20 使徒信条 題 「洗礼と罪の赦し」 2004/11/14
「父よ、彼らを御赦し下さい。」(ル化23:34)
「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり・・を信ず」と使徒信条は告白します。私は使徒信条のこの部分に「罪の赦し」が挿入されているのはなぜだろうかなと以前から不思議に思っていました。イエスキリストを信じる告白の中に置かれてるほうが自然だからです。
最近、ある本に、使徒信条の後に作成されたニカイア信条では「私は罪の赦しのための唯一の洗礼を告白する」と書かれており、使徒信条に記されている「罪の赦し」を信じるという表現は「洗礼の告白」と結び合わされていると解説されている(ロッホ・マン 講解使徒信条 ヨルダン社)箇所を読んで納得がいきました。洗礼が「罪の赦し」のみならず、「体のよみがえり」「永遠のいのち」という聖霊がもたらしてくださる神の恵みの賜物と非常に強く関連づけられているのです。使徒信条の告白には、聖霊が建てあげる聖なる公同の教会―聖徒の交わりを支える「聖餐と洗礼」という基本軸が貫かれています。直接には言葉として記されていませんが、聖餐と交わり[1]、洗礼と罪の赦しが強く結び合わされ告白されてきたことを私たちは心に留めてゆくことが大切だと思います。
1 洗礼はすべてのクリスチャンの共通分母です
「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)とイエス様は約束され、「罪の赦しを受けるためにキリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:38)とペテロは勧めました。
洗礼はクリスチャンとしてのスタートラインですから、キリストを信じていることと洗礼を受けていることとの間には多少の時間のズレがあっても両者ほとんど同義語です。イエス様を信じていればバプテスマを受けることを拒む理由はありません。この場合、神様は「信じきる」というような完全性を求めておられるわけではありません。信じて生きてゆきたいという素朴な願いや志しで十分と受け止めてくださっています。生れてくる赤ちゃんに対してすぐことばを話したり、はいはいしたりすることを要求するお母さんはいません。あなたの天の父である神様もまったく同じです。
クリスチャンとしての成長の過程や個人の生活スタイルには個人差があり幅があり自由がありますから、多様性の中で生活します。しかし、一つの共通分母があります。イエス様を信じ、キリストの名によって「洗礼を受けた」という神の恵みの事実です。恵みの事実といったのは、洗礼は神のみわざであり聖霊が主導権をとって力強く導かれた結果だからです。聖霊が働きサタンのさまざまな妨害から守ってくださることなくして誰も洗礼の祝福にいたることはできません。「神が洗礼を導いてくださった」、この事実の背後には神の選びと絶大な恵みの力がどれほどゆたかに働いていたことか感謝してもしきれないほどです。残念ながら洗礼を受けても教会から離れこの世に戻ってしまう場合もありますが、洗礼のもつ力に信頼しその信仰の回復を待ち望むことを熱心に求めたいと思います。
今、教会に神様によって導かれ求道されておられる方々の上に、洗礼の導きが備えられるように、その決心を表明されることができるように心からお祈りしています。
2 洗礼はすべてのクリスチャンをキリストの中にとどめます
「キリストにつくバプテスマを受けたわたしたちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」(ロマ6:3)
今日、全身を水に沈める浸礼スタイルが多くの教会で採用されています。バプテスマとは完全に「浸しこむ、沈める」という意味です。水の中にバプテスマされることは古い生まれながらの自分から切り離され、キリストの中に一つとされ、よみがえらされるという霊的な新生経験を象徴しています。キリストにあって新しく生まれることは同時に新しくキリストのからだに結ばれるという真理を見落としてはなりません。人間中心の古いこの世に属しているものが解放され、自由を得、聖なる公同の教会という新しい共同体に所属するものとなったのです。また、目に見える地域教会という新しい神の家族に所属するものとなったのです。私達は生涯、キリストの中にバプテスマされました。キリスト御自身とそののいのちと聖いからだの中につけられたのです。いわば「キリスト漬け」とされたのです。ですからあなたの中からはキリストの香りがほのかに漂うのです。あなたの生活の中にキリストの味がにじみ出てくるのです。
イエス様の中にバプタイズされた私達ですからイエス様の中以外に居場所はありません。むしろイエス様こそが長い人生で捜し求めていた本当の私の居場所なのです。最終の安息地であり終着駅としてのイエス様を私たちは知ったのです。イエス様から先に線路はもうありません。その必要がないからです。イエス様を超えてどこに行く必要があるでしょうか。イエス様にとどまることを聖書は教えています。
もし「私は教会で安らぎを得られない」というクリスチャンの友がいるならば、信仰の友であるあなたは、「どうしてそう感じるのか」よく聞いてあげてください。その理由や原因についてよく検討することも大事であり意味があります。しかし、だからといって本当の解決にはならないことも理解してほしいのです。その人にとっての問題や原因と感じられることに焦点を当てすぎてはなりません。というのはおなじ理由や原因を感じながらも、主に忠実に仕えている方々が一方ではいるからです。何がちがうのでしょうか。理由や原因の問題ではなく、「教会の中に安らぎを見出そうとする」思いそのものが、まだ途中の停車駅に過ぎないからです。途中の駅で降りてしまっては終着駅につけません。真の安らぎは途中の駅である「教会の中」にではなく終着駅である「イエス様」の中にあることをよく自覚してほしいのです。線路の途中で見る景色と本来の目的であった終着駅で見る景色とは一緒ではありません。
