な座を意味しています。ユダヤでは神殿は太陽が昇る東側を向いて建設され、神殿の右手にあたる南側に、地上において神の御心を行う権威をゆだねられた王の住まいである宮殿が建てられました。ヘブル語では右と南は同じことばだそうですが、神の右の座ということばが神殿や王宮の建設にも深く影響を与えていることを知って私は驚きました。

1 キリストは全世界の永遠の王となられた

聖書は、よみがえられたイエス様こそが神の右の座に着座されるのにふさわしいお方であると証言しています。「神は・・キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、・・すべての名の上に高く置かれました。」

「座につかせ」という言葉は現在形で記されており、もう終わってしまった過去のできごとではなく、現在の事実として語られています。キリストは復活され今もなお御座に着座されていますから、その権威と力は揺らぐことがありません。イエス様は永遠の王、すべての名に勝る主の主、全世界を導かれる唯一の支配者として今も変らず御坐についておられます。地上の王と呼ばれる人々は、長寿を全うして引退したり、政治的に失脚したり追放されたり、時には暗殺されたり、処刑されたりして、時代と共に過ぎ去ってゆきます。しかしイエスキリストは永遠の王として今このときも、万物を御支配しておられるのです。

イエス様はすべての名にまさる名をお受けになりました。ですからイエス様の権威と力は、サタンとその悪しき働きを打ち破ってあまりあることをしっかり信じなければなりません。人生は何が起きるかわかりません。「どうしてこんなことが起きてしまうの? 神様は一体どこにいらっしゃるの」と思うような悲惨な出来事が少なからず起きてきます。神様が悪や災いをもたらすことは決してありません。すべての悪と災いと誘惑はサタンによって持ち込まれてきます。しかもサタンは巧妙にささやいてきます、「お前は不信仰だから神様から見捨てられ見放されたんだ」と。試練や困難の大きさそのものでつまづくクリスチャンは多くはないと思います。しかし「お前は見捨てられているのだ」とささやくサタンの攻撃になぎ倒されてしまうクリスチャンの数は決して少なくありません。またサタンの巧妙なささやきは「どうしてですか?なぜですか?」とすぐに原因や理由探しをしようとする傾向の強いクリスチャンに一番大きな影響を与えてしまうようです。この世は不条理です。人間の世界にはわからないことが多く横たわっています。数千年、世の賢人たちが考えても答えが見つからない人生のなぞも多くあります。「原因を知って早く取り除こう」とする誘惑にからみとられてしまうと袋小路に陥ってしまい、サタンに隙を与えることになります。

わからないことを無理にわかろうとする必要はありません。人生のすべてをキリストは御支配しておられ、天の御座からすべてを展望されたうえで最善へと導いてくださるからです。「わからないことは神様の恵みの御支配におゆだねをし、今私にできることを神様から教えていただこう、力を頂こう」と信仰の筋力を養い鍛えることを神様は喜ばれると思います。

ヨブは、答えが見つからない大きな試みの中でも、やがて神様の御心を知らされる時がやってくると信じました。ヨブは「なぜ、どうしてですか」と神様に問うことをしませんでした。むしろ「主は与え、主は取りたもう、主の名はほむべきかな」と、神の御支配を堅く信じました。委ねる者の心を神は平安で満たされるのです。

ステパノも怒り狂った群衆に石で撃ち殺されようとした時、「ああ、天が開け人の子が神の右の座に立っておられるのがみえた」(使徒7:59)と言いました。群衆の暴力の前に無残にいのちを奪われてゆくステパノですが、彼は神様から見捨てられたのではありません。キリストにあって地上の生涯をまっとうしたのです。ですから、イエス様は天にやって来る殉教者ステパノをあたかも凱旋将軍を王が盛大に出迎えるように、立ち上がって迎えいれてくださる幻をしっかりとステパノにお見せになられたのでした。

父なる神様は、このキリストをかしらとして教会に与えてくださったと聖書は教えています。教会のかしらであるキリストはすべてを足元に踏みしめ、一切のものの上に立っておられます。そうであれば、イエス様がかしらである教会にできないことは何もないのです。どんな困難も試練も課題も克服することができるはずです。それがキリストの教会のすがたです。もし私達が神の右の座はいまだに空席であるかのようにふるまっているならば、神はお喜びになりません。この世の人々は、教会の中にキリストの恵みに満ちた御支配を見ることを願っています。信徒の中にその証しを聞くことを願っているといえます。

2 キリストは神の民の永遠の大祭司となられた

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ロマ8:34)

