教会のメンバ−が、晩年信仰をもって歩んだ祖母の葬儀をキリスト教式で行い天に見送りました。翌週の礼拝の中で歌われた聖歌602番「変わりなきイエスに栄あれ」を聞きながら大きな慰めを神様からいただきましたと証しされました。おばあさんの突然の死を通して人間のはかなさを痛感させられる中で、永遠に変わることのないキリストを見上げ、永遠の御国にキリストとともに生きる希望と心の平安を受けることができたからでした。
1 永遠の導き手であるイエスキリスト
ヘブル人の手紙の記者は、読者たちの信仰を導いた初代の教会の指導者たちのことを忘れないで思い起こしなさいと教えています。
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル13:7)
なぜなら彼らは生前、ことばと生活において信仰の模範を示したばかりでなく、最後の死の状況においてもキリストを証しした人々であったからです。何よりも大きな証しは彼らが生涯「信仰を抱いて」、地上の人生を全うしたことです。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)
一生涯、一キリスト者として神と社会の中で生きることは、小さなことかも知れませんがこれにまさる大きな証しはありません。私はいつもそのように信徒に語っています。
先日、南京都地区の牧師会があり、ある牧師が葬儀をおこなったそうです。95歳で天に召された老兄弟が牧師の手をとって最後に語ったことばが「我と我が家は主に仕えん」(ヨシュア24:15)であったそうです。若い日にご夫婦で信仰をもち、自分の家族がみな救われ、親族の中から献身者も起こされるようにと願い、祈りが全て聞かれ、親族の中に牧師になった方も起こされたそうです。信仰を抱いて地上の生涯を全うされた兄弟の最後のことばを聞いて牧師は非常に感激したと証ししてくださいました。「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」 (ヘブル13:7)
しかしどんなすばらしい指導者であっても、人間である以上、死を迎えます。いつまでも生きていて導き・励ますことはできない。けれどもキリスト教会には永遠の大牧者であり、永遠の大祭司であるキリストがおられます。神が遣わされた働き人はやがて死をもって地上での人生と使命を終え天に帰ってゆきます。しかしイエスキリストは復活され、いつまでも生きておられ、私たちのために天で執り成し、導き、助けてくださることができるのです。 「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24−25)
キリストご自身も、キリストの教えも、キリストの愛も決して変わることがありません。だからこのキリストを見上げて信仰の生涯を全うしようと呼びかけているのです。
「イエスキリストはとこしに変わらない」(ヘブル13:8)
2 イエスキリストの永遠のことば
「イエスキリストはとこしえまでもかわらない」 このことばは聖書を読む多くの人々に慰めを与えています。というのは、あまりにも激しく移り変わりゆく現代社会の中で、人々が疲れと不安を覚えているからです。人間は基本的に「変化を求めながら安定も求める」という矛盾した2面性を持っています。つまり急激な「変化」を好まないのです。年を取るに従いこの傾向は強くなり、新しいものを受け入れられなくなるのです。電化製品がほとんど英語表記になり、どんどん機械化されてゆきます。お年寄りが今、銀行のATMの前に立ってどれほど使いにくさを覚えていることでしょう。家電やパソコン業界では3ヶ月サイクルで新商品を発売しないと競争に負けてしまうとさえいわれています。
そればかりではなく価値観が多様化し、絶対的な基準が崩れてゆく現象を生んでいます。いろんな考えや生き方が許容される社会になってきています。自分なりのよりどころが無いと、何が正しく、何を信じ、何を基準にして生きていったいいのかわからなくなってしまい、迷いや葛藤が強くなってしまいます。
三浦綾子さんがエッセイの中で書いています。 戦前教師として、絶対天皇制軍国主義の中で、現人神である天皇への忠誠を生徒に教え、国のために死ぬことは最高に価値あることと伝えてきたが、敗戦後、天皇は人間宣言を出し、民主主義という新しい価値観が入って来た。今まで使っていた教科書を墨で塗りつぶさなくてはならない。彼女は自分のよりどころ、自分の正義、自分の価値観を失ってしまったのでした。聖書に出会い、永遠のキリストのことばに出会うまでは、お酒と投げやりな自堕落な生活におぼれてゆくしかなかったと。
人のことばはむなしく消え去り、時代の価値観は時代と共に移りゆきます。確かな基準をそこに見いだすことは困難だと思います。しかし、キリストのことばは永遠にかわることのない「真理」のことばです。キリストの真理の言葉は私たちの信仰と生活の唯一の基準となりうる普遍的な価値を持っています。ですから私たちはキリストのことばに人生を委ねることが安心してできるのです。
「わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」 (ヨハネ8:46)
「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。 真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)
旧約時代の信仰者たちは神の言葉を聞き、従い、神の言葉を人生を導くともしびとして受け入れて信仰生活を送りました。
「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを 守ります。」(詩篇119:67)
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)
だから私たちもパウロがコロサイの教会の信徒に呼びかけたように、キリストのことばにますます信頼して歩みましょう。礼拝において求められることは、カルバンが強調したように「キリストのことばが正しく語られ、キリストのことばが正しく聞かれる」ことなのですから。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに 教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かっ て歌いなさい。」(コロサイ3:16)
3 イエスキリストの永遠の愛
もうひとつ移り変わるものがあります。それは人の心です。ある人が「ころころ変わるからこころだ」といいました。頑固者も困りますが、ころころ考えが変わってしまう人にも困ります。信用していた人に騙されたり、裏切られたり、利用されたりして深い心のキズを負うことがあります。騙されて苦しんで誰かに相談にいったところ「あんたが不注意だからよ!」と責められて、2次被害を受けて、人間不信に陥ってしまう場合もあるのです。これほど辛い経験はありません。
イエスキリストは、そのことばにおいて「真理」ですが、その「愛」においても永遠であり真実です。キリストの愛は決して変わりません。神の愛は永遠です。
「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。」 (イザヤ54:8)
「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。」 (イザヤ54:10)
永遠の愛ということばが人間の世界ではどれほどむなしい形容詞でしょうか。新婚旅行から帰ってきた成田空港で離婚するという成田離婚という言葉さえ流行しました。結婚式場から新婚旅行に出発するために成田空港に行くまでに離婚する「新・成田離婚」ということばさえあるそうです。
しかし神の愛は形容詞の世界ではなく動詞の世界です。そこにはことばの数以上に、行動する実践的な「愛」があります。神は私たちの罪を赦すために、御子イエスキリストをこの世に遣わしました。キリストは神の御子であられたにもかかわらず、栄光を捨て、十字架の死に至るまで父の御心に従われ、みずから進んで十字架にかかり、苦しみをひとりで背負いきって、「父よ、彼らをお許しください」と執り成しの祈りをささげ、自らの死をもって私たちの罪を償ってくださいました。キリストの十字架の死は、作り話の架空のドラマではなく、神の愛がこの世界に証しされた事実なのです。
十字架にかかって罪を背負い、いのちと引き替えに私たちの罪を赦し抜いてくださった本物の愛がここにあります。ですからヨハネは「ここに愛がある」と叫ぶことができたのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 (1ヨハネ4:10)
あなたがキリストの十字架の愛を知ったならば、この世界の作り事の愛やむなしく移り変わる人のことばに依存することから解放されます。偽物の愛でキズついた心は、本物の愛でのみ癒されるのです。そしてあなたを癒し、あなたを救い、あなたを新しく生かす、真実な永遠の愛が、キリストの十字架のもとにあるのです。
イエスキリストは昨日も今日もとこしえまでもかわりません。よみがえられたキリストのことばは真理であり、十字架において示されたキリストの愛は真実であり、永遠にその価値は変わることがありません。
昔の船乗りたちは、北半球を航海する時には北極星を目印に、南半休を航海する時には南十字星を目印にしたそうです。私たちは激しく変化し価値観が多様化する現代社会の中で、イエスキリストご自身とキリストのことばとキリストの愛を、ゆるがない光として仰ぎ、人生の荒海を航海してゆきましょう。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」
(ヘブル13:8)
2007年7月8日 主日礼拝
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