イスラエル・パレステイナ問題 
 中東和平合意に向けて

2000年1月11日   小出隆 宇治バプテスト教会牧師

イスラエル・パレスティナ問題キ−ワ−ド

クリントン大統領
和平仲裁案
パレスティナ
3分割案
第1次中東戦争 第3次中東戦争
国連安保理決議242 オスロ合意 PLOと自治政府 ラビン首相とアラファット議長
エルサレム主権問題 最終地位境界 難民帰還問題 パレステイナ人

イスラエル・パレスティナ最新情報コ−ナ−はここから


21世紀は「和解の時代」と期待されている。国境が溶けてゆく時代、グロ−バル化が進む時代と言われ、さまざまな民族紛争にも共存に向けて和解が進展することが予測される。昨年末から精力的な交渉が継続されているイスラエル・パレステイナ和平合意についての概略を、教会の学習会のための資料として作成する。このレポ−トを通して中東和平のためにクリスチャンが祈るその一助となればと願ってやまない。

1 クリントン米大統領の和平合意仲裁案

クリントン大統領は、2001年1月20日の任期完了までにイスラエル・パレステイナ和平の最終合意の実現を目指して仲裁案を提案し、現在バラク・イスラエル大統領とアラフアット・パレスティナ自治政府議長との間で精力的な交渉が行われている。しかしながら、最終合意は絶望的になっており、クリントン大統領の声明か共同宣言で終わる可能性が強い(1月9日 毎日新聞)と予測されている。ブッシュ次期政権では和平交渉の機運が冷え込む可能性が指摘されており、バラク・イスラエル首相も2月6日に首相公選を控え具体的な成果を期待しているものの、和平交渉の進展が見られず苦境におかれている。イスラエル市民に対するテロが激化している中で強硬派のシャロン・リク−ド党首がむしろ世論を大きくリ−ドしており新首相に選出される可能性が高いからである。

クリントン米仲裁案に対して、バラク政府は基本的に受諾しているが、クリントン仲裁案に反対するイスラエル右派市民や入植者ら約10万人が、8日夜にはエルサレム旧市街を取り囲み大規模な反対デモ集会を開いた。エルサレムポスト誌によれば、25−30万人の反対デモであったと報道されている。

一方の当事者であるパレスティナ自治政府のアラファット議長は、1月4日にエジプトのカイロでアラブ連盟特別委員会の緊急外相級会議が開かれるまで態度を保留していた。会議ではエジプト、サウジアラビア、レバノンなど8カ国の外相級が出席し、仲裁案について協議したが、エルサレムの主権問題とパレスティナ難民の帰還問題で反対意見が続出し、アラブ連盟として仲裁案の受け入れに反対することで一致した。最終決断はアラファット議長に一任されたため、こうしたアラブ諸国の支援を背景にさらに強い譲歩を米・イスラエルに迫るものとみられている(1月5日・毎日新聞)。昨年9月のイスラエル右派の指導者シャロン氏が神殿の丘を訪問したことによって始まった今回の武力闘争は、聖域に立つアル・アクサ寺院になぞらえ「アクサ・インティファ−ダ−」と呼ばれているが、すて゜に350人を越える犠牲者を出し、その大半がパレスティナ人であるため、反米、反イスラエル感情が高まっており、親米派のエジブトやサウジアラビアや、ヨルダンなども米国案寄りの姿勢をとれば指導者の政権基盤に響きかねないこともあり、譲歩しない姿勢が打ち出されたもようである。

米仲裁案の詳細な内容は明らかにされていないが、以下の提案がなされた(エルサレムポスト誌2001年1月)ようである。
1)エルサレムの主権は何らかの形で共有する。(エルサレム帰属問題)
特に聖域である神殿の丘(イスラエル名)の地中部分の主権はイ スラエルに残す。
2)ヨルダン川西岸の95%をパレスティナに返還。(最終地位境界)
3)バレスティナ難民の受け入れは一部を除いて認めず、変わりに補償を行う。(難民帰還問題) 

特に1968年の第3次中東戦争(6日戦争)で旧エルサレム市街を含む東エルサレムが奪還され、イスラエルの支配下におかれたが、イスラエル国民にとって「エルサレムは私たちの心、心を他人に譲るわけがない。」(元女性教師)との強い宗教的歴史的な結びつきがあり、エルサレムがパレスティナに分割譲渡されることには徹底的な反対運動が高まっている。米調停案の3項目を少し検証してみよう。


1 エルサレムの主権問題

1967年の第3次中東戦争でイスラエルはヨルダン領であったエルサレム旧市街を含む東エルサレムを奪還し、管理下においた。イスラエル民族のおよそ2000年間にわたる悲願がついに成就したのである。戦争で瀕死の重傷を負った兵士たちでさえ病院に搬送されることよりも、嘆きの壁の前に行って祈ることを願ったそうだ。ただちにイスラエルはエルサレムに関する3つの法律を成立させ、周辺市町村をエルサレム市に合併し、イスラエルの行政下におき統合措置をとった。エルサレムを東西に分割していた境界線のバリケ−ドも取り除かれ、往来が自由になったのである。ユダヤ人はこの奪還の日にみな歓喜の涙を流した。

