1 人生の時
最近、聞いた音楽の中に竹内マリアさんの「人生の扉」という歌があります。いつの時代にもそれぞれの美しさがあると歌われています。人生は年齢によってその美しさが計られるものではない。それぞれの年代にかなった生き方があり、そこには味があり喜びがあると歌っており、その歌詞にたいへん私は共感しました。弱くなることは悲しい、年をとるのは厳しい、人生に意味はないと人々が口にするかもしれないが、それでも私は生きる価値があると信じると結ばれており、
これからの超高齢社会に生きる私たちへの人生のあたたかいエールだと感動しました。みなさんもぜひ一度、お聴き下さい。
3000年前の古代社会に書かれた伝道の書は一つ一つの「人生の時」を大切に教えています。
生まれるのに時がある(2節)と記されていますが、赤ちゃんが生まれるのに両親はその時を待たなければなりませんでした。
今日のように産婦人科医や病院の都合で陣痛促進剤を打ったり、帝王切開をするのでなく古代では自然分娩によって生まれるのを待つしかありませんでした。また、どんなに長生きをしたいと願っても人工呼吸による延命治療技術などは存在していませんでしたから、自然に任せるしかありませんでした。死の時がきたならばそれを静かにうけとめることで受容したことでしょう。
農夫たちは季節に応じて植物の種をまき、収獲の時期になって実を刈り入れました。種をまく季節を間違えたならば実は結びません。古代の人々は種を撒く時がきたら種を撒くことを自然界から学び取り知恵として凝縮してきました。
興味深いことですが、「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」と教えられています。沈黙の価値の大きさというカウンセラ−の世界では一番大切なことをここから学ぶこともできます。
物忘れが強くなって困りはじめている人は、「捜すのに時があり、失うのに時がある」(6)という教えを聴くことは慰めになるかもしれません。 赤ちゃんの夜鳴きで悩む新米のお母さんには「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある」という教えは育児上の安心感に通じるのではないでしょうか。赤ちゃんにとって泣くことはお仕事ですが、泣くにも微笑むにも時があることをしればお母さんにとってゆとりとなることでしょう。
何事にも定まった時があると聖書は教えていますが、それは運命や宿命という冷たい機械仕掛けのような時をさすものではありません。英語では「in its Time」と訳され、「それにふさわしい時に」という意味をもっています。そしてそのふさわしさが「美しい」ものとされています。
何事にも「それぞれの時」があることを受け入れることは幸いなことです。この世の中でも「機が熟すのを待つ」という態度が重要視されます。聖書はすべてのわざには「時」があると教えています。神のみこころにかなった時があり、神様が導かれる時がふさわしい「最善の時」なのです。ですから時を待つことを私たちは「信仰の基本的姿勢」として学びとってゆかなければなりません。人間的な焦りや不安や欲望から、祈り望むことなく行動してしまうことを「肉のわざ」と聖書は戒めています。
神様が備えてくださった時を「待つこと」と同様に、神様が備えられた時が来たならば、躊躇せず「立ち上がる」ことを「行動の基本的姿勢」として学ぶことも忘れてはなりません。
神様が「よし」とされているのにぐずぐずしていたり、「あれやこれや」といいわけばかりしていてはなりません。神様のなさることの多くは答えがあとからはっきりしてきます。最初から結論を見せて導かれることを神様は好まれないようです。 アブラハムは神様からの召しを受けた時行き先を知らないで旅立ちました。
ヘブ11: 8「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」
神様が備えられた時には「はい」と素直に従いましょう。待つにしても祈りの中で待ち望みましょう。立ち上がるにしても祈りの座から立ち上がりましょう。
2 不思議なほどのバランス
「殺すのに時があり、癒すに時がある」と、正反対のことが記されています。神様にあるならばすべてのことは最善へと導かれ、一方に偏よってしまうことはありません。人間の罪によってこの社会には、「殺す、崩す、戦う」というような悲しい悲惨な出来事が毎日のように起きています。しかし、神様は「癒す、建て挙げる、和睦する」ことを導かれ回復してくださっています。
人間関係において「泣く、嘆く、引き裂く、憎む」ことが起きても、神様は「微笑む、踊る、縫い合わせる、愛する」ことを導かれます。つまり人間の愚かさ、過ち、罪深さを神様がリカバリ−してくださっているのです。破壊者としての神様ではなく、回復者としての愛の神様がおられるから私たちはなおも望みをおいて未来を信じて生きてゆくことができるのです。
神様はこの世界を創造されて時、完成日である6日目に「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)と満足されました。この世界の全てのことは悪しきサタンの手の中にあるのでなく、恵みと愛に満ちた神様の御支配の中にあるのです。本来それはすべて良きものなのです。ですから神様は、人間の罪によって損なわれてしまったものを本来のあり方に回復しようとご計画を立ててくださったのでした。
