19 使徒信条  題 「聖餐を囲んだ聖なる交わり」  2004/11/7

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)


今日は聖餐式ですが、改めて「聖徒の交わり」と呼ばれている公同の教会における聖餐の意味と位置付けを学びましょう。

1 イエス様によって直接定められた聖餐。

マルコ14:22「それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」イエス様がお弟子たちとともにユダヤ教の3大祭りの一つである「過ぎ越しの祭り」の食事をしている中で、パンを裂いて弟子たちに渡し、パン裂きと呼ばれた「聖餐」を守るように教えました。ペンテコステの日に聖霊が注がれて3000人のユダヤ人がイエスをキリストと信じ、聖徒の交わりであるエルサレム教会が誕生した時、彼らはともに集い「パン裂き」を守りました。

使徒2:42 「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」2:46「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」

パウロは異邦人の教会であるコリント教会に宛てて聖餐の持ち方を指導し、主のことばを引用しました。

1コリ11: 24 「感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

世々の教会は主の言葉に従い聖餐を守り続けてきました。説教はときには政治的にゆがめられたり時代の影響を受けて間違った方向に流される危険性がないとは言い切れません。あるいは説教者の個性や神学的な偏りの影響を受けることもあります。しかし聖餐は目に見える「神の恵みのみことば」として客観性を保ち、礼拝において「キリストの十字架と復活の救い」を指し示すことができるのです。さらに、会衆がともに一つとなって聖餐式に預かることによって「キリストにあって一つの教会・一つの家族」という共同体性を感動をもって経験することができるのです。外国の教会の礼拝に出席すれば言葉がわからず説教の意味もわからない、賛美歌の歌詞もわからないことがあり淋しい思いがしますが聖餐式を通して一体感や家族意識を分かち合うことができます。

聖餐式は過去2000年間に渡って綿々と受け継がれてきたキリスト教会の偉大な遺産であり、祝福に満ちたサクラメント聖礼典とされています。礼典とは神の恵みを伝える特別なしるしであり、信徒は礼典に預かることによってキリストと深く結ばれると考えられ礼拝のクライマックスとして重要視されました。

ですから、中世の教会において、教会から聖餐の停止を告げられることは、破門の宣告や教会の籍を抹消されることについで重い処罰とされました。聖餐をこのように処罰の手段として用いることには問題を感じますが、礼典としての聖餐を安易に軽く扱う態度は決して赦されるものではないと思います。礼拝の中心には「目に見える福音」である聖餐と、「耳で聞く福音」である説教の二つがしっかりと位置づけられていました。私達が主の聖餐と尊び、聖餐を真剣に考えて受けとめてゆくならば、信仰の姿勢や教会形成についても新しい発見をし、建てあげてゆく機会となることでしょう。

2 天国の食卓を囲む神の家族の交わりとしての聖餐

世界教会協議会の研究文書では聖餐には、「感謝・キリストの記念・聖霊を待ち望む祈り・信徒の交わり・神の国の食事としての聖餐」という五つの主題が含まれていると示しています。

日本の教会の場合、聖餐に預かるとき、イエスキリストの十字架の苦難と身代わりの死を深く思い起こし、その愛と恵みに感謝し、十字架のみわざを記念する意味合いがやや強いと思われます。聖餐式が個人化して受け取られています。一方、欧米では聖餐式の持つ、キリストの復活の喜びと神の国の希望に強調点がおかれ、時にはセレブレーション(祝い)としての位置づけられるようです。聖餐式は天国の食卓の前祝いであり、終末的な饗宴と理解されます。

1コリ10: 17 「パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」

1コリ12: 13「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」

聖餐は「主の食卓を囲む神の家族の交わり」です。聖餐はパンと葡萄ジュースの2品しかテーブルに並ばない簡素な主の食卓です。しかし食事をともにする喜びは食事の質や量や豪華さによって決まるわけではありません。食卓の中央に誰をお迎えしているかにかかわっています。「一つの杯、一つのパン」を「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい」と呼びかけ語りかけてくださる真の分配者であるキリストの手から受け取ることによって、聖霊は私たちを霊的に深くキリストと結び合わせ、キリストの家族としての自覚と喜びを深めてくれるのです。聖餐は教会を代表して牧師が配るのではありません、イエス様が「とって食べなさい」とあなたに配っておられるのです。

