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私のうちにおられるイエス様
−−−エホバの証人からクリスチャンへ−−−
(主婦)

1 むなしさの中の日々

 主よ、感謝します。思い起こせば遠い昔から、古い肉の自分が葬られ新しく生まれ変わる日のことを、私はずっと待ち望んでいたのかもしれません。私は平均的な仏教徒の家庭で、体が弱かった弟と共に平凡に育ちました。何もわからないままでしたが、いつも神様に「どうぞ私の健康を弟に与えてください」と祈って眠る毎日でした。それは私が物心つく頃から学生の時まで続いたでしょうか。とぎれるとその祈りは神様に聞いてもらえないのではと思ったことを覚えています。

 そんな中で私はいつの間にか家族に心配をかけまいとして何も問題のない良い自分を演じていたようです。結果的には自己イメ−ジが低く、感情表現が苦手な自分になっていったように思います。ですから私には、体は健康であっても心は病んでいるという思いがつきまとい、生きることの意味や重さを問いかけながらも、あまり生に執着せずに、自分の人生いつでも幕が降ろせると思い上がったことを考えていました。その思いを潜在的にひきづったまま今日まで来たように思います。

 そんな時、我が家に聖書を一緒に学びませんかとエホバの証人の方が来られ、共に学んで行く中でみことばを通して、幼い頃にも何もわからずに祈っていた神様は本当におられること、聖書はその神様のみことばであることが示されました。この世界は近い将来、終わりが来て滅びるという教えは、その時の私にとっては魅力的でした。でも、愛である神様は今を喜びの中で生きるということを望んでおられないのだろうか、私には疑問として残りました。その疑問はエホバの証人の組織に対しての疑問とともにバプテスマを受けてからも消えませんでした。

2 十字架のイエスキリスト

 本当の神様の御心がわからず、祈りの日々を送っておりましたが、主は不思議な導き方で小出姉妹や多くの助け手を与えてくださり、私は偽りの宗教から救い出され、宇治バプテスト教会に導かれました。そして昨年9月18日、イエス様は主であり、私の罪のために十字架についてくださったことを信じました。その時にしめされたみことばは『私たちが自分の罪を言いあらわすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(第1ヨハネ1:9)でした。教会からの車での帰り道、背負いきれないほどの多くの私の罪を肩に担いで、私の前をイエス様がカルバリの丘に歩いて行かれる姿を示され、その後に広がる輝くように澄み切った青空を忘れることができません。

 あれから1年、人間関係や家族の中で背負う重荷は変わりはありませんが、私の人生にともにいてくださるイエス様、私が私のままでよいと受け入れてくださるイエス様を見上げるとき、すべてを主に委ねて生かされる喜びを感じずにはおれません。主よ、感謝します。この日を迎えられたことを感謝します。

 『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです』    (ガラテヤ2:20)

 ようやく、イエス様に接ぎ木されました。どうぞこの幼い木が豊かに育ちますようにこれからも御心のままに歩んでゆきたく思います。

1998年9月