私たちは嫌なことつらいことが起きると、「それがいつまでも続くもの」と思い込んでしまいます。一時的であったり、単発的であったり、どこかで期限がくるとは思えなくなってしまいます。
いつまでもずーとこのままの状態が続くにちがいないと思い込み続けているとやがて思い込みは確信に変わってゆきます。そして修正ができないほど固められた非現実的な確信は「妄想」とよばれるようになります。妄想が強まると客観的な現実検討ができなくなりますから、人生がとても生きにくく思え、生きることに無意味さを覚えるようになってしまいます。
たとえ悪いことがあっても悪いことばかりがこれからもずっと続くということはありえません。たとえば、いかに寒い雪国でも1年毎日毎日吹雪が吹いているわけではありません。雪の日もあれば曇りの日もそして雨の日もあるのが実際です。そして氷が解ければ春がくるのです。
雲は絶えず西から東へと地球が自転し続けるかぎり絶えることなく流れ続け、そのたびに地上の天気は移り変わってゆきます。そのうえ、どんなに雲が厚くてもその雲の上はいつも太陽がさんさんと輝きわたっています。地上から太陽がまるで消え去ったかのように見えても、太陽は存在しており、一時的に見えにくくなっているだけです。
一方、「良いことばかりが続く」ことを過度に期待することにも注意が必要です。良いことばかりが続くと、悪いことを受け入れる心の準備ができなくなってしまうからです。
「晴天が続くと砂漠になる」というアラブのことわざがあるそうです。良いことづくしの人生というものは必ずしも幸福なことではありません。砂漠化を防ぐには、雨の日も晴れの日もともに必要なのです。
私たちが人生で直面する幾多の悩み苦しみを聖書は「試練」と呼びます。試練には2面性があり、両面から正しく理解することが求められています。
試練から神様が守ってくださること、試練そのものを喜びとし避けないこと、この両面が神様にあって美しく調和しています。
ヤコブ1: 2 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」
1コリ10:13 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
ヤコブ 1:12「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
3 全てが美しい
それでは結論として私たちはどのように「人生の時」を理解したら良いのでしょう。13節にその答えが記されています。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」
まず第1に、神様のなさることは「時に適って美しい」ことを理解しましょう。ここでは「正しい、間違っていない」という客観性に関する言葉ではなく、「美しい」という非常に主観的なことばが用いられています。神のなさることがらに対して善悪、良し悪しのものさしで私たちが計ることは許されていません。神様のなさることはそのときに適ってみな「美しい」のです。
美しいものを見た時、私たちは感動します。ことばを失ってしまうほど圧倒されることがあります。美しさは私たちに「驚嘆、驚き、感動」をもたらすのです。ですから、神の御心にかなった時に従って歩む人生は「GOOD-LIFE」というより「Beautiful-LIFE」といえるのではないでしょうか。神様とともに歩む人生、それは「美しい人生」、いつも感動がともなう人生です。あなたはそのような人生を歩んでおられるでしょうか。
悪いことばかりを探し出して文句をいい、不平不満を募らせ、嘆くことをいつでも選び取ってゆく「癖」を持っている人もいます。一方では、悪いことには目をつむりふたをし、不安と向き合うことを避け、いいことばかり、都合のよいことだけを取り上げる人もいます。しかし神様が私たちに望んでおられることは、「良いこと、うれしいこと、嫌なこと、悲しいことも」すべてを含めて、「すべてのことにおいて」神様を見上げ、神のなさることは美しいと感謝し、神様は私を「Beautiful LIFE」へ導いてくださっていると信じ続けることではないでしょうか。
神様は私たちに「永遠への思い」つまり目に見えないけれど神を信じ、地上のことばかりでなく永遠という時を思う信仰の志を与えてくださいました。人はみな、永遠なる神様のかたちに似せて創造されたのですから、永遠を想う思いが組み入れられています。神様ぬきで人生を生きてゆくことは不可能なのです。少なくても心のそこで言い知れない「空白感」を感じるように創られているのです。人はみな「神様ぬきでは」生きられません。あなたはいかがでしょうか。目に見える現世的物質的なことだけを追い求めて生きることに空しさを覚えはじめておられないでしょうか。
もちろん、私たち人間が創造者である神様の全てを知り尽くすことはできません。神様のすべてを知り尽くすことは人間には赦されていません。知るべき必要なことを神様は私たちに示してくださいました。知り尽くさなくても、信頼して、待ち望むことを神様は私たちに求めておられます。その謙虚な心に対して神様はすべてのことを働かせて最善を成し遂げてくださる恵みの行程を、一つ一つ明らかにし、導いてくださるのです。 なんと感謝のことでしょうか。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:6)
2008年1月20日 主日礼拝
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