6 使徒信条 題 「私たちの主イエスキリスト」 2004/7/25
キリストにあって生きる
聖書箇所 マタイ16:13−20
シモンペテロは答えて言った「あなたは生ける神の御子キリストです」
(マタイ16:16)
使徒信条はイエス様に対して「我らの主イエスキリスト」と告白しています。ここにはイエス様はキリストであり、イエス様は我らの主であるとの告白が二つ重ねられています。
1 キリスト(救い主)とキュリオス(主)
イエス様に対して「あなたはキリストです」と初めて告白したのはペテロでした。「あなたは生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)。ペテロのこの告白はキリスト教会の土台となりました。キリスト教とは端的に言えば「イエスをキリストと告白する宗教」だからです。
キリスト(Christos)ということばは旧約聖書の「メシア」のギリシャ語訳です。メシアは本来、神に油注がれた者という意味で、祭司や王や預言者など神様に聖別されて奉仕に預かる人々を指すことばでした。イスラエルが周辺諸国に侵略され幾多の民族的な苦難を経験するに従い、軍事的政治的な王であるメシアが現れて、敵を打ち負かしかつてのダビデやソロモンのような偉大な地上の王国を樹立されるという期待が民衆の中に広がり、メシアへの期待が高まっていました。しかしイエス様はそのような政治的救世主としてではなく罪と死から人類を救い出す救い主として来られたことを、このペテロの告白の後、弟子たちに繰り返し強調されました。十字架にかかって身代わりとなって死なれる苦難のメシアはユダヤ人には受け入れがたい信じがたい存在でした。弟子たちがほんとうにそのことを理解できたのはイエス様の復活とペンテコステの出来事の後でした。
一方、イエス様を「主」と告白した代表的な弟子はトマスでした。復活されたイエス様に出会った疑い深いトマスでしたが、「わたしの神、わたしの主よ」(ヨハネ21:28)と告白し礼拝をささげました。「主」キュリオス[2](kuriov)という称号はロマ帝国の各地に離散しているギリシャ語を話すユダヤ人にとっては、旧約聖書の神ヤーウェを現す「主」アドナイということばの直訳でした。ローマギリシャ人にとって、キュリオスは、絶対的な権力者、王や力ある神々、あるいはロマ皇帝をさす場合に用いられました。従ってイエス様を主と告白することは、「イエス様こそがまことの神であり、ロマ皇帝にもまさるまことの支配者である」[3]という信仰告白でもあったのです。「主の主」(黙17:14)という表現は、神格化されたロマ皇帝に対して、イエス様のみが主ということばにふさわしいお方であることを力強く証ししています。こうして「我らの主イエス」という最高の称号[4]が与えられたのです。
十字架のキリストは「栄光の主」とさえ呼ばれました。
「もしさとっていたら栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」(1コリ2:8)
2 イエスを主と告白するなら救われる
そこで初代教会においては、神の救いを受けるために、バプテスマの前に、何よりも「イエスを主」と告白することが求められました。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」
(ロマ10:9−13)
そして、この告白は聖霊によって導かれましたから、まさにイエスを主と告白する信仰は神からの賜物でした。賜物ですから願い求める者には誰一人例外なく無条件で与えられるのです。
「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければだれも「イエスは主です。」と言うことはできません。」(1コリ12:3)
「イエスキリストは主です」と、あなたも世々の聖徒とともに告白されますようにと願っています。
3 主にあって生きる
さて、神を信じる者にとって信仰は言葉による告白だけでなくて、生活においても証しされます。生活の中に信仰が一体化しています。生活の中で信仰が生きて働いています。ですから、ここまでは信仰、ここからは日常生活などと別々に分けて生きるわけではありません。このことを信仰の生活化とか信仰と生活の一元化ともいいます。
旧約聖書の信仰の核心は次のことばにあるといわれています。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい」(申6:4−6)。唯一の主ヤーウェを全身全霊で愛すること、主なる神のことばを心に刻むことが、イスラエルの信仰でした。
今日、わたしたちはこのことばをそのまま次のように置き換えることができます。「聞きなさい。クリスチャン。主イエスはわたしたちの神、私達の主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主イエスを愛しなさい。これらのキリストのことばを、あなたの心に刻みなさい」と。
イエス様を主と信じることと、すべてをもって主イエスを愛する生活を送ることとは一つのことです。では、主を愛する生活はどんな生活をさすののでしょうか。どのように主を愛すればいいのでしょうか。
私たちの関心はどのような愛のあり方があるのだろうかとモデル探しにむけられます。しかし何かを始める前にクリスチャンには大事な原則があります。