「イエス様の中に安らぎを見出す」ことを心を込めて教え導いていただきたいのです。どんなに大きな問題をかかえていても、その原因が深刻でも、イエス様の中に安らぎを見出すことができるならば、それでも歩み続けることができるのです。教会の中に「安らぎ」をしかもその人にとって理想的なあり方で求めようとすれば、その個人的な要求は見たされないまま、かえって多くの葛藤を抱えることになります。厳しい表現かもしれませんが真実をお伝えしています。おそれずに真実を伝えることができるのは、イエス様の中には完全な安らぎがあることが確かだからです。教会に集う目的は、教会を見るため、人をみるためではなく、イエス様を見るためにあります。
3 洗礼はすべてのクリスチャンを十字架の恵みの中にとどめます
コロサイ1:14「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」
十字架の恵みとは「罪の赦し」に他なりません。イエス様がこの地上に伝えてくださった福音は「罪の赦しの恵み」でした。すべてのクリスチャンは「罪の赦しの恵みと感謝」を信仰生活の共通分母としています。これは決して変わることのない永久共通分母といえます。
私達の信仰生活の分子の数字は時事変化しますから、決して一定と言うことありません。しかし、「罪の赦しの恵み」という分母の数は一定であり変化することはありません。分子の数の変動に心をまどわされそうなときには、分母に目を向けて分母の恵みの数を数えてください。分母にどんなことばが書いてあるかしっかり読み直しましょう。あなたは次のようなパウロのことばをそこに見出すことができるでしょうか。目を開いて神の恵みのことばを読み取ることができるでしょうか。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」
(エペソ2:4-5)
「罪の増し加わるところには恵みも増し加わったのです」(ロ−マ5:20)
クリスチャンが帰ってくる恵みの場所は十字架の赦しです。私たちの新しい人生はここから始まりました。洗礼は十字架の赦しの中にクリスチャンをバプタイズします。罪赦された恵みを信仰生活定、教会生活の基礎あるいは土台にすえることがもとめられています。そうでないと、多くの借金を帳消しにしていただきながら、わずかなお金を貸した相手を赦せずに牢にまでぶち込もうとしたおろかなしもべとなりかねません。「感謝を忘れさってしまう人」「恵みの大きさを計算できない人」になってはなりません。
4 洗礼はクリスチャンを和解の働きへ送り出します
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(2コリ5: 18-20)
神がキリストにおいて罪の完全な赦しをご準備してくださいました。だから神のご用意された赦しと和解を「受け入れる」ことが始まりです。しかしそこで留まっていてはなりません。もう一歩、進み出し「和解のことば」を委ねられた「和解の使者」として「この世」に遣わされていくことを神様は期待されています。「和解の務め」に積極的に生きることが求められているのです。それは、罪を赦されたものとして、キリストにある赦しと和解を他者に示し、忍耐深くすべての関係の断絶に取り組むことがです。
大きくはイラクの反米感情、パレスチナの反イスラエル感情と言った国際的な対立から身近な対人関係における反目といったレベルにいたるまで、人間の怒りや恨みの念は深く、憎悪と暴力の連鎖は簡単に断ち切れるものではありません。ですから、途中であきらめない忍耐深さが試され必要となります。
特に自分が被害者の立場におかれた時、自分がクリスチャンとしてどのような態度を示すか「和解の務めの質が問われます。私たちが問われていることがらは、相手側からすれば、クリスチャンから「和解とは何か」を真に学ぶことができる機会でもあることを忘れてはなりません。
羽鳥朗先生は自分が傲慢になって悪口を言った恩師に謝罪の手紙を書いたところ、「忘れた、赦します、永遠に」というお返事を受け取り、キリストの赦しの意味を深くそのとき知ったと証しされていました。家族を虐殺されたあるユダヤ人は、「私達は決して忘れないが赦すことはできる」と語ったそうです。
ある牧師は「忘れて赦すばかりではまだ完成していません。その相手のために祝福を祈ってこそ完全なのです」とメッセ−ジしました。
どれが正しい態度なのかと議論することは意味がありません。すべてが神様を喜ばせる「和解の務め」を担っているしもべの言葉、態度だからです。あなたにって和解に生きるとはどういうことでしょうか。今のあなたには何ができるでしょうか、また何から始めることができるでしょうか。聖霊に聴きそして従いしてください。私たちは、恵みのことばを伝える和解の使者として今、存在しています。
祈り
主よ、私たちの思いと言葉とを清めてください。怒りに身を任せ、復讐心にとらわれ、私たちは破壊的なことばを吐き出してしまいやすい者です。人を癒し、励まし、勇気づけ、信仰から信仰へと向わしめる「和解のことば」を語るものとしてください。また私たちの行動が「和解の使者」にふさわしいものでありますように行動力をも備えてください。ア−メン
[1]私達は先週、聖徒の交わりは「聖餐を囲む神の家族の交わり」であることを学びました。ロッホマンは「聖徒の交わり」の「聖徒」と訳されたことばは中性名詞で人を指すより「聖なることがら」を意味しており、聖餐や洗礼、天のみ使い、天に召された無数の神の僕たちとの交わりをも含む広がりを持つ言葉であるとも語っています。聖別された教会堂に入ると経験するいいがたい厳かさ、霊的な落ち着き、聖なる想いとはこのような聖なることがら・聖性との出会いと言えるかもしれません
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