今日は召天者記念礼拝となっています。それぞれがイエスキリストを救い主を信じる信仰をもち人生を歩まれました。ある者は若い日に、またある者は人生の晩年に、またある者は家族や配偶者の祈りの中で、ある者は神様からの大きな恵みをいただく中で、またある者は人生の厳しい試練のただ中で信仰に導かれました。信仰に導かれた時期と理由はそれぞれ異なります。しかし、共通したことがあります。それは天国に至るただ一つの門を人生で見いだし、その門から入り、信仰の道を生涯、歩み続けられた点です。
聖書は、天国に至る門の特徴を5つ教えています。第1は「ただ一つ」であることです。第2は「小さい」こと、第3は「門から先の道もまた狭い」こと、第4はそのために「見いだす人は多くはない」こと、第5は「永遠のいのち」というゴ−ルに必ず至ることです。
うらを返せば、「結局は滅びに至るしかない無数の大きな門から、たくさんの人々が出入りし、空しい罪の大通りを歩いています」ということになります。
@天国に至る門はただ一つしかありません。あちらこちらにたくさんの入り口があるわけではありません。多くの人々が「結局どの宗教でも同じことですね。昔の人は「分けのぼる麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」と良いことをいったじゃありませんか」と言います。確かに山に登るにはいろんな登頂ル−トがあるかもしれませんが、だどりついた山の頂上からさらに月にゆくにはどうしたらいいでしょう。月を眺めるのじゃなく、地球から月に向かうにはどうすればいいのでしょう。山の頂上と月との間には30数万キロの隔たりが存在しています。ロケットにのって大気圏・成層圏を通過しなければ誰も月へは行けません。キリストは言われました。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
十字架で死なれ3日後に死からよみがえり、ご自身の身代わりの死をもって人類のすべての罪を償ってくださった神の御子イエスキリストこそが神が備えられた唯一の道であり、ただ一つの門であると聖書は教えています。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
A天国に至る門は小さいので、見つける努力をしなければなりません。探し求め、訪ね求める努力をしなければ、あっという間に人生は過ぎ去ってしまうからです。意識して見つけだそうとしなければ、忙しい現代人はゆっくり立ち止まることさえできないまま、押し流されてしまうからです。
「神様よりはお金様、神様信じてなんぼになる、信仰なんて弱い人間がすること、信仰なんてたんなる気慰め、神を信じるよりは自分を信じろ・・」 こんな声が飛び交うなかで、「神を慕い求める思い」はたやすくかき消されてしまいやすいのです。
「求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい、そうすれば見いだします」(ルカ11:9)と、私たちの努力に対してイエス様は報いてくださることを約束しておられます。世の中の風潮に流されてはなりません。天国への門は小さいけれど永遠に通じる唯一の門なのですから。
Bでは、門を見つけたならどうしたらいいでしょう。小さな門ですからスリムにならなければそのままでは入れません。余分なものを脱ぎ捨て、脇に置き、身をかがめて入らなければなりません。
イエス様を信じて歩むことに対してどれほど私たちはあれやこれやと理屈やいいわけを積み重ねていることでしょう。「今は忙しいから」「家の宗教が仏教だから」「なんとなく世間体があって」「いろいろつきあいが多くて」「長男の立場じゃなかなか」「姑がうるさいので」「クリスチャンになったら酒も飲めなくなるし」・・。こんな着ぶくれ状態、言い訳の肥満体では小さな門から入れません。
棺桶の中に持っていけるものはわずかです。無くてならないものは多くありません。へりくつは脱ぎすてて、幼子のように素直な心で信じましょう。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でな ければ、決してそこに、はいることはできません。」(マタイ18:17)
千利休によって始められた茶道は、安土桃山時代のロ−マカトリックの宣教師たちが日本に持ち込んだ聖餐式の作法と深い結びつきがあると言われています。特に茶室の構造は独特です。茶室への入り口は非常に小さく狭く作られています。そのため侍は刀を入り口で預けなければなりません。殿様・大名といえども身をかがめてへりくだって小さな入り口から中に入らなければなりませんでした。
茶の道ではだれも平等であること、身軽にならなければならないこと、傲慢な思いを捨てて謙虚にならなければならないことが求められたのでした。茶道の精神はそのまま天国に通じる道のように私には思えます。天国へ門は小さな門ですからへりくだる心がなければ決して入ることができません。
C小さな門から入った後の道もたいへん狭いと聖書は教えています。広い道を歩くときのようにみんなでお手つないで横一列で進むわけには行きません。とても狭い道ですから一人づつ通ってゆくことしかできないのです。つまり一人一人が、自分の信仰をもって、自分の道を自分らしく歩むことが求められています。日常の場で私たちはいつも周囲を見渡し、あの人はどうだろう、この人はどうだろうと横並び縦並びを気にしながら生きています。しかし、天国に通じる道は狭く、あなた一人が通る幅しかないので、周囲に左右されることなく自分の信仰に目を留めて歩けばいいのです。一人一人に神様の備えられた道を、神の御心と信じる道を、それぞれの賜物と召しにしたがって歩みつづければいいのです。
「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思 うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)
「狭い道」を試練の道、苦難の道、犠牲を伴う道のようにマイナ−なイメ−ジでとらえる必要はないと思います。誰かの真似をしたり、誰かにあわせて生きるのではなく、自分らしい生き方、自分にふさわしい歩き方、神様が私を導いておられるままに自分の道を大切にして歩み続けるといったらいいかと思います。自分を大事にできる生き方は決して苦痛に満ちたものではなく、むしろ楽しい道ではないでしょうか。
昨年、天に帰られたIさんと4年前に天に帰られたTさんのお二人はとても好対照のお友達でした。Tさんは普段は無口でしたが祈り始めると聖霊に満たされて熱く祈られました。けれども早く天国へ行きたいと口癖のように言っておられました。一方、伊東さんは普段よくお話しをされますが、じゃあお祈りをお願いするとたいへん緊張されて「いや、私は口べたで・・」と遠慮がちの方でした。しかし、長い病院生活の間も最後まで感謝の心を忘れず歩まれ90歳の人生を全うされました。一人一人の持ち味も賜物も、そして天国へ至る歩み方も異なります。しかしお二人ともイエス様とともに自分らしく信仰の道を歩み抜かれました。二人とも心から教会を愛し、教会のためによく祈り、よくささげ、奉仕をしてくださいました。会堂のためにも重荷をもってくださっていました。天国で二人は口をそろえて「天国に通じる門は小さいけれど、宇治教会の門はいつまでも小さくちゃいけないよ。教会の門はだれでも自由に入れるように広く大きくしようね」と言われているように私には聞えてきます。みなさんはいかがでしょう。
D最後に、天国の門は小さいけれど、永遠のいのちに至ります。確かなゴ−ルがそこには輝いています。イエスキリストの十字架によって罪の赦しをいただいた者には永遠のいのちが約束されているのです。
「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを 持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日に よみがえらせます。」(ヨハネ6:40)
滅びに至る門は大きく、その道も広く、そして多くの人々がその道を行き交います。 イエスキリストを信じ、永遠のいのちに至る門から入る人はいつの時代も決して多くはありません。教会の召天者名簿に名が記されている方々は、いのちにいたる小さな門を人生で見出し、その小さな入口をくぐり、狭い道であるにもかかわらず、多くの人々が歩もうとする道ではないにもかかわらず、最後まで歩まれ、永遠のいのちのゴ−ルへ到達された人々です。 いのちの冠がそこには用意されているのです。私たちも、永遠のいのちに至る道を歩み続けてまいりましょう。
以上
2007年11月4日 主日礼拝
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