聖書は、キリストは永遠の王としてばかりでなく永遠の大祭司として神の右の座にすわり、とりなしの祈をもって、神の民を導かれておられるとも教えています。

そうです、キリストが神の民の一員であるあなたのために天において祈ってくださっています。あなたが地上で神に祈る前に、キリストがあなたのために天で祈って下さっています。私達はクリスチャンになって初めて祈ることを学びましたが、わたしたちがすでにキリストによって祈られていることも学ばなくてはなりません。

天は地上よりもすべてがよく見えますから、広い視野に立ち、また将来が展望できる処から、イエス様はわたしたちのため、そして教会のため祈ってくださっています。私達の祈りにイエス様がアーメンといってくださるのではなく、イエス様の祈にわたしたちが、アーメンといってお仕えしてゆくことが本来の祈りのあり方ではないかと思います。祈られている、守られている、導かれているこのことを覚える時、私達は決して孤独ではありません。むしろ力を受け、勇気づけられます。私達が気づかない多くのところで、イエス様の祈りに支えられ守られ、地上の生活を営んでいることを覚えるならば、感謝があふれてくることでしょう。

3 キリストはクリスチャンの霊を天に引き上げてくださいました

「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:5−6)

ここには驚くべき真理が語られています。イエス様は私達を天の所に座らせてくださいました。わたしたちもイエス様とともにすでに天に引き上げられたのです。

しばしば、神様が天から地上に降りてこられるという上から下への発想が私達の理解の主流的考えとなっています。クリスマスもペンテコステもみな、上から下にという発想に基づいています。しかし、キリストの復活によって、地にあるものが天に引き上げられ神との交わりに預かるという新しい視点がもたらされました。

先日、40年近くも精神障害で通院している方とお話しました。

「ずいぶん長い年月、よく今日まで忍耐してこられましたね。どんなふうにして今日まで歩んでこられたのですか」とお聞きすると、「ありのままの自分を受け入れることかな。それから20年前に信仰に入ったことも大きかった」とおっしゃいました。イエス様を信じてクリスチャンになり、ご家族も信仰に導かれ礼拝に通っておられます。この方は「すばらしい教会なんですよ。牧師さんもほんとうにすばらしいし、長老さんや執事さんもほんとうにいい人なんです。」と自分の教会を心から愛しておられました。

「信仰があっても厳しい状況は変わらないし、どんなふうにして心を保って自分を受け入れることができたんですか」と知らない振りして聞くと、ヨハネ16:27を暗誦して、「イエス様の平安で満たされるから、イエス様がすばらしいんですよ」と私に明るく証しされます。まさかここでイエス様の証を聴かされるとは思いもしませんでしたから感動的でした。

今の願いは聖霊に満たされることですと言われますから、私は「もし聖霊で満たされたらどうしたいのですか」とお聞きしました。すると「奉仕がしたい。すぐに体が疲れてしまうので奉仕ができない。友人たちは「聖霊に満たされたなどんなことでも何でもできるのよ」と言うので、私も聖霊に満たされたらきっと疲れないで奉仕ができるから」と言われました。私の心は熱い思いに満たされました。

精神障害で40年も苦しんでいるのに、キリストの平安を頂き、教会を愛し、牧師を愛し、神の家族である教会員を愛し、聖霊に満たされてもっと「奉仕がしたい」、それが希望であり夢ですと言われるのです。この方もイエス様を信じ、地上にいながらその霊はすでに天に引き上げられているお一人ではないでしょうか。

この地上で生活を送っている私たちですが、聖霊は私達の霊をしばしば天にひきあげてくださり、神の臨在に招いてくださいます。聖書は私達がバプテスマを受けたとき、聖餐式において神の家族とともに食卓を囲む時、涙ながらに罪を告白し悔い改める時、個人的な密室の祈を通して神様との豊かな交わり持ち、神の愛にふれたような時、聖霊は天にあるキリストのもとに私達をひきあげ、神の御座に着いておられるイエス様の栄光を仰がせてくださいます。

ですから聖書は私達に、天にあるもの、上にあるものを追い求めなさいと語り続けます。この世に埋没してしまいがちな私たちですが、霊において天に引き上げられている恵みを思い起こし、天にあるものを追い求めるお互いでありたいと願います。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:1−2)

                     祈り

天の父なる神様、私たちの目を開いてくださり、あなたの右の座に着座され、主権をもって全てを導き、執り成しておられる御子イエス様を仰ぐ者としてください。現実の試練の中で、直面する問題の只中で、イエス様の主権を信じぬく力を与えてください。地にあって地に埋没してしまう者ではなく、地にあっても天にあるものを追い求める者、天に座して神様の恵みのみわざを喜ぶ者と導いてください。


    
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