これに対してすでに1947年11月に国連パレスティナ特別委員会において、パレステイナをイスラエルとアラブの国に分割し、エルサレムと周辺地域は国連の管理下におくとのパレスティナ3分割決議案を決議していた国連はただちに総会を開き「エルサレムの地位変更は無効であり、措置を撤回すべきである」と決議した。当時の労働党外相アバ・エバンは「イスラエルのとった措置は行政上、施政上でエルサレムを統合、かつ聖地を保護に必要な法を整備しただけである」と主張して反論した。1980年にはエルサレム基本法が国会で制定され、「統一エルサレムはイスラエルの首都である」と宣言された。この宣言に対してパレスティナ自治政府とアラブ諸国は激しく反発し、「東エルサレムはバレスティナ国家の首都である」と主張した。1982年にレ−ガン大統領は新しい中東和平案を提示した。それは「5年間の暫定期間の間に、西岸とガザの住民が自治権を行使する。その暫定期間中に最終的な地位を関係当事者が協議する。」というものであった。レ−ガン大統領は、PLOはテロ集団として交渉相手とせず、イスラエルに対してはエルサレムの首都宣言を明確に反対した。在米ユダヤ人の動向を重んじるアメリカ民主党は大統領選挙の度に、大使館をエルサレムに移転することを選挙公約にあげるが未だに実現できていない。そのため2カ国を除いて各国大使館はテルアビブに移されている。

パレスティナ人の国家樹立と聖地とエルサレムの主権獲得はパレスティナ人と周辺アラブ諸国の共通した目標となっている。ちなみに東エルサレムはアラブ人が人口の90%を占めるアラブの町で、ここに住む住民はエルサレムがいつの日かパレスティナに戻ってくることをアラ−の神に日夜祈っている。

こうした中でバラク・イスラエル首相は、聖地の実質的な主権譲渡を唱えたクリントン大統領の仲裁案を原則的に受け入れることを表明した。アラプ側は神殿の丘を「ハラム・アシャリ−フ」(高貴な聖域)と呼ぶが、最近地下に第3のモスクを建設し、貴重な考古学遺産(人類の歴史的文化遺産でもある)が埋没しているにも関わらずブルト−ザ−で乱暴にも掘り返し破壊しつつあるという。したがってバラク首相は、地中の主権はイスラエル側に残す条件をつけて聖地の主権譲渡に原則同意しているようである。これに対してパレステイナ・アラブ側は聖地と東エルサレムの全面返還を要求しているため、和平合意交渉が座礁してしまっている。さらにイスラエル国内においては、大イスラエル主義に立つ右派政党や宗教政党、右派市民やユダヤ人入植者たちによるエルサレム分割反対者たちの10万人規模の抗議デモが旧市街を取り囲む城壁の前で繰り広げられた(2001年1月9日 毎日新聞)。和平合意に反対する世論の高まりもあり、最終合意は絶望的な雰囲気が日毎に濃くなっている。


2 最終地位境界

1)第1次中東戦争後の領域
1948年5月14日に国連パレスティナ分割決議に基づいてイスラエルは国家樹立宣言をした。新国家イスラエル誕生は周辺アラブ諸国(シリア、レバノン、トランスヨルダン、エシ゛プト、イラク)との独立戦争となった。別名パレスチナ戦争(第1次中東戦争)とも呼ばれている。翌年、休戦協定が結ばれイスラエルは独立を守り、国連で定められた領土をさらに上回る地域(パレスティナ全土の75%を占める)を支配することになった。スイスのロ−ザンヌで開催された国連パレスティナ調査委員会はこれらの地域をイスラエル独立国家の領土と認めたのである。イスラエル国家の誕生が光の当たる部分とするならば、この独立戦争の戦災を逃れるために約71万人(46年難民)のパレスティナ人が周辺アラブ諸国に避難した。独立戦争後、イスラエルはこれらパレスティナ人のイスラエル帰還を拒否したために、ここに国家建国の陰の部分、「パレスティナ難民問題」が発生したのである。この難民問題は後に触れたい。

その後、トランスヨルダンは占領していたヨルダン川西岸地区を自国に併合し国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」に変更、聖地と東エルサレムはヨルダン領となった。こうしたヨルダン王国の対応はアラブ諸国から「裏切り」とみなされ1551年に、アブドッラ−国王はエルサレムの聖域のアル・アクサ寺院前でパレスティナ青年に暗殺された。一方、南の地中海沿いの要所であるガザ地区はエジプトの支配下におかれた。こうして本来、3つの分割案が提案されていたパレスティナの地は、新国家イスラエルとヨルダン王国、そしてエジプトの支配地に3分割されてしまい、パレスティナ人は政治的な独立の機会を失い、シリア、レバノン、ヨルダン、ヨルダン西岸、ガザ地区では、故郷に帰れなくなった難民が劣悪な環境下でのテント生活を余儀なくされたのである。

