5 使徒信条 題 「御子イエスの麗しい御名」 2004/7/18
聖書箇所 マタイ1:18−25
見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと、神は私たちとともにおられる、
という意味である。(マタイ1:23)
使徒信条には、神のひとり子、主、イエス、キリストと4つの名前がイエス様に用いられています。神の御子がこの世界に誕生するにあたって父なる神様は、ヨセフとマリアという若いカップルを選ばれました。マリヤは聖霊によって御子をみごもりました。このとき、御使いがマリアと婚約していたヨセフに現れ、生れてくる男の子を「イエス」(マタイ1:21)と名付けるように命じました。
「イエス」と言う名は「主なる神は救い」「われわれは神の救いを記念する」という意味をもっています。ユダヤの国ではよく使われていた名前で、イエスのヘブル語読はヨシュアとなります。旧約聖書ではモーセの後継者となったヨシュアと同じ名前です。イエスの名前はユダヤ人には、イスラエルをエジプトの奴隷生活から解放したモーセの後継者として、イスラエルを約束の地カナンに導きいれた指導者ヨシュアの働きを歴史的に思い起させたことでしょう。やがてイエス様がヨシュア以上のお方であり、自分の民を十字架と復活の御わざを通して、「罪と滅び」から永遠のいのちへと救い出してくださるまことの救い主であることが明らかにされたのです。
「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」
(マタイ1:21)
さて、イエスさまに関してもう一つ重要な名前が出てきます。天使がヨセフに教えた「インマヌエル」(マタイ1:23)という名前です。ヘブル語の意味は「神われらとともにいます」となります。ですから、「私達の救い主・主イエスキリスト」という呼び方とともに、「私達とともにおられる神・イエスインマヌエル」という呼び方も可能となります。マタイはユダヤ人に向けて福音書を書いたと言われていますから、特に「イエス・インマヌエル」という名は旧約聖書の背景を心に留めて理解する必要があると思います。
さて、旧約聖書に見られる大きな特徴は、「罪人は聖なる神にちかづくことができない」という原則です。旧約時代、もし罪あるまま聖い神に近づこうとするならば必ず裁かれました。神がホレブの山の燃える柴の中から、モーセに対してご自身の名を初めて啓示された時、「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴をぬげ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(出3:5)と、安易に近づくことを禁じました。肉なる者がそのまま聖なる神に出会うことは許されないからです。預言者イザヤも神殿で神の臨在にふれたとき「ああもうわたしはだめだ」(イザヤ6:5)と言いました。罪ある者が神と出会えばそこには裁きと滅びしかないからです。
ダビデの時代、ペリシテ人から返却された契約の箱を、ダビデの町に移そうとした時、うっかり契約の箱に触ってしまったウザは、たちまち神に撃たれて死んでしまいました(2サムエル6:7)。神の臨在の象徴である契約の箱にいかなる理由があれ、肉なる者が触れてはならなかったのです。
恵み深い神様がご自分から一方的に罪深をあわれみ、臨んでくださることはあったとしても、罪ある者が勝手に神に近づくことは決して許されませんでした。旧約の限界がここにあるといえます。
しかし、イエス・インマヌエル、このお方はそのような旧約的な壁を打ち砕かれました。罪ある者が神に近づくことができる恵みにみちた道を備えてくださったのです。
神の御子はご自身の栄光を捨てて人となって世にこられました。罪人の一人に過ぎないマリアを母としてこの世にお生まれになりました。堕落と不信仰に満ちたこの世界の只中に御子は下って来られました。インマヌエルの恵みは御子の降誕から始まりました。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての
性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」
(ピリピ2:6−8)