聖書が書かれたギリシャ語では教会のことをエクレシア「呼び集められたもの」と言います。ですから教会は「神様が呼び集めてくださった人々の交わり」と理解することができます。イエス様は「父が引き寄せて下さらなければ誰も私のもとに来ることはできません」と言われました。私達が教会に導かれた過程は様々ですが、神様は目に見えない救いの糸を結びつけ最善の時に手繰りよせてくださいました。私達は教会に自分から「来た」のではなく神様によって教会へと「招かれた」のです。

さて今週は「聖徒の交わりを信ずる」の「交わり」のことばに焦点をあわせてみます。花を大きく三つに分けると、土に隠れた根の部分、色とりどりの美しい花びらの部分、花全体を支える茎の部分となります。教会の交わりを3つに分けて考えてみましょう。

1 神様との親密な愛の関係が交わりの「根」の部分となります。

父御子御霊なる聖書の神様は三位一体と呼ばれるようなすばらしい愛の関係を保っておられます。一方、私達人間はアダムが罪を犯して以来、神様との関係、夫婦の関係、親兄弟との関係、隣人との関係が壊れてしまい正しい関係を保つことができなくなってしましました。罪を犯したアダムは神様から身を避けようとしました。アダムとエバとの間にも醜い責任のなすりあいが生じ、本来のベストパートナーとして「助けあう」関係に創造されたにもかかわらずおたがいを責め合う関係に陥ってしましました。アダムとエバの2人の子供の兄弟関係はねたみで支配されるように大きく歪み、ついには兄が弟を殴り殺すと言う悲劇的な殺人事件までおこしてしまいました。罪がすべての交わりを破壊してしまったのです。愛に満ちた神様は、ご自分の完全な交わりの中に私達、罪人を招いてくださり、御子イエスキリストの十字架の血をもって罪を赦し、神の子、神の家族の一人として迎え入れてくださり、神様のみもとに永遠の居場所を備えてくださったのです。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」
(1ヨハネ1:3)

花の根の部分は土に隠れて見えません。しかし花全体を支えて花に命を与えているのは根です。根がかれていては花は咲きません。花が枯れても根がしっかりしていればその季節になれば花はまた咲きます。

私達のクリスチャン生活においても大切なことは目に見えない根の部分、神様との個人的な親しい愛の交わりを大切にすることです。主の日の礼拝ばかりでなく、日々の密室の祈りのとき、デボーションの時を大切にして、あなたの信仰の根を大事にしていただきたいのです。神様との親密で親しい愛の交わり、個人的な祈の交わりがあなたの霊的ないのちを養うのですから。

神様は生きておられいつも働いておられます。神様はいつも私達に語りかけご自身の思いを聖霊を通して伝えようとされています。神様は私達に聞いてほしい多くのすばらしいご計画や目的をもっておられます。ですからよく聞いて、他の兄弟姉妹にも分かち合ってほしいと心から願っておられます。神様との親しい個人的な愛の交わりを深めてゆきましょう

2 兄弟姉妹との尊敬と協力の精神に満ちた交わりは「花びら」の部分となります。

先週学びましたように、私達はイエス様の十字架の血によって罪を赦していただいた罪人にすぎません。人間的に誇ることなど何もないのです。聖書は私達に自分を誇るのではなく、お互いを自分より優れた人と思い、お互いに心から尊敬尊重の念をもって仕えあいなさいと教えています。

ローマ12: 10「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」 聖書は「互いに」という交わりを指すことばを50回以上用いています。交わりの中核は互いへの「愛と尊敬」です。ですから聖書はこの原則を結婚の誓約や夫婦の教えにおいて適応し、妻への愛、夫への尊敬を重視しています。エペソ5:33「あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」

愛すること敬うことが言葉だけで終わらないように、実際的具体的に目に見える形において現わされるように、聖書は繰り返し、兄弟愛の実践(1ヨハネ3:16―17 4:7―8)を教えています。生きた信仰は生きた愛の奉仕を生み出しますが、死んだ信仰は良いわざを生み出せません。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(1ヨハネ4:20―21)

信仰による兄弟姉妹を愛すること、敬い助け合うこと、これらは義務や命令として外側から押し付けられることがらではありません。父御子御霊なる神様との親しい愛の交わりに生きているならば、おのずと自然に神の家族をも愛し合うものです。根があるから花が美しく咲くように、愛し合うことがごく自然な行為となるのです。愛の交わりを見て周囲の人々は「ここに神の愛がある」と感動し心動かされるようになります。