独立したもののイスラエルは、南はアラブの盟主エジプトによってにらみをきかされ、東からはヨルダン王国が脇腹をえぐるような形で隣接し、四国ほどの面積ではあるが東西の距離が最も狭い場所で15キロほどしかなく、いざ戦争となれば南北に寸断されてしまう防衛上の重大な欠点をかかえたままであった。

2) 第3次中東戦争後の支配地域

1967年の第3次中東戦争(周辺アラブ諸国との6日間の戦闘)の圧倒的な勝利によってイスラエルは国連パレスティナ分割決議で定められた領土のおよそ4倍にあたる広大な地域を支配下におくこととなった。北はシリアのゴラン高原を(水資源の確保)、東はヨルダンのヨルダン川西岸地区を(聖地エルサレムの解放)、南はエジプトからガザ地区を含むシナイ半島全域までを占領し支配下におくこととなった。この勝利によって、イスラエルは国土防衛上の、「東西の地域的な奥行き」を持つことができた。また、南のシナイ半島はエジプトとの和平交渉、ヨルダン川西岸はヨルダンとの和平交渉を有利に導く材料とすることも可能となった。イスラエル政権をになう労働党は、「67年の戦争による占領地全域からの撤退はありえない。防衛上必要な地域は絶対手放せない」、そして「領土の返還によって平和を得る」という現実的な和平政策を基本に据えるようになった。

では、返還相手は一体どこになるのだろうか。ヨルダン王国か、地元パレスティナ住民か、それともPL0か。少なくとも、PLOはテロ集団であり、「PLOとはいっさい交渉せず」との拒否姿勢はすでにイスラエルの国是となっていた。したがって労働党は、ガザ地区の最南端と西岸地区の中のヨルダン渓谷沿いの防衛上の重要地域はイスラエル領として残し、他の地域はヨルダン王国に返還し、ヨルダンの自治区するという案(ヨルダンオプション)を選択肢として考えていたようである。この両占領地区のパレスティナ人の人口は急激に増加しており、イスラエルに住むユダヤ人とパレスティナ人の人口が逆転し、ユダヤ人の国家でなくなってしまうのではないか、このままではイスラエル内に2つの民族が存在し、将来紛争が生じるのではとの危機感が労働党内部にあった。第3次中東戦争によってヨルダン西岸とガザ地区に住んでいたパレスティナ人35万人(67年難民)が再びヨルダンに逃れたため、難民問題がいよいよ深刻化することとなった。

ところが、6日戦争の圧倒的な勝利によって宗教的民族的覚醒が起き、獲得した「イスラエルの地」は本来ユダヤ人のものであり、1センチたりとも領土を放棄する必要はないとの「大イスラエル民族主義」が台頭し、西岸地区とガザ地区の返還に強く反対する意識が民衆の中に拡大するようになった。こうした意識変化を背景にメナヘム・ベギンが率いるヘル−ト(自由)が勢力を伸展させ、1973年にリク−ド(連合)として統合され、1977年の総選挙でついに労働党に替わって政権の座についたのである。ベギン首相は7年間の右派政権時代に、占領地区内の軍事上の重要拠点に、大イスラエル主義の信念を強く持つユダヤ人入植地の建設を推進した。また人口問題解決のためにも積極的に諸外国からのユダヤ人の帰還を受け入れたのである。しかし、入植地の拡大は占領地を返還しようとする場合、既存のユダヤ人入植者の安全をはからねばならず、返還問題をいっそう複雑なものとすることとなった。すでに190を越える入植地に15万人が住んでいる。

このようにイスラエル国内は「平和と交換に、占領地区の中でパレスティナ人口が過密で、しかも軍事上重要ではない地域を返還する」という現実主義路線の労働党と、「占領したイスラエルの地を放棄するべきではない」という大イスラエル主義に立つリク−ド党という2つの政治勢力が拮抗するようになり、一貫した対パレスティナ政策を打ち出すことができなくなってしまった。

3) 安保理決議242

第3次中東戦争中に国連安全保障理事会では中東和平への包括的協議が重ねられ、アラブ支持のソ連はイスラエル軍の全占領地からの全面撤退、アメリカはまず和平交渉を優先することを主張し、「国家安全のために占領地からの全面撤退をする必要はない」とのイスラエルよりの立場を表明した。占領地との引き替えに和平をという基本方針で両者は一致したため、1967年11月に安保理決議242が採択された。
「1)紛争で占領された領土からのイスラエル軍の撤退。2)中東地域のすべての国が安全で、かつ承認された境界内で平和に生存する権利の尊重と確認の2原則が実行されるべき。」と決議。この決議を受け入れた国は間接的にイスラエルの生存権を認めたことになる。イスラエルの生存権、すなわち国家としての存在を承認しないアラブ諸国に対して大きな意味を含む内容が盛り込まれた決議案であった。PLO(パレスティナ民族解放運動)のアラファット議長がこの安保理242を受諾し、イスラエルを国家として承認するのはなんと20年後の1988年12月になってからである。さらに、イスラエルがPLOを正式交渉相手として承認するには、1993年のオスロ合意まで待たねばならなかった。