さらに、イエス様は「わたしがきたのは正しい者を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(マルコ2:7)と言われました。罪のない正しい者ではなくまさに罪ある者が招かれ神に近づくことが許されたのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。ここでは「来なさい」と、さらに積極駅に身元に招いて下さっています。あるときイエス様のうしろからそっと衣の裾を触って癒しを受けた女性がいました。イエス様は彼女の中に信仰があることを認め、遠慮がてら後ろからそっと触れるというのではなく、正面からはばかることなく願い求めても赦されることを彼女に教えるために「誰かがわたしの衣を後ろから触った」と言われ、彼女が公に告白することを待たれました。
インマヌエルなるイエス様はこのように、「正しくない者、罪ふかい者」の友として彼らを招き、十字架の救い、つまり悔い改めと罪の赦しへと導いてくださったのでした。インマヌエルの約束は、聖書の中に3箇所記されています。
1)イエス様を信じる者たちの群れ(教会)にイエス様は世の終わりまでともにいると約束されました。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
(マタイ28:19−20)。
教会の交わりの中で私達はインマヌエルなるイエス様の恵みを深く経験してゆくことができます。イエス様のからだである教会との交わりなくしてはインマヌエルの恵みは十分に味わうことはできません。
2)またイエスの名によって祈る者たちの内に私はいるとも約束されました。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:19−20)礼拝と祈りを分かち合う中でイエス様が今も生きておられることを豊かに経験することができます。
3)さらに、キリストの御霊を心に宿した者とともにイエス様はいつもおられることを約束してくださいました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」 (ヨハネ14:16−20)
もうひとりの助け主と呼ばれた聖霊が父のもとからくだり、イエス様を信じる者の心を住まいとしてくださるというのです。このイエス様のことばはあなたがた一人一人の心にと理解してもさしつかえないと思います。しかも、住まいと訳されたことばは「仮の住まい」ではなく、「定住」をさすことばであるといわれています。
イエスの御名によって水のバプテスマを受けるとき、イエス様の御霊は信じる者の中に住わまれます。これは聖書が約束している原則です。ですからペテロはすべての人々がこの恵みを受けるように呼びかけました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです」(使徒2:38−39)
キリストが心に宿る・・これはインマヌエルの恵みの結実といっても過言ではないと思います。これは隠れた人生の奥義とも呼ばれている真理です。そしてイエス様が心に住んでくださることと通して、イエス様はその人の人生を導かれるのです。
「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロ1:27)
インマヌエルの恵みを美しくあらわす有名な詩があります。マーガレット・パワーズさんが作った「足跡」[1]という詩です。浜辺にイエス様とともに歩んだ人生の足跡が2人分残っていました。一つはイエス様、もう一つは作者。ところがある部分から足跡が一つになっていました。作者はその時が自分の人生の最も悲惨な時であり、結局イエス様も「私を見捨てられたのだ」と思っていました。ところが実はその一番辛い時、疲れ果ててしまった私をイエス様が背負ってくださっていたのだと知り、イエス様の恵みに感謝したのでした。イエス様に背負っていただく人生、神様にすべてを担っていただく恵みがここには描かれています。困難に遭遇する時、私もしばしばこの詩を読んでみます。そのたびに励ましを頂くことができました。イエス様が共におられることを信じるならば確かな安らぎが満ちるのです。イエスインマヌエル、この麗しい御名をもたれるお方は私の人生を豊かに愛のうちに導かれるお方です。
また、インマヌエルの恵みをこのように受け止めることもできます。イエス様が心の中に住んでくださるとするならば、心の中にイエス様という最高の宝を持つことになります。自分の中に最も価値あるすばらしい富、資源があることとなります。これは決して過小評価してはなりません。もうすでに私達のなかに最もすばらしい宝が存在しているから、何かが不足しているように行動してはならないのです。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。
キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」
(1コリ1: 30)