造花のような作り物には感動が伴いません。父御子御霊の神様との親しい愛の交わりに生きているから、交わりにいのちを与える「愛と尊敬」が神様から注がれてくるのです。

今、週報では間に合わない祈の課題などを「祈のリクエスト」としてメールで送らせていただいています。私は教会における真の交わりはお互いが祈りあうことから生まれると信じています。このような祈によって支え合えあって交わりは、「祈の家」と呼ばれている教会にしか作り出せない真実な交わりではないでしょうか。

3 聖礼典を通した聖なるめぐみとの交わりは茎の部分になります

プロテスタント教会ではバプテスマ式と聖餐式を神様の恵みを生き生きと実感させるサクラメント聖礼典としています。この二つの礼典は単なる記念や儀式ではありません。それ以上の霊的な意味と力をもつ聖なる神のめぐみの通路とされています。ルターは正しい教会のしるしは「みことばが正しく解き明かされ、聖礼典が正しく執り行われ、みことばに基づいて教育と訓練が行われていること」と語りました。この3つはすべてのプロテスタント教会の基本理念となっています。

肉から生れたままの罪人はバプテスマによって新しく作りかえられ、キリストの復活のいのちに結び合わされ復活の人生を歩むことができるように導かれます。どうしてそうなるのかわかりません、神の恵みのわざを解説することはできませんが、結果として新しい人生がもたらされるのです。それはもはや神様のみわざとしか言いようがありません。

聖書は「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ1616)とはっきり教えています。ですからもしあなたがイエス様を信じておられるならばバプテスマを受ける決心を引き伸ばさないでいただきたいのです。バプテスマ式はキリスト教に入会することではなく、あなたがキリストと一つとなって十字架に死に復活のいのちによみがえらされる特別な恵み時であり、あなたの人生に神が臨まれる聖なる瞬間なのです。

またクリスチャンが預かる聖餐もパンとぶどう酒に象徴されているキリストの十字架の恵みと復活のいのちと力に招き入れられる聖なる時です。それは儀式以上のものです。神の臨在といのちに出会い、とらえられる時でもあります。初代教会の交わりにはかならず「パン裂き」(使徒2:42 46)が行われました。パンを裂くために集ってきたといっても言い過ぎではないと思います。それほど聖餐式は重要な意味と価値をもっていました。その価値は今日でもまったく変わりません。

根があっても、花びらがうつくしく色づいて香りを放っていても、茎がしっかりしていなければ花全体を支えることができません。茎が折れれば花全体が地に倒れてしまいます。

教会が過去2000年間、脈脈と受け継いできたサクラメント・聖礼典はあなたの信仰生活を支える茎のような存在価値をもっています。あなたの霊的生活を支える太い確かな支柱です。

使徒信条は「聖徒の交わり」と告白しますが、聖徒と訳されたことばは中性名詞なので、人ではなくむしろ「聖なることがら」との交わりとも訳せるそうです。少なくとも初代教会において、パン裂きは礼拝や交わりにおいて必ず行われました。パン裂きとはイエス様が定められた聖餐を意味しています。

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」
(使徒2:46―47)

「聖餐」は初代教会の礼拝と交わりの中心におかれていました。礼拝そのものが聖餐を囲む形で進められました。初代教会の交わりは聖餐を中心にした「聖なることがら」との交わりでした。

後の時代においても説教は「聞くみことば」、聖餐は「見るみことば」と中心にして聖礼典は聖なる神との交わりへと私たちを導きいれます。聖礼典は私たちの交わりが人間中心になることから守ってくれます。霊性、聖性を保持し交わりを聖なるものとして天に引き上げます。ですから、求道者はバプテスマ式を願い求め、クリスチャンは聖餐式を重んじましょう。

教会は聖徒の交わりです。神様からこよなく愛され、神様が呼び集めてくださった罪赦された罪人の群れ、互いに愛し合い尊敬しあう神の家族の交わりです。そのような兄弟愛が教会の交わり花とするならば、交わりの根は個人的で親密な神様との愛の交わりにあることを心に覚えましょう。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」
(使徒2:42)


祈り

父なる神様、あなたは罪のゆえに様々な断絶、対立、分裂で苦悩する私達を真の交わりへと招き入れてくださったことを感謝します。あわただしく過ぎ行く日々の中、あなたとの個人的な交わりが薄れ、あなたの臨在にふれることからくる喜びを失っていることを痛感します。信仰の「根」をあなたとの親密な愛の交わりの中に下ろしていくことを学ばせてください。

    
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