4) 第4次中東戦争とエジプトとの平和条約

この決議案を巡って交渉が停滞している間に、第4次中東戦争が1973年10月に勃発し、初戦において始めてアラブ側は勝利を収めることができた。またこのときアラブ諸国は始めて「石油戦略」をとり、国際世論の支持を取り付ける新戦術を用い成果を収めた。その結果、石油輸入国であるにEC諸国や日本政府はアラブ寄りの姿勢を打ち出さざるをえなくなり、対応も変化し、当時「アラブ寄り」というより「アブラ寄り」と揶揄された。

こうした政治力学を背景にして、1977年11月19日にサダト・エジプト大統領はイスラエル訪問を決行し、イスラエル国会で「互いに手を携え信頼と誠実さでこの精神的な障壁を取り除きましょう」と演説した。翌年、1978年9月5日から18日まで、アメリカ・カ−タ−大統領の呼びかけで、メリ−ランド州の大統領山荘キャンプ・デ−ビッドにて、ベギン・イスラエル首相とサダト・エジプト大統領の3者会談が2週間の合宿状を行い、キャンプ・テ゜−ピット合意と呼ばれる2つの合意文書「エジプトイスラエル平和条約提携のための枠組み」「中東和平のための枠組み」が成立し調印され、3ヶ月後にはワシントンのホワイトハウスで平和条約が調印された。こうしてついにエジプトとの戦争に終止符が打たれ、イスラエルは全シナイ半島を1982年に返還し完全に撤退した。パレスティナ問題に関しては、「5年以内に西岸とガザ地区にすむ住民の選挙による自治機関を設立するために、エジプト、ヨルダン、イスラエルの間で交渉を行う」と合意された。しかし、ヨルダンも地区住民も交渉をボイコットしたため何ら成果を生み出すことはできなかった。それのみか、イスラエルと単独で和平条約を結んだとエジプトは激しく非難され、アラブの裏切者と呼ばれ、アラブ連盟への加盟資格の停止、経済援助の停止、国交断絶宣言を受け、アラブ諸国で孤立してしまったのである。そしてサダト大統領は1981年10月6日の戦勝記念日にイスラム原理主義者によって暗殺されてしまった。後任のムバラク大統領はイスラエル政策に慎重な姿勢をとったため、両国の関係は冷却化し「冷たい平和」と呼ばれるようになった。

1982年にレ−ガン大統領はシナイ半島返還に伴い新しい中東和平案を提示した。それは「5年間の暫定期間の間に、西岸とガザの住民が自治権を行使する。その暫定期間中に最終的な地位を関係当事者が協議する。」というものであり、住民による自治権行使ということばに修正した。レ−ガン大統領の念頭には、国家としての機能を持つヨルダンと結びつく形で(たとえばパレスティナ自治区案)パレスティナ人の手に占領地を戻すことを示唆していた。この和平案をアラブ穏健派側は歓迎したが、イスラエルは住民の自治はパレスティナ国家の樹立につながるとして即刻拒否をした。

5) PLOの弱体化とインティファ−ダ−の嵐

ヨルダンに本部をおいていたPLOパレスティナゲリラは1970年の「黒い9月事件」以後追放され、南レバノンに拠点を移して、イスラエルへのテロ活動を繰り返していた。そこでイスラエル軍は1982年6月に機械化戦車部隊をレバノンに侵攻させ、PLOの軍事基地を攻撃し壊滅した。このレバノン戦争によって停戦後、約7000名のゲリラがシリア、チュニジア、イラク、ヨルダン、南イエメンなどに追放され、アラファット議長ら幹部もチュニジアに撤退した。レパノンの本拠地をつぶされパレスティナゲリラの受けたダメ−ジは大きく、武力闘争では精鋭イスラエル軍にもはや勝すべがないことを痛感し、政治的交渉路線への変更を余儀なくされた。アラブ諸国からの応援がなかったこともパレスティナ人を失望させた。アラファット議長の指導力の低下は、PL0内部の分裂分派を引き起こす要因ともなり、反アラファット派も台頭してきた。

PL0(パレスティナ解放機構)とは、1950年代末にカイロ大学で学んでいた学生たちを中心に、パレスティナの解放を目標に掲げたゲリラ組織である。1929年生まれのヤ−セル・アラファットはカイロ大学で工学を学び、パレスティナ学生連合を組織し、リ−ダ−となり「ファタハ」を結成した。このファタハは後にPLO最大の組織となり、アラファットは1969年にPLO議長となった。こうした若者たちがパレスティナ人としての民族意識に目覚め、ゲリラ活動を展開することによってアラブ諸国を味方に付け、パレスティナの全土からイスラエルを一掃し、パレスティナ国家を樹立させようともくろんだのである。当初、周辺アラブ諸国は対イスラエル戦争のリスクの大きさを身をもって経験しているため、パレスティナ人の民族意識の高まりには警戒心をもった。挑発的なテロ活動をコントロ−ルするためにエジプトのナセル大統領の主導のもとに1964年にPL0(パレスティナ解放機構)が組織されたのがそのはじまりであった。PLOはさまざまな過激ゲリラ組織の集合体であり、その中でアラファト議長率いるファタハは比較的穏健派に属する。PLOの綱領であるパレスティナ憲章には以下のような条文が明記されている。