クリスチャン生活の3原則と私は呼んでいます。私はウォッチマンニーが書いた小さな本(おそらく「キリスト者の行程」という日本名ではなかったかと思います。)からこの霊的真理を若い日に学びました。私が信仰生活に行き詰まって、1ヶ月教会を離れキリスト教の施設でボランティアをしていたときのことです。図書コ−ナ−にぼろぼろになった古い本がありました。手にとって読み出してゆく内に目からうろこがおちる思いをしました。ウォッチマンニーはクリスチャンの歩みの原則を「Sit、Stand、Walk」と表現しました。まず座ること、それから導かれて立ち上がること、立ち上がったなら歩き続けること。
キリストにあって座ること、つまり祈りやデボ−ションといった霊的な交わりによって真の意味でキリスト者は立ち上がることができる。単独でも1000人を敵にしても、どんなどん底からでも立ち上がることができる。みことばの力と聖霊の御声によって立ち上がったならば、どんな試練のなかでも歩き続けることができるのです。自分の両手ではなく神の全能の御手に委ねることから祝福が始まると私はこの本から学び取ることができたのです。
私達が主を愛することを願うならば、すべてはまず私達がキリストの愛にととまることからはじまります。主を愛するために何かをし始めるのではありません。わたしたちにとっての始まりはいつもまず「キリストにあって」「In Christ」からです。Startの前にSit・in・Christ がなくてはなりません。
たとえば、イエス様はお弟子たちに新しい唯一つの戒めを与えました。愛の戒めと呼ばれています。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)
そしてイエス様は、互いに愛し合って生きるために、まず「私の愛の中にとどまりなさい」と弟子たちを招かれたことに注意しましょう。命令を与えただけではなく、全うできる力を備えてくださいました。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。
わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)
このぶどうの木のたとえばなしでは「わたしにとどまりなさい」(4)、「わたしのことばがあなたがたにとどまるならば」(7)という表現が強調されています。パウロもまた「主にあって」[5]ということばを手紙の中で38回、「キリストにあって」[6]を22回用いています。
パウロにとって、宣教の働きも、礼拝の指導も、御ことばの解き明かしも、個人的な祈りも、すべては「キリストにあって」「主にあって」始まりました。主にあって、キリストにあっては、つねに出発点なのです。そのように私達が主にあって始めようと願うのは、主が私達を豊かに満たそうとされているからです。「そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。
キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロ2:10)
最近、「世界の中心で愛を叫ぶ」という映画や本が日本で大ヒットしています。その影響でしょうか、若い女性の中には、世界の中心で愛を叫ばれたいと願う人が急増しているそうです。丸い地球で世界の中心っていったいどこなのかよくわかりませんが、少なくともわたしたちクリスチャンと世々の教会にとって、世界の中心は主イエスキリストでした。
キリストの中にすべての始まりがあり、そしてすべてはキリストにお返しされると信じています。教会の頭はイエス様であり、イエス様は私達の心と生活を導かれ御支配される「主」であられます。
クリスチャンであれば、「私の人生はわたしが自由に支配するわ!!」と自我を主張するものはいません。イエス様を心の王にお迎えしてイエス様に仕えることを喜びとします。イエス様を主と告白することは同時に、わたしはそのしもべですとの献身を表すことにほかなりません。
私達もイエス様を「私の神、わたしの主」と告白して、「キリストにある」生活、「キリストにあってすべてを始める」を歩ませていただきましょう。
「それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです」(2テサ1:12)
[1]Cristov Christos khris-tos Christ was the Messiah,
the Son of God
[2]kuriov
kuriwn 主の主 黙17:14
[3]「キリスト者たちがイエスをホ・キュリオス(ギリシャ語の「主」)と呼ぶとき、イエスこそまこと の「神なる主」であって、ローマの皇帝の座にいる「神そして主」に対立する者だといおうとしたので ある」 ダルマン「the words of jesus」
[4]新約聖書の中にはイエスキリストということばが80回以上出てきますが、私達の「主イエスキリス ト」あるいは「主キリストイエス」という完全な表現も9回用いられています。「罪から来る報酬は死 です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロマ6:23)
[5]主にあって 2テサ3: 4「私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています」
[6]キリストにあって コロサ2: 10「そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。」
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