第13日  御霊による神の平安

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)



13章からはイエス様の最後のメッセ−ジつまりイエス様の遺言ともいえる部分であり、あますところなくイエス様のみこころが語り尽くされています。イエス様は堅い決意をもって十字架の死に向かって歩み出されます。ところが、イエス様の十字架の出来事は弟子たちにとっては受けとめがたいことがらでした。弟子たちの中に、不安、恐れ、心配、思い煩いがつぎつぎとわき起こってきます。そこでイエス様は「こころ騒がせないがよい」「おそれてはならに」なぜなら「私の平安を残しておくのだから」と弟子たちに語り、励ましてくださっています。

1 この世では安心と不安は紙一重

 イエス様の与えてくださる平安は「この世の平安とは異なる」ものです。この世の平安というものはあんがい移ろいやすくもろいものです。京都市民の安寧を願って建立された平安神社は昔、大火事を起こしてしまい、住民を大きな不安に包み込んでしまったことがあります。年金による社会保障があるから老後の暮らしは一安心と思っていたにもかかわらず社会保険庁のずさんな管理で、国民の中に一気に不信感と大きな不安が広がってしまいました。創業以来300年の老舗のお菓子屋で、製造年月日の偽装表示事件が発覚し、「おたくもか」と食品メ−カ−への信頼感が大きく揺らいでしまいました。

この世のものに絶対的な安全や安心を求めても、無理なことなのかましれません。人間のすることに完璧な安全はありえないからです。お金に裏付けられた平穏さも倒産で一気に吹き飛びます。健康からくる安心感も癌の宣告を受ければどん底へと落ちてしまいます。家族の団欒でさえ一瞬にして奪われる可能性があります。考えればわたしたちの日常生活そのものの周囲に、不安やおびえや恐れが漂っていて、本当の安心感がどこにもない。そんな思いをお互いがすでに実感しているのではないでしょうか。

さて平安ということばはヘブル語で「シャロ−ム」といいます。朝昼夜、いつでもユダヤの挨拶のことばは「シャロ−ム・レハ−」(あなたに平安があるように)です。シャロ−ムは本来、健全・健康、安寧を指し、精神的にも肉体的にも物質的にも社会的にも満たされている状態を表すことばだといわれています。そして旧約においては来るべきメシアによって平和(シャロ−ム)がもたらされると信じられていました。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与
えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ9:6)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

2 イエス様が与えてくださる3つの平安 

イエス様はわたしたちに「神との和解」「隣人との和解」「自分自身との和解」という3つの平安(シャロ−ム)をもたらしてくださいます。

第1は、神様との和解・平和です。

 人が不安を抱く根本的な原因は、「神との和解」ができていないからです。創造主であり聖なる神様との間で平和条約が結ばれていないため不安が解消できないのです。生まれながらの人間はみな神に対して罪を犯し、神に背を向けて生きていますから神様と緊張関係の中にあります。神様との関係が崩れていたり、断絶している状態を聖書は「罪」(的はずれ)と呼んでいます。そのような罪はわたしたちの心から安らぎを奪い、不安や恐れを忍び込ませてしまうのです。

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ロ−マ8:6)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ロ−マ6:23)

「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。」(イザヤ48:22)

太陽に背を向ければ足下から伸びる自分の影を見て歩くことになります。過去の過ち、失敗、罪ばかりを見つめさせられ、その結果、後悔、良心の呵責、自罰、自己嫌悪に苦しむことになりかねません。ところが悔い改めて神様にちゃんと正面を向いて生きるならば、影は後ろに後退し、自分の過去ではなく光の下にある未来と希望に向かって、新しく生まれた自分を信じて、歩き続けることができるのです。

神様との和解の中に罪人のわたしたちを招くために、御子イエスキリストは十字架にかかり罪の身代わりとなって刑罰を受けて十字架の上で死んでくださいました。キリストの十字架上の尊い犠牲の死によって、神様との間にあった敵意の壁が取り除かれ、神様との和解が成立し、平和が創り出されたのです。キリストの十字架において完全な罪の赦しが差し出されたのです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
(ロ−マ15:13)

