第7回 ベツレヘム編 羊飼いの野−聖誕教会
2000年3月29日の午後、私たちはイエスキリストの誕生の地、ベツレヘムを訪ねました。エルサレムから南に約10キロ、バスで30分ほど乗れば、小高い丘陵地(標高770m)にベツレヘムの町が見えてきます。
ベツレヘムとは、ヘブル語で「パンの家」という意味です。またユダヤの偉大な王となったダビデが、この町の出身者であったところから、「ダビデの町」とも呼ばれています。現在は人口約25000人のアラブ人クリスチャンの町で、世界中から巡礼者や観光客が押しかけるため、町の中心には巨大な観光バス用の駐車場が建設されています。
1 羊飼いの野原
羊飼いの野
ダビデは少年時代、この地に住む羊飼いとして生活しました。なだらかな丘陵地帯は羊を養うにはふさわしい地であったと思われます。無数の大きな洞窟がいくつも存在しており、寒い夜にはこの洞窟の中に羊を導き入れて、羊飼いたちは夜露から羊を守ることができました。洞窟の入り口で見張れば、野の獣からも羊を確実に守ることができたと思われます。
「さて、このと土地に羊飼いたちが野宿で夜番をしながら羊の群を見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光がまわりを照らしたので彼らはひどく恐れた。」(ルカ2:8−9)
ベツレヘムの12月の気候はそれほど寒くはないそうですが、野宿は困難だと聞きました。それでキリストの誕生を12月ではなく、野宿が可能な春頃にちがいないと考える学者もいます。救い主キリストの正確な誕生の年月はわかりませんが、大切なことは救い主の誕生がまず「羊飼いたち」に知らされたということです。
第1に、まず羊飼いたちこそ、「神の小羊」がお生まれになったことを告げ知らせるのに最もふさわしい人々でした。羊飼いを選ばれたのは神様の劇的な演出とも言えます。神の喜びの知らせ「福音」−グッドニュ−ス−は、日々の羊飼いの生活のただ中で聞かれ、そして語り伝えられました。神の小羊である救い主の誕生は、羊飼いたちによって大きな喜びと共に次々とユダヤの国中に伝え広められたことでしょう。
第2に、貧しい羊飼いたちは、人口調査の対象からはずされていたそうです。彼らはロ−マ帝国というこの世の国においては、価値なしと見捨てられた存在でした。けれども、神の永遠の王国の王であるイエス様はそんな羊飼いたちを真っ先にみもとに招いてくださったのです。神の国は、神の救いを待ち望む彼らのものだからです。りっぱな王宮や貴族の館でお生まれになったならば、城門や番兵にはばまれ、羊飼いのような貧しい者、無益な者とみなされた人々は、救い主とお会いする恵みを奪われてしまったことでしょう。
ベツレヘムの野にはたくさんの羊飼いの古いお墓がありますが、そのうちの二つには「あれを見たところに埋めてくれ」という碑文が刻まれているそうです。天使の御告げの後、天の軍勢が現れ彼らの讃美が野原に響きわたり、神の栄光が地をおおったと聖書は記しています。もし彼らがこの出来事の目撃者であるならば、その感動を生涯を忘れることはなかったことでしょう。
2 ベツレヘムの降誕教会
降誕教会礼拝堂
ペツレヘムの町の中心に要塞化された大きな「聖誕教会」か゜建てられています。皇帝コンスタンティヌスが325年に建設し、現存する世界最古の教会堂とされています。6世紀に皇帝ユスティアヌスによって現在の形の会堂に改築されました。現在この聖誕教会はロ−マカトリック教会、ギリシャ教会、アルメニア教会によってそれぞれの聖域が決められ、共同管理されています。
ギリシャ正教会の祭壇の地下洞窟には、イエスが生まれたと伝えられている飼い葉桶の跡があり、東方の博士たちを導いた星を形取った銀の星飾りがはめ込まれています。そこには、「ここにて、イエスキリスト生まれたまえり」とラテン語で記されています。残念ながら私たちは今回は見学ができませんでした。
