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イエス様に結びあわされた生活
(主婦)

1 私を見捨てない神様

 私は43年前に伏見の地で生まれました。古いしきたりを重んじる大家族の家で育ちました。小さな頃より、よくまわりの人と比べられて育ったので、自分の頭が悪いことや太っていることに強いコンプレックスを持っていました。また何か問題があるとそこから逃げ出したり、人の陰に隠れるという依頼心の強い気の弱い人間でした。けれどもそんな私をよくかばって支えてくれていたのは母でした。そんな母でしたが、私が高校生の頃、相次ぐ祖父母の死や家庭内のさまざまな問題で、体調を悪くしたため次第に家の中が暗くなってきました。

 そんな頃、ひょんなことから教会に通うようになり、教会の早朝の祈祷会にも出席するようになっていました。そこで私は初めて心からの歓迎を受け、牧師先生にも執りなしの祈りをしていただきました。今でもその時の驚きと感激は忘れることができません。そして私が求めていたものは、ここにあるに違いないと信じて、1年後に受洗しました。

今思うと、イエス様の十字架の恵みをわからなかったので、その後長い間、教会へ行ったり行かなかったりという中途半端な信仰生活を過ごしていました。そして結婚したのですが、結婚と同時に家庭の中にいろんな問題が出てきてどこにも心のもって行き場がなくなってしまいました。その時、私はあの暖かな教会の交わりを思い出して、また教会に帰りたいと言う思いが出てきて、教会に行き始めました。私は、聖書を学ぶ楽しさを知り、そしてその聖書を通して「私は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)とのみことばをいただきました。私の相談相手になってくださっていた牧師先生が急に、開拓伝道をなさることになり、伝道のお手伝いをすると言うことでその先生について行きました。けれどもしばらくすると奉仕やいろんなことに疲れ、教会からも離れてしまいました。

2 イエス様の十字架を知って

 家庭内に抱えきれないような問題が次々と起こり、私は途方に暮れてしまいました。再び、教会の礼拝に出席したいという思いが与えられ、3年ほど前に宇治バプテスト教会のある町に引っ越してきました。また以前から、宇治バプテスト教会のカウンセリングの会に通っていましたので、教会の礼拝に出席することができました。そしてこの教会で初めて、イエス様の十字架の意味がわかりました。それは集会での牧師のメッセ−ジで硫酸をかけられた女性が、加害者が刑務所から出所した時に、わざわざ彼女を訪ね「ごめんなさいね。あなたにこんなことをさせた私を赦してください」と語りかけたというお話をお聞きした時のことでした。私の心は温かくなり、このようにイエス様はこんな罪深い私のために十字架の上で執とりなしの祈りをささげて下さっていることに気づきました。

 そのことがわかってから私の心に小さな変化が生まれてきました。今までのように何か問題が起きてきたら逃げるという生き方ではなく、イエス様にお祈りしてそのところに踏みとどまるという生き方です。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなた方の中にとどまります。枝がぶどうの樹についていなければ枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたもわたしにとどまっていなければ実を結ぶことはできません」(ヨハネ15:4)というみことばに従ってゆきたく思っています。

そして小さくても執りなしの祈りのご用に励んでゆきたく思っています。イエス様は、私たちの祈りをちゃんと聞いてくださっていることがだんだんとわかってきましたので、今かかえている自分や家庭内のさまざまな問題も、イエス様を信じ期待して、祈りつつ良き解決を待ち望んでいきたいと思っています。

2001年2月4日