第1条、パレスティナはアラブ・パレスティナ人民の郷土である。
第2条、武装闘争はパレスティナ解放の唯一の道である。
第3条、パレスティナ解放は民族的義務であり、アラブの郷土に対するシオニストと帝国主義の侵略を撃退しようという試みである。これはパレスティナにおけるシオニズムの根絶を図るものである。
これらの条文はイスラエルの存在を認めず、武力での撃退を誓うものであり、ユダヤ人に大きな恐怖を与えた。   

レバノンを追放され弱体化してしまったPLOは、イスラエル軍の軍事力とゲリラ活動ではもはや勝機がないことを知った。頼りにしていたアラブ諸国が日頃「アラブの大義」に基づく連帯を強調しながら援助がなかったことに失望し、自らをアラブ人ではなくパレスティナ人であると自覚しその民族意識をさらに強める方向へと向かった。その結果、従来通りの原則主義に基づいて、パレスティナ全土にバレスティナ人の国家を樹立するか、イスラエルの存在を認め、パレスティナの地に隣接してもう一つのミニパレスティナ国家を造るか、基本方針の重大な変更を求められたのである。

そんな中、1987年12月にガザ地区で起きた交通事故をきっかけにして、イスラエル占領に対する抗議集会が開かれ、民衆を巻き込んだ武装蜂起(インティファ−ダ−)へと拡大した。20年間の占領下での屈辱的生活への怒りに満ちた民衆による蜂起はまたたくまにヨルダン西岸地区にも飛び火し、大きな反イスラエル民衆闘争のうねりとなって拡大した。PLOがインティファ−ダ−を完全にコントロ−ルしているわけではなかったが、弱体化したPLOにとって民衆の民族自決を求める蜂起運動は追い風となり、アラブ諸国の支援を受ける好機となった。パレスティナ人の民族意識の高揚を背景に、PLOは現実的なミニパレスティナ国家樹立へと基本方針を変更し、ついに1988年12月アラファットPLO議長はジュネ−ブの国連総会において、「国連安保理決議242の受諾、あらゆるテロ行為の放棄、イスラエルの生存権の承認」を声明したのである。この声明はPLOがイスラエル国家の存在を承認し、イスラエルに隣接してパレスティナ人のミニ国家を造るという基本方針への変更、従来の原理主義からの転換を意味しており、武力闘争から外交交渉・対話路線に踏み切ったことを意味している。テロ集団とは対話をしないと主張してきたアメリカ政府は、直ちにPLOとの公式交渉に入った。こうしてイスラエルとエジプトの和平成立(1979年)、シナイ半島返還(1982年)に続き、PLOとアメリカとの公式協議が開始(1988年)されるに至った。遅々たる歩みではあるが中東和平合意に向けて公的に交渉する土壌形成が培われたのである。武力闘争インテイファ−ダ−は結局のところ、暴動−武力鎮圧−地区封鎖−経済打撃−怨念−暴動と、悪循環をエンドレスに繰り返すのみであり、すでに1000名以上が死亡している。こうした泥沼状態からの脱却が外交的に模索された。

6) 歴史的なオスロ合意

1989年11月、ベルリンの壁崩壊、ゴルバチョフ・ブッシュ会談と米ソ東西冷戦の終結、1991年1月湾岸戦争勃発。イラク支持を表明するという失態を演じたアラファットPLO議長はアラブ諸国の支持を失い、「パレスティナはアラ−の神から与えられた土地である」と主張するイスラム原理主義に立つハマスの台頭によって指導力にかげりが見え始め焦りを覚えていた。一方、イスラエルでは1992年にラビン労働党首が再び政権の座についた。ラビンはイスラエル軍総参謀として第3次中東戦争を勝利に導いた国家的英雄であり、退役後は国防相、駐米大使、イスラエル首相も勤めたタカ派的指導者であり、民衆の高い支持を受けていた。インティフア−ダ−が民衆闘争であることを洞察していたラビンは何らかの自治を与えることなくしては解決の道筋はないことに気づいていた。「パレスティナ人社会の政治、経済の安定性こそが、イスラエルの最大の安全保障」(ペレス外相)と政治的に判断したのである。それまでPLOとの接触を禁じていた法律を撤廃し、PLOと直接対話のための障壁を取り除いた。民衆も軍事的判断能力の優れたラビンが和平合意に動くならばという安心感と信頼感があったからこそ、ラビン首相の重要な決断を受け入れることができたのであろう。イスラエル社会では、絵に描いた餅のような平和思想は通用しないからである。一方、PLOは、難民キャンプへの支援などパレスティナ問題解決に積極的であったノルウェ−に秘密交渉の仲介を求め、次期アメリカ大統領クリントンの支持も取り付けて、オスロ郊外の邸宅で関係者11名が14回にわたる秘密交渉を重ね、イスラエルはPLOを公式に承認し、暫定自治を開始するという合意が成立した。

