3 使徒信条 題 「全能の父なる神を信ず」 2004/7/4
聖書箇所 ルカ15:11−24
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かった
のに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は
言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言
った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪を
はめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて
祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかっ
たのだから。」(ルカ15:20−24)
昔は「地震雷火事親父」と怖い存在の一つに親父がいましたが、今の時代は親父の威光はすっかり薄れてしまったようです。2人の子供がいる若い牧師があるキャンプで「私はレインボ−パパ」と呼ばれていますと自己紹介されました。何のことかと思ったら「2児の父」なのだそうです。時代とともに父親像もずいぶん違ってきているようです。
さて、使徒信条は「天地の造り主を信ず」に続いて、「全能の父なる神を信ず」と告白します。
古代の宗教においては神を父と呼ぶことが多かったようです。ギリシャ神話の主神ゼウスは「神々の父」と呼ばれています。旧約聖書でもイザヤは「まことにあなたは私たちの父です」(イザヤ64:8)と呼んでいます。新約聖書において「すべてのものの父なる神は一つです」(エペソ4:6)と語られています。この場合、父ということばには「創造主」という意味が込められています。大いなる神を父と呼ぶ感覚には「威厳、尊厳、権威、支配、力」といったイメージがともない、「家父長的」父親像が浮かんできます。
ところが、イエス様はまったく新しい父なる神のお姿を私たちに明らかにしてくださいました。イエス様は、父という一般的な言葉とともに、幼い子供が使う「お父ちゃん」を意味する「アバ」という言葉も用いられました。十字架の死を目前にした最も緊張感が高まる中で、イエス様は「お父ちゃん」と本音で祈られました。
「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」 (マルコ14:36)
復活され神の右の御座に着座されたイエス様は、ご自身の御霊を信じる者に賜物として分け与えられました。御霊は父なる神様との親しい交わりをもたらし招き入れてくださいました。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を 受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます」(ロ−マ8:15)
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わ してくださいました」(ガラテヤ4:6)
「アバ父」、何と優しい響きでしょう。このことばは幼子が素直に父親を呼ぶときのことばです。親密な愛の交わり、家族としての喜びを私達に強く印象づけます。イエス様は従来のユダヤ教的伝統からくる父親像とは大きく異なる親しい特別な関係をもたらしてくださったのです。
さらにイエス様は、父との親密な愛の交わりを表すたとえ話を語ってくださいました。それは今まで誰も聞いたことがないような「父なる神様の愛の物語」でした。ルカ15章に記されている放蕩息子の物語です。このたとえ話は放蕩息子の物語と呼ばれていますが、父なる神様の大きな真実な愛の物語とタイトルをつけるほうがふさわしいと思われます。
ある農夫に2人の息子がいました。親がうっとおしく、そのうえ次男坊ではいつまでたってもうだつがあがらないと思った弟息子はある日、父親に財産を分けてくれと要求し、お金を受け取って家を出ました。都会のはなやかで刺激的な生活に魅せられた彼は遊びごとにさんざんふけり、罪の生活に溺れるようになりました。湯水のようにお金を使い、とうとう一文無しになってしまいました。田舎出の彼には才能も学歴もコネもなく働き口も見つかりません。ユダヤ人が忌み嫌う豚を飼育する外国人のもとで使い走りをしましたが食ってはいけませんでした。
世間の厳しさ冷たさが身にしみました。それにつれて懐かしい田舎の父の優しさ暖かさが思い起こされてきます。帰りたいけど帰れない、今更おめおめ帰れない、自分のプライドが許さない。そんな心の葛藤の壁がくずれたのは、彼がひしひしと自分の愚かさを自覚し神様をないがしろにした不信仰を悔い改めたときでした。もうためらうことはありませんでした。彼にとって帰る場所は一つしかありません。自分の真の居場所は父の家でした。彼は数年ぶりに父にもとに帰ったのです。
