第15日  聖霊の結ぶ実は赦しです

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
(エペソ4:31−32)     



人間の悩みの80%は人間関係であるといわれています。思いとことばと感情と行動の4つをどうコントロ−ルしてゆくかは私たちの生涯の課題といってもいいでしょう。

 パウロはクリスチャンとしての新しい人間関係のあり方について懇ろに語っています。しかもこの場合、「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」(4:25)のことばからも明らかなように、クリスチャン同士のコミュニケ−ションをまず念頭においています。わたしたちのコミュニケ−ションは未信者との間ではうまく機能しない場合があります。なぜなら時には価値観が根本的に異なってしまう局面があるからです。「それはきれいごとね」「それじゃあ世の中生きてはゆけないわね」「それは理想論よ」などなど・・。そこで先ず、クリスチャンである私たちは、キリストの無条件の赦しを受けた者としてふさわしいコミュニケ−ションのあり方を学び、豊にしてゆくことが求められていると思います。

1 ことばに関して

「あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。」(5)
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(29)

 ユダヤでは裁判における偽証罪は大きな犯罪でした。嘘をついて相手を罪に定めることは許されないことでした。証人は常に神に誓って事実を語ることがもとめられました。その証言が一人の人間を「死罪に定める」重みを持っていたからです。

そのような法的なユダヤ社会を背景にして、日常の生活の場においてもクリスチャンは真実を語ることをパウロは求めました。嘘や悪いことばを使うぐらいならむしろ「沈黙」することを選ぶことがふさわしいのです。

11: 12  隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。

 しかし沈黙を守ることよりもさらに建設的な係わりが奨励されています。「人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与える」(29)ことです。現代風にいえば、「その人の長所に目をとめ、引き上げることです。できていないことにではなく、できてることを認め、肯定的なことばかけをすることです。できてないことがあれば、「ここができてないね。でも、ここはできたね」と最後を肯定的なことばで結ぶことです。これを反対にして「最初誉めてあとからけなす」方法をとると、結局、けなされたことしか記憶に残りませんから何の効果も期待できません。ことばの順序を配慮するだけでもずいぶんと心への届き方は違ってきます。人の徳を高め、その人のできてるところを伸ばしてエンパワ−してゆくことは、クリスチャンにふさわしいコミュニケ−ションです。

第3に、真実を語るとは「自分のありのままの気持ち」を語ることです。私たちは本当の気持ちとは別の表現をしてしまうことがあります。たとえば奥さんがご主人の帰りを待っているが連絡もなく酔っぱらって深夜に帰ってくる。「こんな遅い時間までなにしてたのよ!」と怒りの気持ちで迎える。しかしその怒りの気持ちの背後には淋しさや心配があります。どちらが本当の気持ちかと言えば怒りではなく、淋しさや心配ですから、「帰りが遅いので心配してたわ。寂しかったわ。」と伝えることが正直であり真実な態度です。つまり自分をごまかさないことが大切です。自分の真実な気持ちをごまかして偽っていては、相手にも真意と真実は届きません。自分を偽ってはなりません。

2 感情(気持ち)に関して

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(26)とパウロは戒めています。

 今週、1週間「腹立つこと」「憤りを覚えること」「ムっときたこと」がありませんでしたか? 次の日までひきづっていたことはありませんでしたか?。毎日毎日、カッカくることの連続でしたという人もいるかもしれませんね。正直、私はいくつかありました。こまったことに最近は忘れ物が多くて自分にハラが立つことが多いのです。

「怒り」の感情はコントロ−ルすることが難しいものです。一方、怒りを向けられた側も受けとめにくく「売り言葉に買い言葉」でついついお互いにエスカレ−トしやすくもめてしまうことも多いものです。ですから、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」(箴言16:32)と戒められているほどです。

 パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません」と「怒り」と「罪」とを区別しています。わたしたちクリスチャンは怒ることと罪とを同一視してしまい、「おこっちゃいけない、いつでもにこにこ何でも許さなくてはならない。怒りは罪だ。」と思いこみがちです。しかし、よく考えれば、怒りと罪との境界線がしっかり引けないと、ちゃんと「しかること」や「しつけること」「注意すること」「指導すること」「訓戒すること」ができなくなってしまいます。怒りの感情と罪を犯すこととは違うのです。イエス様の行動を見るとこの違いがよく分かります。イエス様は異邦人の唯一の祈りの場所とされていた境内で商売を行う人々に対して激しく怒り、屋台をひっくり返して、ムチをふるって境内から追い払われました。近寄りがたい雰囲気があったと思います。しかしイエス様が用いたムチはもし人にあたっても決してキズを与えない「縄で編んだムチ」であったことが原語から読みとることができます。イエス様は怒っても罪を犯さなかったのです。

 さらにパウロは「悪魔に機会を与えてはならない」と戒めています。「怒り」そのものよりも「怒り続ける」ことが問題となります。怒りの感情は抑圧するのではなく、適切に表現しておかないと怒りが心の中で貯まって腐りだし、「しかえし」や「いじめ」や「復讐」に変質してしまうからです。無視や口をきかないというのもりっぱな復讐です。ため込んだ怒りが暴発して暴力や傷害殺人事件にまでつき進むこともあります。

「日が暮れるまで」とは、ユダヤでは日没から新しい1日が始まりますから、「次の日まで持ち越してしまうこと」を意味しています。つまり、怒りを「ひきづって」しまうことを指しています。怒りの感情に縛られ、自由を奪われ、支配され続けている状態を指します。心配や思い煩いごとをその日の内に神様に委ねきることをクリスチャンは学んでいます。同じように、怒りの感情もその日の内に神様に委ねきりましょう。愛の神に委ねることばかりでなく、裁きの神に委ねることも赦されるのです。

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ12:19) 

そこでパウロはクリスチャンにたいして次のように命じています。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(31)
 捨て去れとは、日が暮れてしまうまでに「切り替えなさい」と理解することができると思います。最善の切り替えは、日が暮れる前に、神に委ねきることだと私は思います。


3 態度に対して

 クリスチャンの世界は完全な世界であり、りっぱな人の集まりだとと多くの人が感じているようですが、残念ながらそれは真実ではありません。心痛めることや悲しいことも起こります。驚くことに「盗みをやめてまじめに働きなさい」(28)とパウロはエペソの教会のクリスチャンに諭しています。奴隷や貧しい人が多かったので生きるために盗みを働く者も教会の中にいたと推測できますし、パウロはそのような現状を認識していました。私たちクリスチャンもこの地上の世界では不完全で無力な存在です。
不完全な者が不完全な者を責めたり批判することは愛を基礎にした態度ではありません。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」(4:30)

 キリストが新しい神の国を打ちたて、世界を完成される「購いの日」に、わたしたちもイエス様のような完全な人間になることがゆるされます。これを「栄化」と神学的には表現します。その日までは、神の子供にされたといえども私たちは不完全な存在なのですが、聖霊を心にいただき「それでもあなたは私のものだよ」とイエス様に認められています。ですから「不安全」というよりは「未完成な存在」と言ったほうが適切かも知れません。大切なことは、お互いが完成するその日までは、未完成な器であるこを認め合い、ゆるしあうことを学ぶことではないでしょうか。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(32)

 クリスチャンには最高のモデルがいます。わたしたちの主が、十字架で罪を赦してくださったことです。悩みの80%以上を占めるという、人間関係の問題の解決の道は、キリストの十字架の赦しの恵みの圧倒的な大きさを仰ぐことの中にあります。「主が赦してくださったようにあなたがたもゆるしあいなさい。」ここに最大の解決策があります。

 私たちが人間関係につまずき悩む時、キリストの十字架の愛と十字架の赦しに心をあわせるならば、聖霊が豊かに働きかけ、聖霊がキリストの愛の実を結ばせてくださることでしょう。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいます ように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ 長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリス トの愛を知ることができますように。」(エペソ3:17−19)



2007年10月28日 主日礼拝




  

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