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キリスト教世界観


                                一つの物語としての聖書】      

   
                          マイケル・ゴーヒーン
       
                             (トリニティ・ウェスタン大学、リージェント・カレッジ大学教授)

I    福音書から始めて
今回の講演では、聖書を一つの物語として読む、ということをお話ししたいと思います。
先ず物語とは何かという説明をし、次ぎに聖書という書物が確かに物語なのだと
論じることもできるのですが、その方法では、聖書にはっきり書かれていない
カテゴリーから始めて、福音をそのカテゴリーに当てはめるという危険を冒す事になります。
そこで、私たちがいつも立つべき出発点、すなわち福音そのものから
始めたいと思います。


イエスは良い知らせを告げ知らせました。神の国が歴史に介入している、という知らせです。
これは新聞の宗教欄でとりあげるような種類の宣言ではありません。
新聞の第一面を飾るような世界を揺るがすニュース、CNNのヘッドラインニュースです。
これは、イエスにあって御霊によって、神の癒しの力が歴史に介入した、という宣言です。
つまり神が全世界と全人類を回復し、もう一度人類が
神の恵み深いご支配のもとに生きられるようにする、
という宣言なのです。
A    福音の要約
ここで福音とは何かということを、聖書全体から見て行きましょう。
旧約聖書にはアダムとエバへの約束から始まる贖いの物語が語られています。
イエスが福音を告げ知らせたのは、その贖いの物語のクライマックスでした。

全世界を新たにする神の力が、今、イエスにあって、御霊によって現されている、
と宣言したのです。 
 
この神の力はイエスの生涯と行いにおいて現実に示され、イエスの言葉によって説明されました。 
イエスは十字架で悪の力と戦い、決定的な勝利を収め、復活では新しい創造が始まりました。
すなわち、来るべき世によみがえるという命にイエスが長子、あるいは初穂として入られたのです。
昇天する前には弟子達を呼び集め、ご自分の使命を継続するように命じました。その使命とは
イエスの再臨まで、弟子たちが生き方、言葉と行いによってこの福音を知らせるというものです。
現在イエスは神の右におられ、力をもって全世界を治めておられます。
御国の福音とは、主がすべてを回復して王として治めるというもので、
クリスチャンは今その福音に生き、その福音を伝えています。
その時、クリスチャンを通しご聖霊によって福音を知らせているのはイエスなのです。     
そしてついに最後には、すべての人が膝をがかめ、イエスこそが造り主、贖い主、
そして主であると、告白する日がきます。
しかし、その日が来るまでは、
教会はみ国の福音を知らせるという御聖霊のお働きのために用いられるのです。
B    福音の性質
さて、以上のように福音を短くまとめますと、重要な点が見えてきます。
第一に、福音は力である、罪によって歪んだ世界を正すところの「力」なのだという点です。
福音は、教理や神学、あるいは世界観というよりも、すべてを新たにして救いに至らしめる
神の力です。福音は、神の霊がすべての被造物を回復するための手段なのです。    
第二に、福音の力は「回復する」力、被造世界を罪から「回復する」ものだという点です。
福音の基本にあるものは、創造と堕落、そしてあがないです。
イエスは、良き被造世界を声高らかに「よし」とし、その世界を汚した罪に対しては
No」と断言しました。  福音は造られた世界を罪から「回復して」新たにします。
西洋の教会の歴史では、あがないと言うものが、被造世界の救いというよりも、
被造世界からの救いであると誤解されてきました。しかしイエスが福音を伝えたとき、
イエスは良き世界を罪の力から解放し、回復して行ったのです。    
第三に、福音の力は包括的です。あらゆる分野に及ぶという点です。
福音は神の国の福音です。
「神の国」というのはイエスの伝道と奉仕の中心だったにも関わらず、

