「求めなさい、そうすれば与えられます」とは、一般の人々にもよく知られたことばですが、本来は「いのることを教えてください」と願い出たお弟子たちに対して語られたことばです。しかも前文では、一つの譬え話しが加えられています。真夜中の急な来客のために食事を出したいのだが、パンがない。そこで申し訳ないと思いつつ親しい友達にパンの提供を頼んだけれど、「いいかげんにしてくれ、今何時だと思ってるんだ」と相手にしてもらえず断られた。しかしそれでもあきらめないでどこまでも求めたところ、面倒だけれど友達は床から起きて必要なパンを渡してくれたという譬えです。
この譬え話しには「友達だから、きっとパンをきっと貸してくれる」という信頼と確信が前提にあります。しかし、友達だからといって願い出ればすぐに何でも聞いてくれるというわけではないことも教えられています。友達であっても「熱心に求め続ける」ということがポイントになっています。もちろん友達じゃなければ深夜にパンを貸してくれとはなかなか頼めませんし、また友達じゃなければたとえ熱心に求めても貸してもらうことは期待できません。
1 祈りの大前提
この譬えは神様との関係を現しています。私たちは神様の子供だから、父なる神様は私たちの「祈りにきっと応えてくださる」との確信と信頼が教えられています。
「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」(第1ヨハネ5:15)
さらにイエス様も御子の名によって父に祈ることはかなえられると約束してくださいました。
「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:23−24)
御子の名によって確信をもって父なる神様に祈ること、これは神の子供に与えられている大きな特権です。一般の人々にはキリストの名によって父なる神様に祈ることはおそらく実感としてわからないと思います。ましてや「願いがすでに聞かれた」などという確信はナンセンスと感じることと思います。友達がだから安心してムリを言ってパンを借りることができるように、神の子供たちは父なる神様に、困ったとき悩みを抱えた時にはいつでも相談し、必要を祈り求めることができるのです。祈り求めることができる相手がいる、祈りを聞いてくださる神様がいるということは何と幸いなことでしょうか。
しかし、神の子供という特別な資格のゆえに、父なる神様が願いを何でも聞いてくれるというわけではないこともイエス様は教えてくださっています。神様に執拗に祈り求め続けること無くして、祈りは聞かれないという「祈りの原則」があることをこの譬えは教えています。
2 祈りの原則
1 執拗に祈りなさい。
粘り強く祈り続けること、求め続けることが大事です。祈りは祈りが聞かれるときまで祈り続けるものです。他のことばで言えば、あきらめないで、くじけないで、心をおらないでといえます。
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは 彼らにたとえを話された。」(ルカ18:1)
「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(ロマ12:12)
状況を見ておそれ、失望して祈りをやめてしまってはなりません。祈りの最大の敵は失望です。失望は祈りを私たちから奪い取ってしまうからです。神様の恵みの水路を塞いでしまうことを意味します。状況が苦しくても厳しくても、祈り続けることが祈りの世界の原則です。ですから、あっさりと引いてしまわないで「祈り抜くのだ」という強い意志を持って祈ることです。最初、「熱心に祈る」ということばが浮かびましたが、熱心という感情面よりも大切なことは強い意志だと思いました。静かでも小さな声であってもいいのです。何より重要なことは、くじけない折れない強い意志、強いこころをもって祈り抜くことではないでしょうか。祈りの勇士と呼ばれる人々は、強いこころをもって必要を、あきらめないで求め続けた人々です。
2 行動と結びあわせて祈りなさい。
「求めなさい」を「祈りなさい」と解釈すれば、「探しなさい」「叩きなさい」は何を意味するでしょうか。同じようなことばを重ねて強調することはヘブル文学的な特徴ともいえますが、祈りに伴う多様な「アクション」を指しているとも理解できます。祈り求めていることが導かれるように実際的に「捜し続ける」「叩き続ける」ことが求められていると思います。