1993年9月13日、ワシントンにおいて、「イスラエルとPLOが相互に承認し、イスラエルの支配下にある占領地ヨルダン西岸とガザ地区で五年の期間を設けてパレスティナによる暫定的自治を行い、その間に最終的な地位交渉を終了する」という歴史的な合意が調印された。これが暫定自治に関する原則宣言文書(オスロ合意)である。歴史的と言ったのは、この合意によってイスラエルがパレスティナの自治を初めて認め、従来「テロ集団とは交渉しない」と拒絶していたPLOとの直接的公的交渉を始めたからである。すでに触れたように、1988年にPLOは基本方針を変換し安保理242を受諾して、アメリカとの公式テ−ブルについたが、パレスティナ人がいよいよイスラエルの生存権を認め、和平合意に向けての公式協議に入ったのである。クリントン大統領の勧めでラビン首相とアラファット議長が握手をするという劇的なシ−ンが世界中に放映された。

翌1994年5月からヨルダン西岸のエリコとガザ地区の暫定自治が開始され、イスラエル軍は撤退し、替わりにパレスティナ自治警察官(国外に追放されていたかつてのPL0ゲリラ兵士)が着任し、パレスティナの旗が基地には翻った。アラファットは暫定自治政府大統領として群衆の大歓声の中、故郷ガザに帰還した。7月には、PLOアラファット議長、イスラエルラビン首相、ペレス外相はノ−ベル平和賞を受賞した。

しかし、平和ム−ドは急速にしぼんでいった。占領地のパレスティナ住民の大半はPLOを支持しているものの、民衆の経済生活は少しも改善されず失業率は50%に達し貧困にあえいでいた。自治とは名ばかりでさまざまな規制や強硬な封鎖措置がとられ、民衆の不満がエスカレ−トし鬱積していた。そんな不満を吸収するような形で、ガザを中心にイスラム原理主義に傾倒するパレスティナ人組織「ハマス」がますます勢力を急伸させ、オスロ合意に真っ向から反対したのである。PL0は民族社会主義に立っていて、イスラム教色は薄く、キリスト教徒も多いといわれている。しかしイスラム原理主義者は西洋文明に敵意を持ち、西洋の帝国主義の中で造られたイスラエル国家の撲滅を目標に掲げる武闘派組織であり、各地で爆弾テロを繰り返しその存在をアッピ−ルしている。一方のイスラエルでは大イスラエル主義に立ちイスラエルの地の返還に断固反対する右派政党が支持率を伸ばし、ラビンのオスロ合意は「ガザや西岸をテロリストたちの基地にしてしまった」と激しく非難し、反対デモを扇動するようになり、和平推進派と和平反対派の国論を2分する対決と溝はいっそう深まるばかりであった。

そしてついに1995年11月4日、ラビン首相を支持する20万人の平和集会が開かれた会場で、彼は右派ユダヤ人青年イガル・アミルによって暗殺されたのである。翌年の首相公選では後継者ペレス外相ではなく、右派リク−ド党のネタニアフが首相に選ばれるという皮肉な結果となった。ラビンの死に際してアラファットは私邸を弔問し礼を尽くし、未亡人や遺族とも深い家族ぐるみの交際を今も続けているそうである。イスラエル国内のユダヤ人の20%は正統派ユダヤ人、60%は伝統的に宗教儀式を受け入れている世俗的なユダヤ人、20%は非宗教的なユダヤ人と分類されている。一般市民は何よりも国内政治の安定と経済的な繁栄を求めており、紛争にうんざりしており早期の解決を願っているようである。

アラフアット議長は、オスロ合意の最終合意の期限であった1999年5月4日にパレスティナ国家の独立宣言をするとの揺さぶりをかけたが、アメリカ、イスラエルの圧力におされて独立宣言を1年延期せざるをえなかった。そして2000年5月には最終期限がさらに9月に延期された(シャムエルシェイク合意)。度重なる延期は権威の失墜を証明するようなものである。2000年9月15日からの最終交渉を控えた時期に、シャロン・リク−ド党首の神殿の丘訪問をきっかけにして、パレスティナ側の激しいインティファ−ダ−が再燃し、イスラエル治安部隊との間で投石と銃撃戦が繰り広げられ、すでに350人以上が死亡する緊急事態となっている。犠牲者の大半は子供を含めたパレスティナ人である。インティファ−ダ−組織は、子供たちもかり出して全面に立たせ投石させる戦術方針をとっているため、おのずと子供の負傷者や犠牲者の数が増えてゆくことになる。アラブ・パレステイナよりのマスメディアによってはしばしば事実が曲解され報道されてしまうので、冷静な客観的な立場での報道が必要とされよう。

