今日は6月第3日曜日・「父の日」です。父の日も母の日と同様、アメリカの教会の中から始まりました。1910年にワシントン州に住むドット婦人が、お母さんが病気で死んだ後、男手一つで6人の兄弟を育ててくれた父親への感謝を現したいと、父の日の誕生日に「父の日の礼拝」をささげる希望を教会の牧師に願い出たことが始まりとされています。ドット婦人が父の日に父親の墓に白いばらの花束をおいたことから、父の日にはバラを贈る習慣が定着しているそうです。
日本では「過労死」ということがばそのまま和製英語として世界に通用するほど、お父さんたちは働き尽くめで3人に2人は心身ともに疲れきっていることが厚生労働省の調査で明らかになっています。
家族を養うために身を粉にして働く労働の辛苦も人生の重荷の一つだといえます。
今日の聖書の箇所はイエス様が、人生のさまざまな労苦にあえいでいる人々に呼びかけてくださった有名なことばです。
1 重荷をおっている人
極楽とんぼのようにすいすいと人生を生きているような人はほとんどいません。多くの人は「人生とは長い道を重荷を負って歩むようなもの」と徳川家康が言い残した言葉に共感を覚えることでしょう。かつて石川啄木が「働けど働けど、わが暮らし楽にならざりき、じっと手をみる」と詠いましたが、平成19年の今でも生活苦の中であえぐ人の数は決して少なくありません。バブルがはじけ、リストラの嵐が吹き荒れ、構造的な経済不況で景気が底冷えしてしまった1998年以後、自殺者が8年連続で3万人を越えるという異常事態が続いています。子供の自殺はほとんどいじめが原因ですが、老人の自殺は病気と経済的な困窮、そして40−50代の働き盛りの壮年の自殺は過労が原因と言われています。
人生の重荷には2種類あります。目に見える重荷と目に見えない重荷です。貧しさという経済的な苦しみ、病気による体の苦しみ、やがて年老い死を迎える不安など外からでも知ることができる重荷が目に見える重荷です。昔から「生老病死」は人生の四大苦といわれ続けてきました。もう一つは目に見えない心の中に存在している重荷で当事者にしかわかりません。たとえば、あんなことをしなければ良かったという後悔の念、どうしてあそこで親の忠告を聞いてやめなかったんだろう、なんて自分は馬鹿だったんだろうなどと自分を激しく責め続ける自責や罪悪感という重荷もあります。
外側から人は決して判断できないものです。明るく元気そうにしている人が家に帰れば暗く落ち込み沈みこんでいるというケ−スも珍しくはありません。強がりは弱さを隠すためのカモフラ−ジュに過ぎず、本当は人知れず悩み、「助けて」と心の中で叫んでSOSをだしていることもあるのです。あなたも人生の重荷を負って苦しんでいませんか。助けを求めてはいませんか。
2 わたしのもとに来なさい
イエス様は「わたしのもとに来なさい」と疲れ果てた者を招いてくださいました。私のもとにそのままで良いからすぐに「来なさい」と呼びかけておられます。私たちは「来いといわれてもさすがに手ぶらじゃいけませんよ」と考えてしまいます。お土産を持参していかなければ出かけられないとついつい考えてしまいます。たとえば、もっとりっぱな人になってからとか、もっと修行を積んでちゃんとした人間になってからとか、もっと聖書も読んでからとか、お祈りができるようになってからとか、あるいはいまは暇とお金がないからもっと時間に余裕ができてからとか、いろいろいいわけを考え、イエス様のもとに行く前に自分でせっせと「罪滅ぼし」をしようとしてしまいます。
このままじゃ「神様の前に進み出ることができない」と自分の罪深さを感じる宗教心は大事だと思いますが、「だからもっと立派になって」と、精進努力の方向へ進んでしまうならば、それは神の御心とは正反対の方向に進むことになってしまいます。
もし私たちが神様の前に立つことができるほど自分の力で立派にがんばれたら、私たちに救い主は必要ありません。きよく正しく愛に満ちてやさしくなろうと願い一生懸命努力をしたけれど、結果はいつも失敗の繰り返し。そんな無力な私たちだから、神様は救い主キリストを私たちのもとに送ってくださったのです。自分の中には善を願ってもそれを行なう力がないと知って、キリストの赦しを全面的に受け入れ、行いによる救いから解放された人物がパウロでした。