その意味はあいまいなものになってしまいました。
その結果、救いの及ぶ範囲というものが、人間だけ、いや人間の魂だけに限定されてしまいました。
ところが聖書によれば、「神の国」とは、人間を含む全世界を神様が治めることです。
イエスが成し遂げた「救い」というのは、ありとあらゆるものに及びます。
「神の国」はその点を強調しているのです。神の力によって高く挙げられたキリストは、
ご自身の死と復活のゆえに私たちを御聖霊によって回復する。
つまり、私たちがキリストの主権とみ言葉のもとにもう一度生きられるようにするのですが、
その回復のみ業は、実は私たちの生活のすべての分野に及ぶのです。
第四は今日のお話の中心です。旧約聖書で贖いの物語が展開してきたのですが、
イエスと福音はその物語の成就なのだ、という点です。
紀元一世紀のユダヤ人は、神の贖いの歴史がクライマックスに達するのを
待ち望んでいました。イエスが歴史に登場して来たのは、ちょうどそのような時でした。
当時のすべてのユダヤ人は「神は世界を贖うために最終的で徹底した行動をとるのだ」
と信じていました。彼らまた、世の終わりにその贖いの物語が頂点に達するということも
知っていました。ただ、誰が、いつ、どのようにそれを行うのか、その時まで如何に
生きるべきか、ということに関しては、ユダヤ人の間に意見の相違があったのです。しかし、
神の贖いの歴史が終わりに近づいていることは皆が知っていました。そのような時に
現れたイエスは、ご自身が来たことによってその終わりの時が来た、と語りました。 
自分こそがその贖いの物語のクライマックスなのだと宣言したのです。   
      
ところがこの終わりの時はまだ完成している訳ではありません使徒1:6-7)。  
つまりイエスの言葉に注意するとわかるのですが、確かにイエスは旧約聖書の
物語の成就なのですが、その物語はまだ完成していなとも言えるのです。   
第五、最後の点に移りましょう。教会はこの福音に欠かせない存在だという点です
イエスはこの福音を伝えるためにモハメッドのように本を書いたのではなく、
教会という共同体を作ってこの福音を委ねました。教会というものは御国の福音を
世に知らしめるために遣わされました。そこにこそ存在意義があるのです

教会は、聖書の物語に生きる者とされたのです。
II    人生は物語によって形作られる
誰の人生でも何かしらの物語によって深く影響されます。人間も、人間の住む世界も
そのように造られています。
例えばですが、森の中である狐が木の枝にとまっているカラスを見上げてその鳴き声を
ほめ、カラスに歌を歌ってくれと頼んだとします。その場面だけ見たら、狐の発言の
意図は分かりません。しかし何がしらの物語があると分かってきます。
カラスをほめて歌わせようとしたのは、カラスの警戒心を解くための狐の戦略かも
しれません。あるいは惨めなカラスを励まそうとしただけの親切な狐なのかもしれません。
森の動物達で聖歌隊を作ろうとしている音痴の指導者かもしれません。
想定する物語によって出来事の意味が全く違って来てしまいます。実はこれは
イソップ物語の一つです。カラスがチーズを加えて木の枝にとまっていると、おなかのすかした
森の動物達が次々にやってきてはそのチーズを何とか取ろうとするというお話です。
狐がほめると、愚かなカラスは歌おうとしてチーズを落とし、狐はそれをとって逃げてしまう、
というのがお話です。教訓は「おだてにのるな」というものです。
 
ここで私が言おうとしているのは何かと言いますと、
一つの出来事の意味というものは、物語という枠があって
始めて理解できるということです。
私たちの人生という出来事もそうです。レスリー・ニュービギンはこのように言っています。
「個々人の人生の意味は人間の歴史をどう理解するかによっている。」
ここでニュービギンが人間の歴史と言っているのは私たち一人一人が
勝手に作ったお話しというのではありません。
これは世界全体をどう見るかという世界観の中心的な部分のことです。
つまり、宇宙の歴史をどう見るかによって人生の意味が違ってくるのです。

世界がどのように始まり、今どのような状態で、どこに向かっているのか。
この理解が人生の意味を理解する根本的な枠組みとなっているのです。

物語こそが人生を解釈する方法なのです。
N.T.ライトは、「物語は世界の現状を語る最善の方法である」と語っています。
世界を物語によって理解できるように、と神ご自身が世界を造られたから
なのです。

