第31日  「神の霊がそそがれる時・・ペンテコステの恵み」

「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、
 あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、
わたしのしもべにもはしためにも、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。」(使徒
217-18




次週はペンテコステ礼拝です。キリスト教会の暦ではクリスマス・イ−スタ−と並んでペンテコステはたいへん重要な祝日となっています。ペンテコステとは過ぎ越しの祭りから「五十日目に開かれる祭り」でユダヤの3大祭りの一つでした。もともとは大麦の収獲を祝う農耕の祭りを指していましたが、後にはモ−セを通して神様から与えられた律法を契約の絆としてイスラエル12部族が形成されたイスラエル民族結成記念日でもあります。一方、新約時代には、イエス様は復活されてから40日間お姿を500人以上の弟子たちに示され、栄光に包まれて天に帰って行かれました。そして10日後の、「ペンテコステ」の日に、約束通り、キリストの御霊である聖霊が弟子たちにくだりました。聖霊を受けた弟子たちは外国の言葉で神の大きな御業について大胆に語り始めたので周囲の人々は驚きあきれました。

「ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが 私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」(217

こうしてイエスキリストの十字架と復活を中核とする福音が世界中に伝えられたのでした。ですからペンテコステの日は、キリスト教会の誕生・創立記念日でもあるといえます。最初の教会は朝9時の祈りの中から、聖霊を豊に注がれて生まれたのでした。そしてエルサレムに誕生した教会は世界宣教という大きな使命を最初から託されていたのでした。

1       ペンテコステはイエス様の約束の成就でした

聖霊の注ぎは、突然起きた出来事ではなくすでにイエス様によって予告され、エルサレムを離れないで待ち望むように命じられていた祝福に満ちた出来事でした(145 8)。 ヨハネ1416-19ではイエス様が父なる神様に願い求められた祈りが成就したことをさしています。

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」(ヨハネ1416-17

それゆえ、聖霊は「約束の御霊」とも呼ばれています。さらに、聖霊はもう一人の「助け主」(16)と呼ばれています。しかも、聖霊はキリストを信じる者とはいつもともにおられる(16.17.20.23)生きたお方です。聖霊は「真理の御霊」(17)とも呼ばれ私たちの心の目を開き、全ての真理へと導いてくださり、いよいよイエス様をより深く明らかに示してくださり、より親密なイエス様との個人的な交わりへ導かれるお方です。
「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」(ヨハネ1526

神の御子が父なる神様とその御心を明らかにしてくださったように、聖霊は御子イエス様とその御心を私たちに明らかにしてくださるのです。

このようにペンテコステの日に御約束通り、聖霊が教会に注がれました。イエス様の御約束はことごとく成就しました。残るイエス様の御約束のことば(預言)は御再臨です。私たちは聖霊に導かれ聖霊に満たされながら、主が再びおこしになる再臨の日を、待ち望みたいものです。

2      教会とクリスチャンの誕生

聖霊が弟子たちに注がれた時、結果的に何が起きたでしょうか。臆病であったペテロが聖霊に満たされ大胆にイエスこそメシアであり救い主であることを証ししました。ペテロの説教を聞いた多くのユダヤ人の目が開かれ、イエスキリストをメシアとして信じ受け入れました。

彼らが「何をしたらいいのでしょうか」と尋ねたとき、ペテロは臆することなく「バプテスマを受け、聖霊を受けよ」と導きました。

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒238

その日、3000の人々がバプテスマを受け、弟子の仲間に加わり、
エルサレムに弟子たちの新しい共同体・教会が生まれたのです。

クリスチャンであることの「外的なしるし」は「水のバプテスマ」を受けること、 「内的なしるし」は「キリストの御霊によって新しく誕生し、キリストの御霊が心に宿っている」ことです。これを聖霊よる「新生」と御霊の「内住」といいます。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。
御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ
35-6

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、
御霊の中にいるのです。
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ロ−マ
89