聖誕教会の大混雑を避け、私たちは「聖誕の洞窟」の北側に隣接するカトリック・フランシスコ会の「聖カテリ−ナ教会」をゆっくりと見学しました。毎年12月24日に盛大なミサが行われ、その様子は世界中にテレビ中継されるそうです。
ところが今年は、ベツレヘムでのすべてのクリスマス行事が中止となりました。バレスティナアラブ人の町であるベツレヘムの治安状態が悪化しているためです。外国からの巡礼者も立ち入り禁止状態となっており、すべての商店もシャッタ−をおろしてひっそりと静まり返っているそうです。20世紀最後のクリスマスを聖誕教会で祝うことができないという、この事実は私たちにあらためて20世紀がどのような100年間であったかを突きつけているように私には思います。
20世紀には世界戦争が2度にわたって繰り広げられ、人類の最大の脅威、悪魔の兵器である核爆弾がついに広島と長崎で使用されました。過去1900年間に行われた戦争による死者よりも多くの人々が犠牲となり血を流しました。その後も各地でさまざまな民族紛争が勃発し、難民が続出し、子供たちが飢えや病気で毎週25万人以上も死亡しています。その子供たちを救う費用は年間25億ドルと算出されていますが、この金額はアメリカのタバコ会社が使う年間の宣伝広告料と同額だそうです。そして日本の企業が使う接待社交費とほぼ同じだそうです。世界的な視野で見れば、貧富の差はまますます拡大し、富める者はまますます富み、貧しい者はますます貧困にあえぐという状況がおきています。そして物質的な繁栄を享受しているのは、日本も含めて世界の中のほんの一部の国々にすぎないことを、しっかりと認識しておく必要があると思います。クリスマスが物に満ちあふれ、物質文明を謳歌する商業主義的なものとして過ごされるならば、神様は深い痛みを覚えておられるのではないでしょうか。
3 家畜小屋の飼い葉桶
「ところが彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ2:6−7)
羊飼いの家
イエス様は「馬小屋の飼い葉桶」の中に生まれたと多くの人々がイメ−ジしています。ところが、ベツレヘムは荒野で水がたいへん少ないため、毎回大量の水を飲む馬を飼うことは不可能でした。羊やらくだやロバならば1週間に1〜2回の水で十分養えましたが、馬を飼うことは無理です。そこで一般の住民は大きな洞窟を捜し、そこに羊や家畜を入れ、奥にある適当な岩を削ってそこに窪みをつけて、飼い葉桶としたのです。ですから御子の誕生の場所は馬小屋ではなく、洞窟だったといえます。
さらにベツレヘムのような小さな村に宿屋などあろろうはずがありません。旅人をもてなす習慣があるユダヤの国では、どの家庭にも客を泊める部屋が用意されていましたが、人口調査のために帰ってきた親族でどこの家も一杯だったと思われます。羊飼いたちが羊を外に連れ出して野宿していたので、からになっていた洞窟にヨセフとマリアは入り、一夜を過ごそうとしたのでした。現地に行ってみますと、洞窟文化といったらいいのでしょうか、生活の場と洞窟が密接に関連していることがわかってきます。
ロ−マの古文書には、皇帝ハドリアヌスが、イエスの生まれた場所にわざとジュピタ−の神の像を建てたと記録されています。キリスト教の浸透を恐れたからだと思います。ベツレヘムに住む多くの羊飼いたちが救いに導かれ、彼らを通して知らせが全国に伝えられたので、皇帝もその勢いを無視できなかったからではないかと推測できます。
たいへん興味深いことですが、かつてイスラム教徒が教会を破壊しようと侵入したときに、3人の博士の絵を見つけ、彼らは東方に住むアラブ人なのだからこの教会は、アラブ人にとっても聖所だとみなし、かえってたいへん手厚く保護したそうです。そのようなエピソ−ドもあり、ベツレヘムにある「聖誕教会」は破壊されることなく今日まで保存され、世界最古の教会として知られるようになりました。私たちもこのゆかりの地で、「きよしこの 夜」を讃美しました。
2000回目のクリスマスが近づいてきました。あなたの心にメリ−クリスマス!