西洋社会の世界観も一つの物語です。ヒューマニズムという物語です。

ニュービギンは西洋人に関して次のように語りました。 我々の現代文化では
二つの全く違った物語が語られている。

一つは適者生存という進化の物語、文明が始まり、科学技術によって人間が
自然を支配してきたという物語


もう一つは聖書の物語。
つまり、創造、堕落、イスラエルの選び、
そしてメシアの到来による神のご目的の達成、という物語だ。


この二つは互いに相容れない物語である。
一言、日本の状況に触れさせてください。その前に先ずニュービギンが西洋の
教会について述べたことを申し上げます。
聖書の物語と西洋のヒューマニストの物語には 共通点もあります。

第一に、両者とも「これこそが世界の物語として真実だ」と言っています。
第二に、そのため、両者とも包括的です。
     
つまり、両者とも、社会、文化、政治、個々人の人生、といったすべての分野に
      影響を与えます。
第三に、両者とも共同体がその物語の中で生活し、それを表現しています。
      西洋文化の共同体、つまり北米とヨーロッパの国々はヒューマニストの物語によって
      形造られています。教会は聖書の物語によって形造られるべき共同体です。
第四に、両者とも宗教的な物語です。
両者とも信仰、あるいは仮定に基づいているからです。
      ヒューマニストの物語は中立だが、聖書の物語は宗教だとよく言われます。
      しかし実際には両者とも信仰によっているのです。
第五に、両者とも真実だと言っていますので、すべての人がその物語を
     信じて生きるよう招かれています。
      ヒューマニストの物語と聖書の物語は相容れません。違った物語です。
      もし教会が聖書に忠実ならば必ず何がしらの葛藤が生じるはずです。
日本の状況はどうでしょう。私は日本の専門家でもなく、皆さんの状況を良く知っている
訳でもありませんが、一つだけ言わせていただけることがあると思います。
世界には大きく分けて4つの物語があります。キリスト教、ユダヤ教、
イスラム、そしてヒューマニストです。 
この四つとも実は何がしらの形で旧約聖書からの深い影響を受けています。
旧約聖書は世界を一方向に進む歴史としてとらえます。神の贖いの業が
展開して行く歴史です。
ところが、古代の物語、そして東洋の世界観と宗教は必ずしも世界を、
歴史あるいは物語としてとらえていないのではないでしょうか。
III    一つの物語を語る聖書
聖書では天地創造と人間の堕落を背景にして、一つの贖いの物語が展開しています。
N.T.ライトの言葉を借りれば、聖書で語られているこの聖なるドラマは
「全世界の物語であり、公の世界、公共世界の真実」なのです。
聖書が一つの物語ならば、世界がどのようなものかを語っている事になります。
神がこの世界を造られた、しかもこのようなものとして造られたのだと言う事になります。
神の造られた世界がどのようなものかを伝える最も基本的な方法は物語です。
もちろん聖書の物語を一民族や一宗教の民話と考えてはいけません。
聖書は世界全体について語っているからです。それは公共世界、公の世界での
真実なのです。

聖書はあらゆる時代、あらゆる文化に住むあらゆる人々の現実を包み込んでいます。
その物語は万物の創造で始まり、万物の更新で終わっています。
そしてその間の歴史の意味を語っています。
ですから、私たち個々人の人生の物語と現実も、その大きな物語の一部として
位置づけする必要があるのです。
エリック・アウエルバッハは、信仰を持っていないユダヤ人の文学者です。
彼は、ホメロスのオデッセイと旧約聖書の物語の間には著しい対照が見られると言います。
聖書の物語は、「ホメロスのように数時間、読者の現実を忘れさせようとするのではなく、
現実を乗り越えさせようとする。自分たちの人生はこの世界の一部であり、
世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくれる。
世界に起こるあらゆる事はこの歴史のなかの一つの要素なのだと理解する。
世界について知られているすべての事が、神の計画の一部としてとらえるのである。」

アウエルバッハが言おうとしているのは、こういう事でしょう。
私たちが小説を読んだり、映画や演劇を観るときは、現実世界から数時間離れ、
作者が創造した世界に入ります。しかし私たちは必ず現実に戻ってきます。

