第21日  主を恐れることは知識の始めである

主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」
(箴言1:7)

「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。
(箴言9:10)



私は高校まで名古屋で育ちました。名古屋にもミッションスク−ルがありますが、明治22年に創設され、女子教育に大きく寄与した金城学院もその一つです。現在、柏木哲夫先生が学長をされておられますが、金城学院大学の理念には、「主を畏れることは知識の始まりである」とのみことばが掲げられています。金城学院のみならず多くのミッションスク−ルがこのみことばを教育の中心的理念に据えています。ガリレオは「神をおそれずに人を教育すれば、人は賢い悪魔になる」と言いました。知識をどれだけ豊かに蓄えても、もし神様を畏れ敬うという敬虔な精神を忘れるならば、その知識は自分自身と周囲を不幸にしてしまう結果になることもしばしばみられます。謙虚な心に真の知識は宿るのです。

こんなお話を聞いたことがあります。戦争前、日米の将校が会談をしたそうですが、アメリカの将校が「我々は人を恐れないが神を畏れる」といったところ、日本の将校は「我々は人も恐れず神仏をも畏れない」と豪語したそうです。神・仏を敬うことを否定するような荒れすさんだ心に、愛と義は宿ることはできないと私は思います。

1 現代人が忘れている神を畏れ敬うこころ

神を畏れるとは神を怖がることではありません。昔から日本人には「さわらぬカミにタタリなし」いって、神仏の「ばち」を恐れる風潮があります。神様を畏れ敬うというより、カミがくだすかもしれないタタリを恐れるという神道的な感覚が存在しています。ですから凶事があると「タタリ」を祓い清める「お祓い」が必要だと言う感覚を持ちやすいのです。あなたはいかがでしょうか。

聖書が教える「神を畏れる心」とは、罪あるものが聖なるものと出会った時に覚える敬虔さ、畏敬の念を意味します。かつてモ−セがホレブの山で、燃える柴の中から神様の御声を聞き、不用意に近づいた時、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジ35)と命じられ、足からくつを脱いで聖なる神を礼拝したという出来事がありました。聖なるものに出会い、畏れ敬う敬虔な心は宗教心の根源といってもよいかと思います。

神と人とを明確に区分する「聖性」、永遠なる神と有限な人間、聖なる神と罪に汚れている人間との間に存在する聖なる境界線(神道では神の聖域と俗世界を隔てる境界線を結界といいます)が、あいまいになってしまっているのが現代の特徴の一つです。

こうした純粋素朴な宗教的感覚を失って、うわべだけの御利益信仰に走ったり超自然現象をことさら強調する神秘主義的なオカルト運動に走ったりすることを、宗教の「世俗化」といいます。世俗化とは、宗教から宗教性を抜き去り、儀礼習慣や習俗にしてしまい「宗教ごっこ」や「宗教のまねごと」に変質してしまうことを意味します。それは無神論と同様に、人間の心に空しい空洞を作りかねません。宗教学者の島田裕巳氏はこうした現象を「宗教の風景化」と表現しました。つまりあってもなくても特に個人的に重要な意味を持つわけではないが、借景あるいは背景として存在していることに役割があるというような意味です。そんな時代だからこそ、あらためて神を神として畏れ敬う心を回復することが大切ではないでしょうか。あなたはこの1年の間に、手をあわせて「感謝します」と神様に祈りをささげたことが何回ありますか。神を敬い、神に感謝することを忘れた空虚な心に幸せは宿りません。

聖書の冒頭のみことば、全人類に対する最初の真理宣言を思い起こしましょう。

「始めに神が天と地とを創造された」(創世記11

2 神を畏れ敬うことはあらゆる知識の根底

神を畏れ敬う心はあらゆる知識と道徳の根源であることを覚えましょう。17世紀の偉大な自然科学者たちは決して無神論者たちではありませんでした。神のご計画と愛は聖書に記された「ヘブル語やギリシャ語」を通して読むことができるならば、神が創造された自然世界に隠された神の偉大な英知は「数学」という文字を通してきっと読むことができると彼らは考えました。たいへん合理的な論理であると思います。その結果、彼らはさまざまな自然科学や天文科学の法則を発見し、神の叡智をほめたたえたのでした。ここには「宗教と科学の対立」というような不毛な論争はみじんもありません。創造主である神の叡智を数学的に証明したに過ぎないのですから。

