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長く待ちつつづけて下さるイエス様の愛に
(主婦)

1  牛のような歩みでも 

 イエス様は長く待ち続けてくださいました。始めは教会で開かれた英会話教室、そして次は女性カウンセリングの会に集い、宇治バプテスト教会につながる者とさせていただいて10年経ちました。

 始まりの時には何人かの方々と一緒でしたが、気がつくと今はそのときの方々はほとんどおられません。それでもひとり教会に通い続けてこられたこと、聖書のお話を少しづつですが聞かせていただいたこと、全てイエス様が静かに時を待っていて下さったとしか思えません。

 そんな牛のような歩みの私が、心から神様を求めるようになったのは、結婚7年目に第1子を出産したこと、そして義母が脳内出血で倒れるという2つの大きなことが重なったからでした。義母は若いときからリュ−マチに悩まされながらも誠実に生きてこられた方だと思います。そんな方だからこそ、突然の半身マヒという不幸の中で、「何も悪いことをしてへんのに、何でこんなことになるのやろう」と嘆いておられる毎日でした。気持ちが沈んで、リハビリへの元気も出ない義母を前にして、私は何も言えず、ただ身の回りのお掃除やらお手伝いをするのが精一杯でした。私自身も生まれて1歳にならない子供との新しい生活の中、今までとは全く違う生活リズムにほんとうに疲れてしまい、「私も誰か助けて、手伝ってください」と心の中で叫んでいました。

2  クリスチャンの愛にふれて

 そんな中、いつもどこかで支えてくれていたクリスチャンの友人が、義母のもとに別のクリスチャンの友人を送ってくださいました。義母は家族と親類のてまえもあり、この方をあまり歓迎されなかったようです。それでも折りにふれ義母にお手紙や本を送り続けてくださいました。冷たくされることに文句も言わず、むしろいっそう心配して心を尽くしてくださいました。私にはどうしてこんなに優しくあり続けることができるのか、何がこの方たちをこれほど辛抱強くさせているのかわかりませんでした。そんな大きな疑問をもっている中、教会で開かれる「聖書入門講座」に出席して学ばせていただくことになりました。すると私の悩み、疑問は聖書の中にその答えがちゃんとありました。

「愛は寛容であり、愛は親切です。・・すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(1コリント13章4−8節)。

 このみことばが与えられた時、私は本当に自分の罪に気づき、嫌な自分を心から悲しみました。私にはこの愛がないので、クリスチャンの友人たちが愛によって動かされ、愛によって行動していることを理解できなかったし、その心を受け入れることができませんでした。愛がないということほど大きな罪はありません。そんな私でも、イエス様は十字架の愛により、赦してくださいました。また「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを立てた」(ヨハネ15章16節)と語ってくださいます。

 すべて自分一人で悩み、つまづきも解決も自分の力でと思っていたのは間違いでした。イエス様は長い間、私が気づかない時にも共にあって、私を待っていてくださったことが今は何よりも嬉しく思います。このごろ義母も、「天国というところはもう痛いことも、苦しいこともない所らしいな」と嫁の私に言ってくださいます。義母の心の中にも少しづつですが、しっかりと愛による寛容と忍耐が通じ、平安へと導かれているようです。     

今、ようやく巡り会えた父のようなイエス様と共に、みことばを良く聞きながら喜んで生きてゆきたいと思います。愛のあふれる人になりたいと願い、娘には「愛」と命名しました。

2001年4月1日