何か学んだことを期待して。
しかし、これは聖書の物語のあり方とは違います。
聖書が語る内容は、現実であり現実世界がどのようなものか語っているのです。
私たちは聖書の語る世界に生きるよう召されている、聖書が見るように
世界を見るよう召されているのです。
しかしながら、多くのクリスチャンは聖書を一つの物語としては見ていません。
世界の諸宗教を研究するヒンズー教の学者がいて、ある時クリスチャンの学者であり
宣教師であったレスリー・ニュービギンにこう話したことがあります。
あなた方宣教師はインドに住む私たちに聖書を伝えるとき、
聖書を一宗教の聖典として示していますが、私にはそれが理解できません。

聖書は一宗教の聖典ではない。インドには聖典ならたくさんあって、
これ以上必要ありません。しかし聖書は、全被造世界と全人類の歴史に関する
独特な解釈です。人間のことを、歴史に対して責任を持ち歴史に主体的に
関わる存在として見ます。
これはユニークです。世界の宗教書の中で、
聖書と比較できるものは何一つありません。
私たちは聖書をバラバラにしてしまいました。
道徳の部分、組織神学の部分、デボーションの部分、歴史的批評的な部分、
物語の部分、また説教の部分。
聖書がこのようにバラバラにされてしまうと
全世界の歴史を包み込むような物語を見失ってしまいます。

その結果、私たちの周りにある包括的な世界観の力に対抗できなくなるのです。
色々な部分は結構ですが、その部分は、あらゆる文化的側面を包括する世界観の
一部として位置付けしなければならない。

その世界観が私たちの人生を形造るのです。
IV    6幕の劇としての聖書
私は別の聖書学者と二人で「聖書のドラマ-私たちは聖書の物語のどこにいるのか—」
という本を書きました。そこでは聖書を6幕の劇としてとらえています。
第一幕で神はすばらしい世界を造り出します。人間をご自身の像に造り、神とともに
     歩めるようにし、神の造られた世界を探求し世話をするようにしました。 
第二幕では、人間が創造者の言葉に従うことを拒み、神から離れた人生を選びます。
     その結果は悲惨です。全被造世界が人間の反逆の結末に引き込まれて行きます。
第三幕では、神はイスラエルを選び、神の創造と贖いの目的を達成させようとします。
      イスラエルは民族を形成し一つの土地に住んで、世を照らす光となるはずでした。
     ところがその召しに答えられなかったのです。
    
しかしながら、イスラエルの失敗によって神の計画が頓挫する事はない、
     と神は預言者を通して語りました。
第四幕神はイエスを送ります。世の光となる、というイスラエルの使命を、
     イエスが果たしたのです。それだけではありません。イエスは十字架に
     おいて罪の力に勝利し、死者の中からよみがえり、新しい世界を造り
     始めたのです。またご自身の霊を民に注ぎ、来るべき救いの完成の前味を
     味わわせてくださいました。イエスは天に昇り世界を治める立場に
     着いたのですが、その直前には弟子達を集めて言いました。
     「父が私を遣わしたように、私はあなた方を遣わします。」
第五幕ではエルサレムから始まってローマに至るまでの最初の100年の
     教会の歴史が語られます。
その記録は途中で終わっているのですが、
      教会の使命はイエスの再臨まで、全世界で継続されます。
     神がイエスによってすべてを治めているというこの物語に生きるよう、
      今全ての人が招かれています。
第六幕はこれから起こる出来事です。イエスが再臨し、世界を回復するという
     救いのみ業が完成します。
「すでに」と「いまだ」の間に置かれている意味
聖書というものは「世界の歴史を語る一つの物語」 なのだと語ってきました。
しかしそれだけが大切なのではありません。
自分たちがその物語の中でどこにいるのかを理解するのも重要です。