最終期限を迎える緊迫した情勢の中で、歴史的な和解の場となったオスロ宣言調印を取り仕切ったクリントン大統領は任期中に和平合意を実現させたいと願い、新しい和平仲裁案を提示した。アラフアット・パレスティナ自治政府議長、バラク・イスラエル政府首相との間で協議が重ねられており、イスラエルはすでに原則的に受諾を表明している。ヨルダン西岸の80〜95%を返還する案が協議されているがユダヤ入植地域に住む約15万人の間には不安が広がっている。そのため、たとえ入植地はパレスティナの支配下におかれてもユダヤに貸し出すという案も検討されているようである。しかしイスラエル側にはアラブ諸国に対する強い不信感と恐怖感があり、2度とアウシュビッツの悲劇を繰り返さないためにも、自らの国土は自らの手で守らねばならないと言う強烈な防衛意識がある。ヨルダンとイスラエルの間に政治的にも経済的にも不安定で、イスラム原理化してゆく可能性のある、もう一つのアラブ・パレスティナ国家が樹立するとなれば、潜在的な恐怖感から、安全で平和裏に共存できる充分な保証がなければ、国家防衛上の重要な地域を返還することには大きな恐れが伴い、返還は実現不可能なことであろう。


3 パレスティナ難民帰還問題

和平交渉の最後の障壁は、パレスティナ難民の帰還問題である。あらためてここでパレスティナ人の定義をまとめてみよう。パレステイナの地名は旧約聖書に登場するペリシテ人の地に由来する。シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン川西岸、ガザ、ヨルダン川東岸、ヨルダンをあわせた「大シリア」南部一帯を指す。1920年代の英国統治以後に、イスラエルとヨルダン川西岸、ガザ地区を含めた地域を「パレステイナ」と呼ぶようになった。ユダヤ人を含めパレスティナに住む全住民を「パレスティナ人」とかつては呼んでいた。しかし、英国統治時代にユダヤ教徒が大量に移り住むようになってからユダヤ人との区別がなされ、この地に住むイスラム教徒とキリスト教徒のアラブ人のみを「パレステイナ人」と呼ぶようになった(土井敏邦 和平合意とパレスティナ)。パレステイナ人を父に持つ者はパレスティナ人とされる。

1948年のイスラエル独立戦争の時に、周辺アラブ諸国(ヨルダン、シリア、レバノン)とヨルダン西岸、ガザ地区に避難したパレスティナ住民は約71万人と推定される(48年難民)。イスラエル国内の北部ガリラヤ地方には約15万人がとどまった。ただちに、国連パレスティナ難民救済事業機関が設置され救済活動が開始された。停戦後、独立国家となったイスラエル政府は、すでにアラブ諸国から40万人の避難民をアラブ諸国から受け入れており、アラブのパレスティナ人は兄弟であるアラブ諸国が受け入れるべきであると主張して帰還を拒否した。そのために帰る故郷を失ったパレスティナ難民の存在が国際問題としてクロ−ズアッフされるようになったのである。19年後の1967年に第3次中東戦争が始まり、再び39万人の住民がヨルダンに避難した(67年難民) 。1993年には、約300万人(ヨルダンに107万人、ガザに60万人、ヨルダン川西岸に48万人、レバノンに33万人、シリアに32万人)が難民登録をしており、その2/3は難民キャンプ場の劣悪な環境化での生活を余儀なくされている。ヨルダン併合によってヨルダンへの避難民には国籍が与えられたが、シリア、レバノンへ逃れた人々に対しては、アラブ連盟での取り決めに従い国籍が与えられていない。

1998年推計によれば、三重県と同じ面積のヨルダン川西岸に155万人、東京都の1/6の面積のガザには105万人が居住しており、全世界617万人のパレスティナ人の42%を占めている。人口密度は日本の7倍という超過密状態にあり世界一である。高い出生率のため人口は急増加している。そのうえすでにイスラエル国内には約100万人(総人口の20%)のユダヤ国籍のパレスティナ人が居住し、イスラエル人との共存生活を過ごしているのである。国内のパレスティナ人は政治行動への制限、教育雇用機会での差別など「二級市民」扱いをされ、若者たちを中心に強い不満が鬱積している。自治区となったガザやヨルダン川西岸の8都市(ジェニン、ナブルス、ラマラ、エリコ、ベツレヘム、アルハデル、エフラット、ヘブロン)においても、経済的には何一つ向上が見られず、失業率は50%を越え、物価の上昇、治安悪化、道路封鎖、検閲、関税強化、工場設置の規制、通貨規制などきりがないほどの政治的コントロ−ルをイスラエルから受け、自治政府としての機能が働いていない現状と言われている。

一方、現在世界中のユダヤ人の1/3以上に当たる607万人が四国ほどの大きさのイスラエルに住んでおり、1948年の建国以来、人口は6倍に達し、昨年は1年間で13万人も人口が増加している。こんな状況の中で、48年難民・約300万人の帰還を認めるとイスラエル国内のユダヤ人とパレスティナ人の人口比率が逆転し、ユダヤ人国家そのものが崩壊してしまう危惧があり、政府は難民の帰還を拒否しているのである。

