11 使徒信条  題 「イ−スタ−の福音」  2004/9/5

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、
今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に
高く置かれました」(エペソ
120-21


使徒信条は、「十字架につけられ死にて葬られ黄泉に降られた」キリストが「3日目に死者の中から甦り、天にのぼり、全能の父なる神の右にざしたまえり」と告白します。ポンテオピラトの下で苦しみを受け十字架で殺された苦難のキリストは、復活の出来事を通して、一転して力に満ちた栄光と勝利のキリストとして告白されています。私達クリスチャンが日曜日を「主の日」と呼び、ユダヤ教の礼拝日であった土曜日から日曜日に礼拝日を移したのも、イエス様が3日目の日曜日の朝に死の力を破って復活されたことを記念するためでした。このようにキリストの復活の出来事はユダヤ教とキリスト教を分離させる決定的な出来事となりました。

キリスト教会には「喜びの知らせ」(GoodNews)と呼ばれる3つの中心的メッセージがあります。クリスマスの福音、十字架の福音、そしてイースターの福音です。キリスト教会は、この3つの福音を1つにして「イエスキリストの福音」あるいは「御国の福音」と呼び、過去2000年間、世界中の人々に語り続けてきたのです。

「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」(1コリ15:2−4)

1 復活の事実

新約聖書は、分量的には「十字架の福音」に最も多くのページを割いていますから、十字架の福音が中心といえます。しかし、もし復活がなければすべての信仰は空しくなると強調しています。復活の信仰が揺らげばクリスマスも十字架を信じる信仰も揺らいでしまいます。

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(1コリ15:14)

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(1コリ15:17)

使徒信条において「3日目に甦り」と、日つけがはっきり挿入されているのは、キリストの復活が作り話や架空の話ではなく、信ずべき「歴史的事実」であることが認められていたからです。教会が「キリストの復活」という常識では信じられないような教えを後の時代に作りあげたのではなく、キリストの復活という信じがたい事実から教会が誕生したのです。イエス様の遺骨がもしエルサレムの郊外のどこかで土となって埋もれたままであったなら、私達の信仰は空しいものとなり、ペテロもヨハネもパウロもみんな世界一の大嘘つきになってしまいます。復活は史上最大の大嘘か、史上最大の絶対真理かどちらかなのです。復活の真理は信じるか信じないか二つに一つの応答を求めてきます。聞いた者に信仰を求めてきます。

「私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。あなたはこのことを信じますか」(ヨハネ11:25−26)

古い時代の伝統や習慣を保持していると言われるロシア正教ではイースターの祭りには、「キリストはよみがえられた。ほんとうによみがえられた」と今日でも挨拶を交わすそうです。「ほんとうに」よみがえられた! 短くても確信と喜びをもって証しされるこのひと言が、最も力強い神の御心にかなった告白といえるのではないでしょうか。

2 復活の福音を信じる目的

さて、私は今日ここでみなさんとご一緒に考えたいことがあります。私達がキリストの復活を信じる「目的」はどこにあるのでしょう。「え、だって聖書は、私達がキリストの復活を信じるならば、永遠のいのちと朽ちることのない栄光のからだが与えられ、もはや悲しみも痛みも存在しない永遠の神の国に生きる国籍が与えられると約束しているじゃないでしょうか」と思う方も多くおられることでしょう。

「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
(ヨハネ316

そうです、その通りです。しかしながら、これらは信じた結果もたらされる恵みといえます。これらの恵みは神様からのすばらしい贈り物であり、信仰によってもたらされたすばらしい「結果」あるいは「報い」です。でも、神様が、御子の十字架と復活を信じる者の罪を赦して、永遠のいのちと朽ちないからだを与えて下さる究極の「目的」は何でしょうか。すばらしいものを頂いてもその目的がわからなければ宝のもちぐされになりかねません。永遠の御国に入ること、永遠の命を持つこと、永遠のからだを与えられることは、心わくわくするすばらしいことですがそのものが私達の究極の目的ではありません。それらは目的を満たす「手段」にすぎないからです。

究極の目的は、この地上に生きている時も、この地上から神の国に移されたときも、もう2度と罪によって分断されたり、死によって切断されることのない、「神様との親密で深い愛の関係の中に生き続け、神を喜び、神に喜ばれる」ことにあります。神様との親密で愛に満ちた交わりを永遠に持ち続けることができるための手段として、永遠のいのちと朽ちないからだが信じる者に与えられるのです。神様が私達すべての人間に与えようと願われたことは、「神様との親密で深い、永遠の愛の交わり」でした。これが福音による救いの目的です。同時に神様が人間を創造された目的でもあったのです。私はこのことに目が開かれたとき、永遠のいのちが与えられていることの喜びが今まで以上にあふれてきました。