クリスマスの夜、天使の告知を受けた羊飼いたちはどうしましたか。いそいでベツレヘムへ出かけ、「飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当て」(ルカ2:16)ました。「捜し当てる」と訳された動詞は「あちらこちらを一生懸命訪ね歩き、やっと見つけだした」という意味ですから、羊飼いたちがいかに行動したか強調されています。「じっと待ってて、やってくるのは年だけです」。
「果報は寝て待て」といいますが、それは「小原庄助さんの理論」であって「主のために水汲むしもべの考え」ではないと思います。
福音は救われるために行いは必要ではないことを繰り返し強調しますが、神様への奉仕において行いの伴わない信仰は死んだ信仰と同じであると繰り返し教えています。
ヤコブ2: 17 「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
祈りと行動が一致する秘訣は献身の心をもっているかいなかにかかわってきます。献身の心とは「主のおととばですから」と「はい」と素直に従う心のことです。献身の心がなければ、主が導かれても「ああでもない、こうでもない」と理屈をこねて聞き従うことをしませんが、献身の心があるならば、「さっと」腰を軽く行動に移すことができます。神様にお仕えする献身の心が整えられていますか。主のしもべとして奉仕する志は整えられているでしょうか。捜すこと、叩くことを惜しんではなりません。
祈りを重ね、ついに捜し出したとしても、その門の「扉が重くて開かない」「未だに堅く閉じたまま」という厳しい状況もあります。閉じられた扉が開くようにするにはどうすればいいでしょうか。
時々時代劇などを見ると大名屋敷の大きな門の前で使いの者が大声で「ご開門」と叫ぶ姿が映し出されます。 しばらくすると中から「何用じゃ」と声がします。「しかしかのものでござる。しかしかのご用件でまいりました。おめどうり願いたくそうろう。ご開門くだされ」と願い出ると、ようやく重い扉が開かれます。扉の前にじっと立っていても、自動ドアじゃありませんから、いつまで待っていてもあかないものはあきません。はっきりと直々に嘆願するさらなる行動が必要です。「何用じゃ」と求められたときに、はっきりと必要を願い出る、かくかくですと簡潔に最も大事なことを申し出ることが必要です。私たちの祈りには優先順位がついているでしょうか。なくてはならないこととなくてもいいこととの区別がつけられているでしょうか。神様に行動していただく領域と私たちが捧げたり、奉仕したり、汗を流して行動する領域とが自覚されているでしょうか。何もかも神様に「丸投げ」のような祈りになっていないでしょうか。
3 御霊によって祈る
ルカの福音者では、「父なる神様が聖霊をくださらないことがあるでしょうか」とこの教えは結ばれています。文脈を丁寧に読めば、祈り求めた神からの答えは、最善の答えは「聖霊」であることが分かります。クリスチャンにはすでに「神様からの最高の唯一の贈り物」として、聖霊が心に注がれ、聖霊は信じる者の心の中に内住しておられます。マタイ福音書の平行記事では神様が祈りに応えて与えてくださる「聖霊」は「良い物」と置き換えられています。したがって聖霊を受けることは、「いっさいの善き物の根源」を受け取ることであり、聖霊を受け、聖霊に満たされることはあらゆる祈りの「基礎」といってもいいかもしれません。これは私たちが学ばなければならない一番大事な点と言えます。
「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」 (1コリント2:11)
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)
御霊によって「忍耐の限り」を尽くして祈ることができるのです。また自分の味方のためにも、自分の敵のためにも、「愛をもって」執り成し祈ることができるのです。繰り返しますが、祈ったことが1発でスッと聞かれるというようなHappy・Answorを求めないようにしましょう。大きなことには大きな祈りの器がいるのです。時間もかかります。神様がそのためにも十分ご準備をされなければならないからです。神様の祝福を受ける私たち自身が祝福にふさわしく整えられるためにも十分な時間が必要なこともあります。
だからこそ、私たちは御霊によって祈るのです。あきらめないで、失望しないで、御霊の愛に満たされて、忍耐の限りを尽くして祈るのです。そして、求め、探し、たたくのです。
「忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)
2007年11月18日 主日礼拝
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