第2は人との和解・平安です。

 イエス様は旧約時代の戒律をたった1つに戒めに集約されました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)

人は決して憎みあっていきるために生きているのではありません。愛し合うために生まれてきました。人は互いに愛し合う中に喜びや幸福を見いだすことができるように、愛の神様の「かたち」に似せて創造されました。わたしたち日本人には「愛」ということばがわかりにくいかも知れません。明治時代の文豪・二葉亭四迷が「I Love You」をどのように訳すか三晩悩み続けて、ついに「わたし、あなたのためなら死んでもいいわ」と訳したそうです。名訳だなと私は思います。

聖書は愛を多くのことばで表現しまています。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、」(ガラ5:22)

愛とは「泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶこと」(ロ−マ12:15)です。愛は安らぎです。愛は海よりも広い心です。愛は立場の弱い人々への慈悲、仁、思いやり、こころづかいです。愛は悪を求めないやさしい自由な心です。そして愛は正直に誠実に自分を相手に開くこころのことです。

私がとても大事したいと願っていることは「愛とは相手を尊重すること」ということばです。精神障害者の福祉関係の教育実習で私はこのことばを学ぶことができました。尊重することは、相手を自分と同じ一人の人間として受けとめ、その権利を尊び、相手の中の可能性を信じ、主体性を信頼し、あくまで対等な関係を築こうとする心のことでもあるのです。

お互いに尊重し認め合うことはあらゆる心の交流の基礎だと思います。親が子どもを尊重すれば、夫が妻を尊重すれば、上司が部下を尊重すれば、友達が友達を尊重すれば、多くの人間関係は変化するのではないでしょうか。愛は感情の世界だけではなく、互いを尊重するという認知の問題でもあるのです。

第3は、自分自身との和解と平安です。

 自分で自分を愛せない、赦せない、認められない、受け入れられないと多くの方が人知れず悩んでいます。一番身近な自分を愛せない、いつも一番そばにいる自分自身を赦せない、あっちへ行ってくれと願ってもどこへも行ってくれない自分を受け入れられないというのは、ほんとうに辛いことだと思います。

 他の人を変えることはできません。できることはやはり自分自身を変えることだけです。そして自分を変えるとは、何かをすることではありません。もし、何かできなければできない自分を何とかして変えようとすることではなく、できない自分をまずありのままに受け入れ、ありのままの自分を愛することです。いいかえれば自分で自分を敵にまわさないこと、むしろ味方になってあげることです。そうすれば心の中の自分との闘いに終止符が打たれ平和がきます。そうすればこころに赦しと自由が広がります。この心の自由さがあってこそ、自分を変えてゆくことが大きな楽しみとなり、大きな喜びともなるのです。


そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを
キリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 自分との戦いに終わりを告げ、キリストによって神様との和解に導かれた人々の中には、ラインホ−ルド・ニ−バ−が教えた「平和の祈り」が自然に生まれてきます。彼の祈りは、神との平和、隣人との平和、自分自身との平和を得た、神のシャロ−ムの中に生きる者の祈りとも言えると思います。

「神様、どうか私にお与えください。変えられないものを受け入れる心の平安を
変えられるものを変える勇気をそして、その違いを見極める知恵を。

与えられた一日を精一杯生きることができるように一瞬一瞬を楽しむことができるように
苦しみは平安への通り道であることを受け入れることができるように。
たとえ自分の願い通りにならなくても主イエスがされたように、この罪深い世界をそのまま受け入れることができるように。

もしあなたの御心にゆだねるならあなたがすべてを正しく導いてくださることを
信じることができるように。

そうすれば、私は地上において幸いな人生を送りまた天国においては、あなたと共にある最高の幸せにあずかることができるでしょう。ア−メン。 

以上

2007年10月14日 主日礼拝




  

Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」  All rights Reserved.