旧約聖書の人々は、神の国の到来を待ち望んでいました。
これは贖いのみ業の到達点です。
イエスが現れたとき、御国の到来を告げました。ところがそれは期待していた
形ではありませんでした。つまり福音書を調べ、イエスの言葉の耳を傾けると、
神の国はすでにここにあるが、また来ていないとあるのです。
いったいこれはどのような意味なのでしょう。
もし家内が私に、「お客さんはここにもういるけれども、まだ来ていない」と言ったら、
何の事を言っているのかさっぱり分からないでしょう。
「既に、しかし、未だ」という、今の時期にはどのような意味があるのでしょう。   
それはたとえて言うならば、来るべき御国の前味を味わう時期です。
福音書では神の国が宴会に例えられています。終わりが来ると御国の晩餐会を
楽しむ事になるのですが、現在教会にはその前味が与えられています。
御国の前味によって私たちは御国を証する者となるのです。

終わりの日の救いの完成の前味を味わえる理由は何か。


それはその救いを証しするためです。
もう一つのたとえは、神の民は映画の予告編のようなもの、とも言えるでしょう。
予告編では映画の実際の映像を見る事ができ、人はその映画を見たくなる訳です
それと同じように私たち神の民は御国の予告編です。
私たちは来るべき御国の救いを実際に現しているので、周りの人はそれを見て、
自分もそれを手にしたいと思うのです。これが証しというものです。
将来御国が完全に到来する、私たちはそのことを指し示す道しるべです。
私たちは御国がここに既にある事と、将来それが完成することを証ししているの
です
。聖書的な証しとは御国を証しする事、
生活のあらゆる領域で神が王様で
あることを証しすることなのです。
V    二つの誤解
聖書というものが一つの物語だと言うときに、いくつか誤解が生じやすいようです。 
ここで二つ挙げましょう。
第一は聖書は物語でしかない、というものです。
   実際は聖書には他の様々なジャンルの文書が含まれています。
   ニュービギンは「聖書は本質的に物語の形をとっているが、
   祈り、詩文、律法、道徳、その他、物語以外のものも多く含んでいる。」
   「しかし本質的には物語なのであると言っていますが、私も賛成です。
第二の誤解は物語の概念自体に関わることです。
   私が学生だった時、ある日本の牧師先生から聞いた話では、物語神学には、
   物語の歴史性を問わない考え方があるということでした。聖書の物語というのは、
   信仰共同体が作り上げたフィクションでしかない、という考え方です。
   しかし私が物語という時、それは実際起こったことを解釈して述べた
   内容を指します。
聖書の物語に語られていることは実際に起こったことです。
   現実世界を描いているのです。
物語の歴史性は重要です。聖書に書かれている
   出来事や場所は現実世界の一部、現実の歴史の一部です。
   私たちが住んでいる世界と同じ世界です。これは最も重要なことなのです。」
 VI    世界観を明確にする必要
皆さんはアル・ウォルタースの「創造の回復」を学んでいると聞いています。  
そこで今日私が申し上げている事と、「創造の回復」がどのような関係にあるのか
お知りになりたいでしょう。    
世界観というものは、聖書の物語の最も基本的で包括的な信仰を明確にし、
発展させたものです。ここで物語と世界観の関係をはっきりさせましょう。 
物語は世界観の基本となるものです。ライトはこのことを世界観の物語、
あるいは、大きな枠組みとしての物語と呼んでいます。この物語の中に、世界と
人間についての基本的な理解、信仰が含まれるのです。
ですから
世界観というのは、この物語に含まれる根本的な信仰の説明と言えるでしょう。
ウォルタースが「創造の回復」でしたのはこの説明です。
あの本のなかでウォルタースは、
聖書の物語を、創造、堕落、贖いという視点で
説明していきました。
ところが、この本を読んだ多くの人々は、聖書が一つの
物語であることを知らなかった
ということに、アル・ウォルタースは気づきました

そこで数年前アルと私は彼の本にもう一章付け加えたのです。その章の名は「物語と
使命をつなぐ世界観」
という長いものになりました。その章が日本語に訳される
予定があると聞いています。その章の内容を一言で言いますとこうなります。
「神は人間生活のすべての分野を治めている。それを知らしめる使命が教会に
与えられている。」
アルが「創造の回復」でしたように、聖書の物語の世界観、あるいは基本的な信仰を
明確にすることによって、教会は自分に与えられた文化的使命と宣教の使命をより良く
果たして行く事ができるのです。今晩のこのお話しが多少でもその方向で助けとなり、
アル
の本の正しい理解につながることを願っています。