このように、イエスキリストにあって生きようとするもの、イエス様の御霊が心を住まいとしてくださっているものたちの中には無限の力や可能性が秘められています。いいかえれば、私達はもう空っぽの存在ではないのです。イエス様とイエス様が持っておられるすべての良きものが心にぎっしりと詰まっているからです。ところがイエス様と無縁の生活をしていた時の私達は、あれやこれや実に多くのものを心に詰め込んではいたものの、結局は空っぽだったといえます。自分の経験も力も知識も愛もそれは空しくもろいものでした。重たいほど多くのものにとらわれながら「からっぽ」にすぎなかった、それがかつての私達の姿でした。確かに、今もなお私達は外なる自分を見れば失望したり限界を感じたり自信をなくしたりの繰り返しかもしれません。しかし、うちなるイエス様に目を留めるならば私達は計り知れない力と希望を見出すことができるのです。神の宮には多くの宝物がありましたが、聖霊の宮とされている私達の中にも多くの宝が隠されています。
私は最近、こんな経験をしました。「鬱で1日中、何もできない。わたしはもうだめだ!」と訴える婦人の相談を受けました。「そう、たいへんですね。お辛いですね。」と接するとますます悲観的否定的になってゆき歯止めがかからなくなっていく様子です。悲観が悲観を更に作り出すというマイナースパイラルに落ち込んでゆきそうです。そこで少し視点を変えて質問しました。「お子さんがいらっしゃるそうですが、お弁当はどうされていますか」と聞くと、朝起きて作っているというのです。「ええ!」と大げさに驚き、「鬱は朝が一番しんどいのに、どんなふうにして起きていらっしゃるのですか。子供さんのために精一杯努力されているんですね」と感心してほめました。すると「そんなこと言っていただいたのは初めてです。何もできないとばかり思ってましたから」と泣き出されましたが、その後なにかすっきりされたご様子でした。
何が彼女の中に起きたのでしょう。この人は自分の中ですでにできていることがあるのに、できていないことばかりに目が向き、そこに意識が集中し、問題ばかりを数え挙げていたのです。問題は数え出せばいくらでも数えることができます。問題は問題と思う人からいくつも作りだされてきます。生活の中に問題がないことなどはありえませんし、すべての問題を解決して除去しようとしてもそれは不可能なことです。夜空の星を数えようとするようなもので、数え始めればいくらでも星が見えてくるからです。むしろ問題と思われる状況の中でも自分ができていることをしっかりと認めることから初めなければなりません。どうありたいのかをはっきりさせ、そのためには何が可能か、何を用いることができるか、自分たちの中にはどんな力や資源が隠されているかを探し出すことが大切だと思います。
イエス様が心に住んでくださっているならば、私達は人生のほとんどの問題を解決できる豊かな資源をすでに持っているといえます。私達はインマヌエルなるイエス様にあってもはや「空っぽ」ではないのです。満ち足りた恵みを受けています。感謝することを探し始めればどれほど多くの感謝を見出せることでしょう。「ここにもあった、あそこにもあった、こんなところにも」といつしか喜びで包まれることでしょう。ないものを数えるよりすでに与えられているものを数えるならばきっと幸せな気分になることでしょう。イエスインマヌエル、この麗しい御名をもつお方は、私達が必要とするすべての力を豊かに差し出してくださるお方です。私達はもう「からっぽ」の存在ではないのです。探しなさい、そうすれば、イエスインマヌエルのお方の中にすべてを見出すことができるのです。
十字架にかかり罪を赦し、死の力を打ち砕いて3日後に復活され、信じる者の心に御霊とともに住まわれ、新しい命と力をもたらしてくださるイエス・インマヌエル。この方の麗しい御名を心からほめたたえましょう。
祈り
イエスインマヌエル、この麗しいあなたの御名を私は知らされ感謝で心が震えています。
あなたは私達の内なる隠れたいのち、そしてつきることのない力です。
あなたのなかにいつも信仰・希望・愛を見出して歩むことを導き続けてください。
[1]足跡 Footprints マーガレト・パワーズ PBA出版局
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道においてわたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたがなぜわたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いた。」
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