ここで用いられている「住む」という言葉は、仮住まいや一時住まいではなく定住を指しています。
ずっといつまでもともに住んでくださるのです。

旧約においてペンテコステの日に、モーセを通してシナイ山で律法がイスラエルに与えられイスラエル民族が形成されました。新約において、キリストを通してキリストの御霊が与えられ、クリスチャンと呼ばれる新しい神の民とその共同体である教会が誕生しました。イスラエル民族のように律法に生きる神の民ではなく、キリストの御霊に生かされ導かれる新しい神の民(教会とクリスチャン)が誕生したのです。

キリストの御霊が住まわれることは決定的な意味を持ちます。クリスチャンらしい人がすくわれるのではありません。丁度、鉄が磁石に引き寄せられるように、キリストの御霊をもっている人のみがキリストがおいでになるときに天に引き上げられるのです。キリストに永遠に所有された者はみな、所有者であるキリストの御霊を心に持つ者たちなのです。

3       世界宣教の開始

さてペンテコステの日の出来事は、周囲の人々には「朝から酒に酔っ払ってるのだ」と映ったようです。大きな誤解でした。

ペテロは、私たちは酒に酔っているのではなく、御霊に満たされているのであり、これは「ヨエル書の成就であり、「終わりの日にすべての人に神の霊が注がれるとの約束が成就した」と理解しました。

旧約時代に神の霊が注がれたのは特別な人にだけ限定されていました。神の御霊は王や預言者や大祭司または祭司に注がれただけでした。ところがいまや、キリストを信じる全ての者にキリストの御霊は注がれ、キリストの御霊を心の中に住まわせることができたのです。旧約の王や預言者や大祭司と同様の特権、すなわち御霊の祝福を受けるという大いなる特権に預かったのです。ですから、ペテロは「賜物として聖霊を受けるでしょう」と言いました。神の霊を受けることは旧約時代の人々にとっては最大の贈り物・祝福であったのです。どれほど切望し夢見たことでしょうか。その特権を私たちは受けているのです。

聖霊を受けると「子等は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る」ます。もし聖霊が注がれなければ、「預言」することができません。聖霊を受けなければ、誰も神のことばを大胆に語ることも証しすることもできなくなります。もし聖霊が注がれなければ、青年は「ビジョン」を熱く語ることもなく将来への希望も展望もなく、現状に流されるまま、無気力な閉塞感の中に置かれることでししょう。若者の特徴はその「ビジョン」「夢」の大きさにあります。無限の可能性の輝きにあります。しかし、聖霊の注ぎがなければ、無気力、しらけ、無感動の壁を破ることは難しいことでしょう。

一方、老人は将来の夢などいまさらもつこともできず、過ぎ去った過去の追憶にふけるだけといえばおおげさになるでしょうか。

「かたちあるものはすべてが崩れてゆく」というエントロピ−の法則があるそうです。人間も物質世界も日々新しくされなければ、さびてゆく・すたれてゆく・壊れてゆく、死に向って進んでゆくのは必定です。聖霊が働くことなくしては「いのち」は輝くことができません。

預言者エゼキエルは、無数のひからびた骨がばらばらに散らばっている谷間を幻の中で見せられました。

しかし神の霊がそこに吹き入れられると、骨と骨がくっつき、健ができ、肉がつき、皮膚が張り、人が再創造され、人は立ち上がりました。

「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは 主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。・・主の御告げ。               ・・」(エゼキエル3714

「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
 「(エゼキエル
3626

聖霊が働くところ人は生きるのです。聖霊が働くところ若者は幻を語り合うことができます。聖霊が働くところ老人でさえ大いに夢を語ることができるのです。

未来に向かって可能性が大きく開かれた社会、将来を喜びをもって語り合える安らぎ、失望ではなく希望へと聖霊は導かれるのです。どんな失敗を重ねたとしても、聖霊が働くならば幾度でも再チャレンジ

することができます。試練に圧倒され、干からびた骨同然の状況であっても、聖霊はきっと回復をあたえてくださることでしょう。「神にできないことは何もないのですから」

聖書的な幻や夢とは教会の伝道を通して「神の永遠のご計画」「キリストによる罪の赦しと神の国の完成」の知らせ(グッドニュ−ス)が全世界に宣教されることといえます。

主イエスの世界宣教命令に従い、個々の教会において、聖霊ご自身が聖霊に満たされた人々を用いて、善き計画を立て、実行に移してゆかれることでしょう

2008年5月9日 




  

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