クリントン大統領が提案した仲裁案は、難民パレスティナ人のイスラエル国内への帰還を原則的に認めないかわりに、補償をし、現在避難している国で社会復帰するか第3国に定住するという内容であった。ところがパレスティナ自治政府は、仲裁案ではそれぞれの国の政情に左右されると反発し、イスラエル国内への帰還権を認めるように要求しているのである。パレスティナ難民にとってそこが民族的なル−ツ、自らのアイデンティティ−を確認する象徴的な土地であるからだ。アラブ周辺諸国の広大な土地に移り住むことが可能であるはずだが、パレスティナ人の民族感情がそれを赦さないのである。

まとめ

1 イスラエルの建国以来、互いが敵意を向け、完全拒絶をしていた両者だが、イスラエルの国家生存権、パレスティナ自治政府の自治権を相互に承認しあい、公式協議のテ−ブルにつくようになったことは大きな前進ではないだろうか。「ALL or NOTHING」、ただN0!と言い続けるだけの拒否と武力の段階から、外交交渉の段階へとプロセスは変化してきている。いつ崩れて途絶えてしまうかもわからないこの小さな流れを止めてはならない。両政府指導者たちのねばり強い継続的な政治交渉能力に期待したい。

2 イスラエル・パレスティナ問題の背後には、イスラエル・アラブ問題が存在している。したがって、イスラエルとアラブ諸国との間の緊張緩和によってイスラエル国民の中にある潜在的な恐怖感が和らぐことと、イスラエルとパレスティナ自治政府との間の共存精神がさらに成熟することが複合的に醸成される必要があろう。そのためには、すべての武力闘争やテロ行為を放棄することは絶対不可欠である。闘争は、鎮圧−経済的破綻という終わりのない自己破滅の道を突き進むだけである。パレスティナ自治区の民衆の生活レベルの文化的向上、経済的な繁栄がなければ、民衆の不満は治まるはずもない。一般民衆の関心は「政治」ではなく、「暮らし」にあるのはどの国でも共通した本音であるからだ。「パレスティナ人社会の政治、経済の安定性こそが、イスラエルの最大の安全保障」(ペレス外相)とは的を得た指摘である。パレスティナが、イスラエル経済の下請け、隷属状態から脱却し、自立を遂げてゆけるようにさまざまな規制を緩和し、資金援助や経済支援をもって産業復興を支えることが必要ではなかろうか。パレスティナ自治社会の政治的にも経済的にも安定したシステムが、イスラエルの平和への保障となるからであると信じたい。

2 過激なイスラム原理主義とユダヤ教超正統主義(大イスラエル主義)を主張すれば永遠の平行線が続く。敬虔なユダヤ教徒の中にも、1000名ほどの「平和な小径」と呼ばれるグル−プ(家族の肖像 意志 NHK出版)がある。彼らが他の信徒と異なるのは「約束の地をパレスティナ側に返還することは神への冒涜に当たらないと考え、聖書の真の教えは和平にこそある」と考え、和平合意を推進することを願っているという。少数派であってもこのような草の根の世論がユダヤ教社会の中で広がり議論が醸成されることも望ましいことであると思う。

3 最後に故ラビン首相のことばを記す。これはユダヤ人同胞へのメッセ−ジでもあったことであろう。
「パレスティナ人諸君、言わせてください。私たちは同じ土地の同じ土の上に共存する運命なのです。・・・ 私たちは今日、声高くはっきりとあなたたちに呼びかけます。血も涙も、もう充分に流しました。もう充分です。私たちはあなたがたにいささかの憎しみも抱いていません。復讐したいとも願っていません。私たちもあなたがたと同様、家を建て、木を植え、人を愛し、あなたたちと協力して、人間として、自由な人間として尊厳と共感をもって、暮らしたいと願う民族なのです。今日、私たちは平和にチャンスを与え、あなたたちに呼びかけます。もう、充分だと。私たちがそろって「武器よさらば」と言える日がくることを祈りましょう。

天の下のすべてのことには季節があり、すべての業には時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時がある。殺すに時があり、癒すに時がある。泣くに時があり、笑うに時がある。愛するに時があり、憎むに時がある。戦うに時があり、和睦するのに時がある。」 (ホワイトウスでの合意演説 1993年9月13日 71歳)



文献    以下の書物と資料を参考に用いてレポ−トを作成しました。

1  イスラエルとパレスティナ   立山良司  中公新書
2  「和平合意」とパレスティナ  土井敏邦  朝日選書
3  意志・ラビン暗殺からの出発 竪立京子  NHK出版
4  中東和平とイスラエル問題  木村修三  神戸法学双書
5  ブリッジスフォ−ピ−ス ニュ−スレタ−
6  季刊 つのぶえ         中川健一  J&Jミニストリ−ズ
7  シオンとの架け橋・イスラエルニュ−ス  http://www.zion-jpn.or.jp
8  毎日新聞