「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。(ロ−マ7:18-19)
わたしのもとに来なさい、そのままの姿で、ありのままでいいからとイエス様はあなたに呼びかけておられます。あなたに必要なことはただ一つです。 「わたしのもとに今なさい」とあなたを愛してあなたを招いてくださっているイエス様のもとに行くことです。人知れず重荷を背負って苦しみ疲れ果てているあなたを、救い主イエス様は両手を開いて今、待っておられます。
3
やすませてあげよう
休ませようと約束されたことばは「竪琴の弦をゆるめる」という意味です。竪琴もバイオリンもギタ−も弦楽器の弦は普段は緩めておきます。ピンとはったままでは弦が切れてしまいます。疲れた私たちの肉体に適切な睡眠と休養が必要なように、私たちのたましいにも平安と安息が必要なのです。適切な休養は明日の活動のエネルギ−の源となるように、キリストにあってたましいの平安を得ることは生きがいのある充実した信仰生活の力の源となります。
筋肉内の乳酸などの疲労老廃物の蓄積が血行障害やこりや筋肉痛を引き起こすように、心の中の罪が心の痛みを引き起こすのです。
かつて姦淫の罪と殺人の罪を犯しながら王の権威の傘でごまかし続けていたダビデ王は苦しみもだえていました。預言者ナタンに指摘され、へりくだって罪を告白し、神に赦しを願い求めた時、彼の魂は平安と喜びを回復することができました。デビデ王はそのときの苦悩の日々を次のように告白しています。
「幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ」(詩篇32:2-5)
昔、医者で牧師をされている方の講演を聞いたことがあります。重度の不眠症で睡眠薬を飲んでも全く眠れないと訴える患者を診察したそうです。先生はむしろ心の重荷の問題ではと考え、自分は牧師でもあること、もしあなたさえ良ければ心の悩みを話してみないか、聖書には罪を告白すれば平安が与えられることが記されているがどうでしょうと丁寧に個人伝道をしたそうです。少しでも眠って楽になりたい彼は導かれるまますなおに自分の心の悩みを話し始め、罪を告白し始めたそうです。しばらく彼に寄り添ってずっと聞いていると、驚くことにあれほど不眠を訴えていた患者が先生の目の前で、静かにぬ眠り始めたそうです。
この患者の心は、眠れないほど罪の重荷で疲労し苦しみ葛藤していたのではないでしょうか。神は愛する者に心の平安と一つとなった眠りを与えてくださいます。
「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)
神は罪を赦され神と和解した者に平安と幸福をもたらしてくださいます。
「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」(ヨブ22:21)
神との和解はキリストの十字架の身代わりの死、十字架の贖いによって、無代価の神からの賜物として罪の重荷に苦悩する罪人に差し出されました。私たちは十字架で死なれたキリストにあって、豊かな罪の赦し、すなわち神の恵みを頂くことが許されているのです。
あなたは魂の安らぎを求めていませんか。本当の平安を得たいと願っておられませんか。十字架であなたの罪を背負って、身代わりとなって死の刑罰を受けて、あなたの罪を償ってくださったキリストが、あなたを罪の苦悩から救い解放し、平安と喜びを回復してくださるのです。
さあ、今日、そして今、イエス様のもとにためらわずに来て、罪を告白し、十字架のキリストをあなたの救い主と信じませんか。イエス様のもとにきてあなたの重荷をおろしませんか。そして魂の平安を受けてください。キリストの平安という天からの安らぎの中にきっとあなたは憩うことができ、全ての重荷を安心してイエス様にお任せすることがおできになることでしょう。神様からの平安(シャロ−ム)をお祈りいたします。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
2007年6月17日
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