今年、わたしたちは「みことばに立つ信仰」を教会の年間主題としています。最近、一人の求道中の方が「礼拝に出席できないとき、礼拝が始まる時間にあわせてその日の聖書の箇所を読んで黙想しています」と話してくださり、私はたいへんうれしく思いました。みことばを土台とし、みことばに聴き従う信仰を養ってゆく教会でありたいと心から願っています。
1 この世の空しさ
「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空、伝道者は言う。 空の空。すべては空。」(伝道の書1:1−2)
ソロモン王の書とされる伝道の書は「空の空」で始まり、日の下の出来事すなわち「この世界」のできごとはすべてがむなしいと教えています。むなしいとは「息を追いかけるようなもの」という意味です。つかみどころがなく消えてしまうものという意味になります。
伝道者は何より知恵・知識を追い求めました(1:16−17)。知恵や知識が問題を解決すると期待していましたが、彼が悟ったことは、「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(18)という現実でした。知れば知るほど実は何も知らないことがわかったからです。知っていた「つもり」にすぎなかったのです。学歴や出身大学で人生のすべてが決まるわけでもありません。高学歴であれば罪を犯さないとはだれも考えません。知識だけではなにも解決できないことが多くあるのです。
伝道者は次に快楽と笑いを求め(2:1)ました。しかしその結論は「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。」(2:1-2)吉本喜劇団の社長が聞いたらがっかりするかもしれませんが、うわべのわらいほどむなしいことはありません。医者のもとに悩みを抱えている一人の患者が訪れました。話しを聞いた医者は「この町にサーカスが来ていてそこのピエロは世界一おもしろい。悩んでないでピエロでも見てきたら気持ちが晴れるから」と勧めたところ、その患者さんが悲しそうにいいました。「先生、実はそのピエロが私なんです」と。人は顔で笑って心で泣いていることも多々あります。あまりにつらくて笑ってごまかすことしかできないことだったあるのではないでしょうか。笑いもまた救いにはならないのです。
伝道者は快楽を求めました。「人の子らの快楽である多くのそばめ」を手に入れました(2:8)。ソロモンには1000人を超える女性がハ−レムを形成していたといわれています。酒にも逃れてみました(2:3)。しかし華やかな宴が去ればいいしれない空しさが漂いました。絶世の美女も20年もたてば、衰えを隠せません。世継ぎ問題で御家騒動や骨肉の争いが繰り広げられるのは古今東西、世の常です。まさに「いろはにおえどちりぬるを」の世界です。
伝道者は大いなる事業を起こしました(4-6)。多くの奴隷たちを使ってソロモン王は7年かけて大神殿を建て、13年かけて大宮殿を建てました。大プロジェクトチ−ムを結成し事業を完成へと導きました。確かに物欲・金銭欲、支配欲、権力欲は大きな魅力です。大きな仕事は人を興奮させます。しかし、伝道者の得た答えは、「片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、
風を捕えるのにまさる。」(4:6)でした。物を多く所有するとことからくる満足感は驚くことに長くは続かないのです。
2 すべてが神の御手の中に
なぜむなしいのでしょうか。それはこの世にあるすべては神のご支配の中にあり、神様をぬきにしては真の充実充足・達成感を味わうことができないからです。「すべてが神の時の中にある」(3:1−13)という真理を聖書は教えます。すべては神の御手の中にあり、神が時を御支配しておられます。ですから人は世界を変えることができず、人が時をもどすことも進めることもできません。全能の神の前に人は小さく無力な存在にすぎないのです。知識や権力にとらわれ自分が神のごとく、すべてを支配しようとする態度を聖書は傲慢と呼びます。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思 いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道3:11)
神のなさることを人はすべて知ることができません。ですからまずこの限界を謙虚に認めなればなりません。伝道者は3章ですでに結論に到達しています。
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」(伝道3:14)
創造主である神のご意志、全知・全能、主権を認め、受け入れ、委ね、従うこと、つまり、「神をおそれることがすべてである」と、古くて新しい真理へと伝道者は導かれたのです。
3 伝道者の教え
それゆえ、後世への遺言として、伝道者はこの書物の結論部分で、若い人たちにあなたの造り主を覚えなさいと奨めています。これが第1の教えでした。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝道12:1)
人生はふりかえれば短いものです。時は思う以上に早く過ぎ去り「そのうちにと思っていたことがとうとうできなかった」という大きな後悔になりやすいのです。わたしは若い日に「そのうちにという汽車は『遅かった』という終着駅に着く」という格言を知りました。焦ったり、思い付きで行動することには失敗がつきものですが、慎重すぎて臆病になりすぎて、神様が備えられた「時」を逃がしてしまい、「何もしなかった」という空しい結果にいたることもたいへん残念なことといえます。してはならないことをしてしまう罪と同様に、すべきことをしなかった罪も神様の前では問われるのです。
西洋ではこんなことわざもあります。「キュ−ピ−(幸福)は後ろからはつかめない」と。キュ―ピ―はうしろ髪がありません。つかむにはわずかな前髪をつかむしかないのです。すべてのわざには神の時があるのですから、創造者なる神を若き日に信じ、神の御心と時を知って生きることにまさる喜びはないと思います。
第2の教えは、神のことばをしっかりと受けとめることです。
「伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。」 (伝道12:10-11)
伝道者は長きにわたる経験から知恵のことばを集め、編集しました。この書に記された箴言は、羊飼いが牧場の羊を導く時に用いる「突き棒」のようなものであり、神を信じる人々を正しく導く役割を果たします。この書に記された箴言は「打ち付けられた釘」のように、しっかりと固定されぐらぐらしない堅固なものです。なぜなら「一人の羊飼い」である神様が語られた真理のことばだからです。みことばはあなたの人生に打ち付けられた釘であり、抜け落ちることもぐらつくこともないのです。
神のことばを、聖書をあなたの揺らぐことのない確かな「人生の指針・道しるべ・羅針盤・地図・航海図」として歩んでゆきましょう。
詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
マタイ7:24「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」
第3は、神を畏れ敬うことです。
人生で最も価値あることは「神を畏れること」に尽きます。伝道者の結論でした。神を畏れることは「すべての人の本分である」(口語)とされ、英訳では「これが人が創造された目的のすべてである」となっています。神を畏れ敬う者として神の前に生きること、それが人生の目的であると伝道者は結論を語ります。彼はなにもしなかった人ではなく、あらゆることを実際に経験した中から見いだした結論ですから、説得力があります。
神様が全てを知っておられる。わたしたちが何をし、何をしなかったかも、すべて知っておられます。神を恐れない者にとって、神は隠れたこともことごとくすべてを知っておられ、犯した罪の償いを求められる聖い「裁き主」として臨まれます。
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
一方、神を畏れる生き方をしてきた者にとって、神は「すべての隠れた愛の奉仕」を知っておられ、天において豊かな報いを備えてくださるお方です。
マタイ 25: 21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
人は創造主の下から離れ、我欲や野心から何かを成し遂げたとしても真の心の喜び、満足感にはいたりません。さらなる刺激を求めます。人は神のなさる全てを知る尽くすことはできませんが、神に従うことはできるのです。
キリストのことばを豊に心に蓄え、父なる神様に従い歩む道に、決して空しさは伴いません。そこには感謝と喜びが満ちることでしょう。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互い に教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向 かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを 問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」 (コロサイ3:17-18)
2007年10月21日 主日礼拝
Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」 All rights Reserved. |