するとどうでしょう。ふるさとでは弟息子が家を出ていったその日から、父親が一日たりとも忘れることなく息子が帰ってくることを信じて待ち続けていたのです。まだ家から遠いのに、父親は帰ってきた息子の姿に気づくやいなや、玄関を飛び出し、走り出し、息子を強く抱きしめました。
あなたがもし父親ならどんな態度、どんな言葉がけをするでしょうか。短気な人なら拳骨の一発でもおみまいするでしょう。学校の先生タイプなら「反省文」を書かせるかもしれません。「何しに帰ってきた!」と一言文句を言わなければ気が治まらないのではないでしょうか。
この父親は何も言わず何も言わせず、そのまま息子を抱きかかえました。その時、息子が感じたのは今も昔もすこしもかわらない父の大きな赦しと愛だったのです。
このたとえ話に登場する父親は、ユダヤ人が思い描く家父長的な父親ではありませんでした。律法学者やパリサイ人が説き明かす、権威的で厳しく、罪人を裁く怒りの神ではありませんでした。イエス様が示してくださった父なる神様は、罪人が悔い改めて立ち返ることを待ち続けておられる神、悔い改めた者を無条件でそのまま受け入れて迎えてくださる赦しと愛の神、失敗した者をあるいは罪の中に死んでいた者をふたたび立ち上がらせてくださり親しい交わりを回復させて喜びを分かち合ってくださる神でした。
ロッホマンという学者は、ここに描かれているような、迎えに走り出す神というのは、どの時代の家父長主義的な法典においてもいまだかって聴いたことがなく、「前代未聞の父の態度である」といいました。
ある画家がこの場面を描いたそうです。その絵に描かれた父親の片足は、はだしのままでした。サンダルを履く間さえ、じれったく、急いでかけだした姿が描かれました。私はいつの日かその絵をぜひ見たいとせつに願っています。私の勝手な想像ですが、玄関にぬぎすてられたサンダルは「過去のすべてを忘れ赦す神の愛」、父がはいている片足のサンダルは「今もこれからも変ることがない神の交わりの愛」ではないでしょうか。
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」
(イザヤ55:7)
イエス様が教えてくださった父なる神様は、「走りよる神」―罪人を愛し、悔い改めた者を抱きかかえて受け入れてくださる神でした。私達は神の御子イエスキリストを通してこのような「愛の神」を父とさせていただいたのです。私達も「天の父なる神様」と親しく呼びかけることができる祝福と特権をいただいたのです。何と幸いなことでしょうか。
さて、使徒信条は「全能なる」ということばを「父なる神」と結びつけています。全能という言葉は、天地の造り主に結びつく言葉のような気がします。しかし、使徒信条は父なる神様の「大きな愛」を神の全能の力と結び合わせました。全能と結び合わせられた愛ほど強いものはありません。
罪人を赦し、罪からきよめ、新しく神の子としてよみがえらせ、人生を再出発へと導いてくださる父なる神様の愛は、全能の力に裏づけされています。愛が単なる情緒であってはなりません。真実な愛は人を変え、人を新しくし、人に生きる目的と喜びを与える力をもっています。その力は権力や暴力といった地上の力ではありません。キリストを死者の中からよみがえらせた神の大能の御力、いのちの力、この力が、神の愛の御わざ、十字架の救いの御わざを支えたのでした。
「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて」(エペソ1:20)、
「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」
(エペソ2:6)
「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」
(コロ2:12)
世々の聖徒たちとともに使徒信条を告白する私達は、神の恵みと力によってキリストとともに甦らされ、新しいキリストのいのちにあずかっています。ですからパウロは次のように励ましました。
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」(エペソ6:10)
私達もそして教会もしばしば人間的な無力さや弱さを覚えることがあります。しかし、私達がどんなに無力であっても、全能の父なる神様の愛と力によって強められることができます。力は私達の中にあるのではなく、父なる神の中にあるからです。
愛に満ちた父なる神様と私たちは、「アバ父よ」と親しく交わり、祈ることがイエス様によって許されたことをこの朝、心から感謝したいと思います。
祈り
アバ、父よ。
こんな罪深い者もイエス様と同じくあなたに親しく呼びかけることがゆるされ感謝します。
イエスキリストの十字架の血の赦しの中で、私たちを「子」として迎えてくださったことを
心から深く感謝します。
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