「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である」(イザヤ33:6)

西欧の大学においてはあらゆる学問の頂点に「神学」が存在していることを再認識しなければならないと思います。

私は22歳でクリスチャンとなり35年近く、聖書に親しみ続けてきました。毎週、聖書から説教も語っています。30分の説教をするために数時間の聖書の学びを重ねます。神のことばを語る説教は、自分の思想や自分の体験を語ることとは異なりますから、おのずと聖書に向き合い、聖書を繰り返し繰り返し読み、祈りつつ聖書に聴きます。また歴史的に研究され積み重ねられてきた伝統的な聖書解釈・聖書釈義というものを尊びますから、信頼できる注解書も必ず数冊は読み自らがまず学びます。

そのような地味な学びを35年近く積み重ねながら、いまだに実感としては「聖書」の一部しかふれていないなという思いでいっぱいです。つまり聖書はそれほど深みがあります。私は聖書ほど楽しみな書物は他には存在しないということをぜひお伝えしたいのです。

この世にはおびただしいほどの本があふれかえっています。本屋に行けば毎週のように新刊が山積みにされ、同じ量だけの売れ残った本が返品されている光景を目にすることができると思います。しかし聖書に返品はありません。一生涯かかっても読みあきさせない深みが聖書にはあります。もし知的な満足を得たいと思われるならば、聖書という最高峰に果敢に挑んでみてください。きっとあなたを満足させることでしょう。

3 自分を絶対視するという最大の罪

 金城学園の教育理念には「人間がこれまで犯してきた過ちの多くは自分を絶対視することからはじまりました。神という絶対的な存在を認めることによって自分を絶対視せず、他人の人格を認めることができる女性の育成をめざす理念が込められています」と記されています。

なぜ、人は高ぶり、権力を志向し、人を支配することを好むのでしょうか。このことはかつての世界大戦時代の軍国主義独裁者たちのことばかりではありません。現代においても世界のいたるところで独裁政治が見られ、暴力と虐殺が繰り返され、人権が踏みにじられています。みじかな家庭の中で考えても、なぜ親は子供を自分の思い通りに支配しようとするのでしょうか。なぜ夫は妻を支配しようとするのでしょうか。夫婦で共同して生活を築きパートナ−として対等に協力し合う関係であるはずなのに、どうして「だれが飯を食わせてやってるんだ!」「言うこときかないなら出て行け!」などという暴力的なことば妻に向って使うことができるのでしょうか。

神様を知らないと人は自分を絶対視し、自分の権力の下に人を支配させようとします。自分の思い通りに人を動かそうとするのです。そして相手への尊重の念や相手の人権への配慮などはほとんど考慮されなくなってしまいます。これは悲劇としかいいようがありません。高ぶりと傲慢は最大の罪なのです。

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」(箴言8:11-13)

私たちは聖書を通して「天地を創造された」唯一の永遠の創造主なる神様を知ることができます。失われていた神様への畏敬の思い、敬虔な思いを回復することができると思います。さらに、神の御子イエスキリストの教えを通して「天におられる父なる神様の真実な愛と保護」を知ることができるようになります。こうして神様の「聖さ」と「愛」を知ることによってますます神様ご自身を深く理解し、神様との生きた交わりを喜ぶことができるようになるのです。  

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ118

「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
(ヨハネ
147

あなたも神の御子イエスキリストの教えに学び、いよいよ父なる神様を深く知り、神を畏れ敬い一人とさせていただきましょう。

「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」
(箴言19:23)

2008年1月20日 主日礼拝




  

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