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私を知っておられる神様 (主婦 牧師夫人)
子供時代、私は自分がどのような人間なのかわかりませんでした。活発だったり、引っ込み思案だったり、積極的だったり、恥ずかしがりやだったり、起伏があるというか・・。
中学の時、突然得体の知れない不安に襲われました。それは「自分が生きている理由がどこにもない」という不安で、それがとても怖くて、日常の何でもない時に何度かこの不安がやっ てきました。
私は子供の頃から生きる虚しさを感じることがありました。受験体制の中で、点数で人の価値を決めることに対して必死にもがいていたと思います。点数で人を測るなら、そこには優越 感か劣等感しか生まれてこないし、劣等感に悩んでいても、自分より点数の下の人を見れば優越感が起こる、そこには平安がないと思っていました。
★イエス様との出会い
小学3.4年生の時の担任の先生がクリスチャンで、休みの日に公園でよくイエス様の十字架のお話をして下さったことがあります。それで寝る前にお祈りをするようになりました。五 年の時、聖母に通っていた近所のお姉さんが詩篇100:3「われらを造られたのは主であって、われらは主のものである。」という御言葉を教えてくれ、それがずっと心に残っていま した。
大学1年の時、入ったESSクラブに宗教セクションがあり、英語で聖書を読もうということになり、その時初めてデパートで聖書を買いました。夏休みに高校時代の友達が教会に誘っ てくれ、初めて教会に行きました。その時、牧師先生から二つの事を教えていただきました。
@神様は愛です。神様の愛は漠然としたものではなく、あなたが18年間生きてきた、この事実が神様の愛の事実です。
A神様は目に見えません。目に見えることは限界があるということ。見えないということは、実はあなたがどこにいようと常に神様が共にいて下さるということなのです。
自分の存在理由がわからなくても、神様が私を愛して下さるので生きていていいんだと知り、心の中に光が入ってきて喜びに包まれました。その時から礼拝に通うようになり、9ヶ月位 して洗礼を勧められましたが、特に悪い事をした覚えのない私には自分の罪がわかりませんでした。けれど神様に背を向けている、そのことが罪なのだと教えられ悔い改め、洗礼の恵み に与りました。
★献身への導き
大学4年の時、教会の青年達が献身する中で、教会で聖書塾を開くことになり、私も聴講させてもらうようになりました。学ぶ内に聖書のことをもっと知りたい、神様の御業に少しでも 参加できれば感謝だなぁという思いが強くなってゆきました。若さ故に、この世での成功という憧れも有りましたが、詩篇73:28が与えられ、聖書塾生として、枚方教会の伝道所の 御殿山教会で三、四名の姉妹達と寝食を共にし、午前は聖書の勉強、午後はアルバイトという生活を5年間続けました。
1978年の年頭にマタイ6:33の御言葉が与えられ、神様から何が与えられるのだろうと祈っていたところ、6月に牧師から主人との結婚のお話をいただき、翌年に結婚、開拓教会 を任せられることになりました。
主人も私もアルバイトをしながら奉仕しました。多い時は子供達が50人も集うようになりました。一番多忙だったのは主人が神学校へ行っていた時代です。子供を保育園に預け、アル バイトをしながら、日曜礼拝、夕拝、日曜学校、土曜学校、家庭集会、祈祷会、連合地区委員会など・・体を壊すこともなく、本当によく神様に守っていただいたなと思います。
★信仰生活の中の感動
やはり御一人御一人がいろんなところを通りながらイエス様に出会ってゆかれる、そのことを側で見させていただけるのが本当に最高のことです。特に「エホバの証人」に関心を持ってコツコツ勉強を続けていましたが、二人の姉妹と出会わせていただき、お二人が救われなさったのは私にとってはまさに神様が行動された、その「奇跡」を見せていただいた体験でした。
昨年4月から2年間、京都婦人ランチョンの委員長をさせていただくことになりました。私は挨拶状を書いたり、電話応対などが本当に苦手で、不安だし、荷が重いのですが、プレイズ「主の山に備えあり」が私のテーマソングになっていて、集会がある度に皆さんが賛美して私を励まして下さるんです。
私は教会堂に関しては、別に今のままで何も不自由はないし、いいんじゃないと思っていたんです。でも最近「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」(ルカ19:46)という御言葉が心 に迫ってきました。
借りの会場は便利だけれど、ホテルで暮らしているようなもの。ホテル住まいでは子供達もちゃんと育てられないし、家としての色々な機能は果たせない。教会は「祈りの家」なんだと いうことを改めて神様に教えられました。
最悪の私と最高の私を知っておられる方。私の全てを知って愛して下さる方。子供の頃から自分自身がわからなくて、居場所を見つけることが難しかったけれど、イエス様のもとに帰っ て初めて落ち着くことができました。
「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(ヨハネ14:19)が私の救いの御言葉です。
イエス様が生きておられるので、その中で私も生きてゆくことが出来るのです。