神様の御本質は愛ですから、神様は愛の交わりを心から喜ばれます。そしてすでに神様は「父・御子・御霊の交わり」の中に満ち満ちて生きておられますが、その完全な愛の交わりの中に、私たちを招きいれようとご計画してくださったのです。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」
(1ヨハネ13

神様の目には1日も千年のようであり、千年も1日のように過ぎ去ります。死を知らない神様には時間の感覚はありません、永遠に生きていられるからです。したがって何よりも神様の目には地上の生活も死後の生活も区別はありません。神様の目には両方あわせて一つの「私の人生」と映っておられるからです。神様は初めから永遠に通じている1つの人生をご用意してくださいました。

私達だけが勝手に、地上の生活と死後の世界を分けて、死後の世界があるのかないのか議論し、勝手に死後の世界を否定し、死後の世界などはないのだから今を面白おかしく生きたらいいじゃないかなどと快楽的な生き方を主張したりします。神様の目からみたら何も知らないくせに何をごちゃごちゃいってるのか、地上の生活よりははるかに長い永遠の生活のための備えを怠るなとご覧になっておられることでしょう。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます」
(2コリ4:29−5:2)

聖書は見えないもの、永遠につながるものに目をとめることを教えています。地上のからだは壊れやすい幕屋(テント)に過ぎませんが、将来天において与えられるからだは永遠の家と呼ばれています。地に属するものと天に属するものとが美しい対比として語られています。地上のからだを地上の人生と置き換えて読むこともできると思います。聖書は目に見える地上のことばかりでなく、目に見えない天に属する永遠のものに目をとめ、その価値を思い計ることを教えています。

地上の生活は永遠の生活の準備なのです。リック・ウォーレン博士は、「あなたが母親の胎内で過ごした9ヶ月がこの地上における人生の準備期間であったように、この地上における人生は次の人生に向けた準備期間ということができます」と語っています。

復活の福音を信じる目的は私たちが神様との親密で愛に満ちた交わりを持つためです。この交わりは地上の人生をはるかに超え永遠にまでつながっています。地上の生活は「一期一会」と呼ばれるように、出会いと別れの繰り返しですが、神様との交わりには別れはなく永遠の交わりが続きます。イエスキリストの復活は永遠のいのちの世界にまでいたる神との愛の交わりの扉を開いたのです。

クリスチャン新聞6月20日号に早期老化症(プロジェリア)という難病の娘をもった母親の証が記載されていました。フジテレビで放送され大きな反響を呼んだそうです。プロジェリアは普通の人の1年が8−20年になるほどの速さで体が老化してしまう、遺伝子異常に起因する病気で、80万人に一人の割合で発生しているそうです。母親のロリーさんは15歳の頃から非行に走り自堕落な生活を繰り返し何度も警察に補導され、17歳で妊娠して出産しました。娘のアシュリーが早期老化症とわかったときシングルマザ−である彼女は養育を放棄し、ますますドラッグとアルコール漬けの生活におぼれてゆきました。罪悪感に苦しみ自分が人生のどん底にいることを認め、ついに神様に罪を告白して悔い改めて「神様、助けてください」と祈ったそうです。聖書を読み、教会に通い、遊び仲間やドラッグの誘惑も断ち切り、娘のアシュリーとともに洗礼を受けてクリスチャンになりました。母親のロリーさんの心に大きな変化が生まれました。娘を心からいとおしみ「人に与えられた時間には限りがある。アシュリーは残された時間を信じられないほどポジティブに楽しく生きています。人にとって時間がどれほど大切か彼女の存在自体が語っています。」と証しをしています。「アシュリーは神によって永遠のいのちを与えられました。私もアシュリーも天国に永遠の家をもったのです。肉体は日に日に衰えているけれど、彼女も神の世界ではずっと生き続ける」のですと親子の交わりをキリストにあって心から喜ぶものとかえられました。

写真に写るアシュリーはもう母親よりふけてしまっています。キリストの復活を信じる信仰がこの母と娘の地上の愛の交わりを深め、さらに地上の生活を越えた世界での、神にある永遠の交わりを約束し希望を与えているのです。

詩149:4「主は御自分の民を喜び/貧しい人を救いの輝きで装われる」(共同訳)

私達は神の喜びのために造られました。それゆえ私達も神を喜びとし神を愛することができるのです。神との永遠の交わり、親密で深い愛の交わりに私達は招かれました。イエスキリストの復活の福音が、その永遠の交わりの扉を開いたのです。

                            祈り

私たちを神との親密な愛の交わりに導いてくださり、私たちを喜びとしてくださっていることを感謝します。
地上の過ぎ行くことばかりでなく、天にある永遠に変わらぬものに目をとめさせてください。



    
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